2018年9月2日


「真の王は誰であるのか?」
使徒の働き 12章18〜25節

1.「ペテロに逃げられたヘロデ」
 このところは厳重で頑丈な監視にもかかわらずに、ペテロに逃げられてしまったヘロデ・アグリッパのことが書かれています。
「さて、朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵たちの間に大騒ぎが起こった」18
 ペテロへの監視は強固でした。ペテロは牢獄に鉄の鎖で繋がれ、4人一組の兵士が、四組で交代、つまり24時間体制で監視され、夜はペテロを挟むように2人の兵士が一緒に寝て、絶対逃げられないような体制でした。しかも牢獄を出たとしても、二重、三重の衛所があり、最後は、鉄の門が閉められています。王も、兵士達も、まさか逃げられようなどとは微塵にも思ってもいませんでした。そんな中、ペテロがいなくなったのですから大騒ぎです。それは兵士たちにとっては命に関わることでした。
「ヘロデは彼を捜したが見つけることができないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じ、」19節
 ヘロデは、ユダヤ人の人気を集めるためにヤコブを殺し、ペテロを逮捕し牢獄に入れました。そしてペテロが牢獄から出たのは、ペテロがユダヤ人の前に引き出されるはずだった日の直前の夜のことです。ですからヘロデも計画ではユダヤ人にこれぞと見せつけ、自分の人気を確かなものとするために、ペテロを公衆の面前で尋問し処刑することだったことでしょう。それは彼のメンツを保ち、プライドを誇示し、王であることを見せつけるためには大事な時として待っていたのです。ですからヘロデも必死になって探させたことでしょう。そしてその欲求を妨げられた腹いせは兵士に向けるのです。当時の番兵は勾留中の罪人から逃げられることは、死罪に当たる責任を取らされたと言われています。16章では、パウロとシラスが牢獄に居られる場面がありますが、そこでも大地震で牢獄が開いてしまい、パウロとシラスだけでなく、全ての罪人が逃げてしまったと思った番兵たちは、処刑されると思い、自ら自害しようとする場面も書かれています。

2.「世の王は「自分のため」」
 そのようにヘロデ・アグリッパは、ペテロがいなくなったその責任を取らせるために、番兵たちを処刑するように命令したのでした。しかしペテロの逮捕と処刑の計画も、そして、この番兵の処刑も、あくまでも王の人気取りのため、彼のメンツ、プライド、地位の誇示を動機とするものです。しかしそのような動機は、世の王、世の為政者にはよくあることです。何より、聖書はそのことを神様からの証しとして伝えているところを思い出します。サムエル記第一の8章。イスラエルには王がいなかった時代。その時代は、サムエルというさばき司と呼ばれる、神の言葉、神のみ心を伝え、解き明かす人が、長老たちに神のみ言葉を与え治めていた時代でした。しかしサムエルが年老いたとき、イスラエルの長老たちは、サムエルが死んだ後の、新しいさばき司が与えられるように祈ってくださいとは言わずに、ほかの周りの国々のように王をくださいとサムエルにお願いするのでした。サムエルはその言葉を良く思わなかったのですが、それでも神に祈って伺いました。その時に、神はサムエルに言うのです。民の言うとおりに王を立てよと。それは民をこれまで導いてきたわたし自身を退けたのだと。そしてそのように民を治める人間の王の権威とはこのようなものになると民に聞かせよと。そう言って人間の王とはこのようなものだと神は言葉を与えるのです。第一サムエル記の8章10節以下18節まで書かれていますが、要約すると、その人間の王は、あなたの息子をとり戦に行かせ、娘を取り、自分のためにパンを焼かせ、あなたの畑を取り上げて自分の家来たちに与えると。そのように人間の王は、自分のためにあなた方のものを取り上げるものになるであろうと。これは神はご自身との対比としてそのことをいっています。つまり主なる神は、自分のためではなく、あなた方のために、全てを与え、導いてきたが、その人間の王様は、その逆であり、あなた方のためではなく、自分のためであり、与えるのではなく、取り上げるのだと伝えるのでした。しかし、それでもイスラエルの民は、「王が欲しい」と言ったのでした。神はその通りにその民に王を与えますが、それはあのサウルに始まり後のイスラエルの王は、その神の警告した通りの王になっていきます。あのダビデでさえも、優れた王のようでありながら、しかし自分の力を奢り、慢心した時にそ、バテシャバをその夫からまさに「取り上げ」、「自分のものとし」その夫を殺すわけです。「自分のため」です。あるいはダビデは豊かに増えた民の数を、自分の功績と栄光であるかのように「数えさせた」時に、神の怒りが彼と民に下り、天の御使いの剣が振り下ろされる寸前のところまで行きました。しかしダビデは神の前に悔い改めたからこそ罪赦され、滅びから救われました。もちろん、人間の王、為政者は、社会の秩序と政治的な平和のためには必要なものです。そして神もその政治、社会を治めさせるためにその権威を与えていると聖書にはありますし、それに従いなさいともパウロはいっています。しかし、そのような王や為政者は、決して神とも神の代わりともなり得ないことをも聖書は伝えているのです。むしろその性質は神がサムエルに語ったとおりいつも変わらない。為政者は自分のために支配するし、そして正しく治めるどんな優れた王様であっても不完全であり、神の前には悔い改めが必要であると言うこと、そして悔い改めの無い王は自分が神のようになり、それを人に求め自ら偶像になりうると言うことを神は警告していると言えるでしょう。

3.「力を誇示する王」
 この所は、まさに自分の人気のため、地位と権力の確立のために、その力を駆使して、神に祭り上げられて行く、ヘロデ・アグリッパの姿があります。見てきた通り「自分の人気のため」という動機のゆえに、彼は人の命を支配し欲望のままに殺しています。ヤコブに始まり、そしてペテロは未遂に終わりましたが、その責任は、番兵に取らせました。非常に残酷なのですが、しかし先ほども触れましたように、あのダビデも自分の欲のために人を死に追いやっていますから同じです。そして20節では敵意を露わにするツロとシドンのことが書かれていますが、ツロとシドンは、ヘロデの国から食料を供給していたのですが不仲であったようです。しかしヘロデの敵意を察し、ツロとシドンは和解を求めるのです。それは王の強権が、食料の供給の停止のみならず、そのようにすぐに暗殺や逮捕をするような王が自分たちに災いをもたらし得る、そんな敵意であることを彼らは察したことでしょう。ヘロデは「自分のために」教会を迫害し、ヤコブを殺し、ペテロを逮捕し、「自分のために」強権を顕示し、見せつけ、王としての地域と名誉を確立していこうとしていくのでした。そしてヤコブの件で、ユダヤ人に気に入られ、自分に敵対するものをも服従させ彼は自信満々に王座につきます。
「定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説をはじめた。」21節

4.「民衆の「神の声だ」と讃える叫びーそこに救い主はいるのか?」
「そこで民衆は、「神の声だ。人間の声ではない。」と叫び続けた。」22節
 そこでユダヤの民衆は、ヘロデとその「声」を賛美します。神、神の声とさえ讃えます。そんな演説。王座でした。これは実に民衆の前に立つ、ヘロデとイエス、そして王の演説と福音、ヘロデの声とイエスの言葉が、対照的となっていることに気づかされます。イエスの福音と神の国に対しては、彼らは結局は「ノー」と言いました。ユダヤ人宗教指導者達に扇動されたとはいえ、彼らは、イエスを罵り「神なら自分を救ってみろ」と言いました。重罪人のバラバを釈放し、このイエスを十字架で殺せと叫びました。神である方を「神ではない」といい退けた瞬間でした。一方で、この自己顕示欲に溢れた、ナルシストである王とその演説を、民衆は「神の声だ。人間の声ではない。」と讃えるのです。しかしそれこそが、罪深い人間が見た目にのみ流され多いにして取ろうとする選択であるでしょう。だからこそ、聖書にある通り、十字架も福音も、知恵を求めるギリシャ人には愚かに見え、しるしを求めるユダヤ人には災いであっても、救いを受けるものにとっては、救いの言葉、神の力であるということが尚のこと私たちには見えてきます。罪深い人間の、欲求と感情の求めは、むしろこのように、華やかな王座と自信に満ち、権力と繁栄を誇示する王とその言葉を求めるのです。ヘロデの権力と演説に「神の声だ。人間の声ではない。」と。しかし聖書が示す大事な現実ですが、そこに救い主はいないのです。ではどこに神は救い主を現されたでしょうか。神が示された本当の王座は、知恵を求めるギリシャ人には愚かに見え、しるしを求めるユダヤ人には災いである、あの十字架にこそ現されたでしょう。実にこのヘロデとその言葉は、イエスとその言葉との対称であり、ヘロデとその言葉に対する民衆とその叫びは、イエスとその十字架と福音の言葉に対する民衆の叫びとの対称であることを示し、そして私たちの本当の王座は何かを気づかせてくれるのです。それは私たち自らでは決して気づくことができません。罪深い私たち人間の普通の叫びは、ヘロデのような目に見えて力あり、華やかで人気があり自信に溢れた言葉にこそやはり「神の声だ」とでも言わんばかりに崇拝することでしょう。しかし今や、このヘロデとイエスを前にするときに、私たちは神が示し与えてくださった本当の王は、ヘロデではなくイエスであると気づき信じることができることはなんと幸いでしょうか。その信仰こそ賜物であり、福音と聖霊によるイエスからのプレゼントであり、その信仰のゆえに私たちは罪の赦しと平安、希望と自由をいただいているのです。イエスこそ王であるとここから気づかされる恵みに感謝したいです。

5.「人間が讃える王の栄光は、一匹の虫によって滅ぶ」
 事実、12章は「イエスこそ真の王である」ことこその証しではありませんか。人間が「神の声だ」と崇めるその王、そしてその王が権力と暴力を駆使した絶対逃げられないはずの牢獄と監視から救い出し解放したのはイエスが使わしたみ使いでした。さらには弱り果て、疑いと絶望に沈み、もうペテロは死んだ、女中のロダが門の外にペテロがいるという声を聞いても信じられず、死んだペテロが御使となって現れたんだと言っていた教会の人々の、その絶望を希望に変え、疑いを信仰、喜び、賛美に変えたのはイエスであったでしょう。それはヘロデは与えることはできません。ヘロデは名声と人気を得るために民に媚びたとしても、結局は、自分のために民から奪い、苦しめるだけです。しかし12章ではイエスこそ、力強く、全ての登場人物の思いや計画や自信をはるかに超えて働いています。そして、その「神だ」と「神の声だ」と崇められるヘロデですが、結局はどうなるでしょうか?民衆が「神の声だ。人間の声ではない」と叫び続けた直後です。
「するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫に噛まれて息が絶えた。」23節
 プライドと自己顕示の強い、力で人を従わせ、神だと民衆から叫ばれるその王、ヘロデ、彼は主の使いによって打たれます。ペテロを救ったのも主の使いでしたが、ここではヘロデを打つためにも遣わされます。それは「神に栄光を帰さなかったから」とあります。この「栄光」というのは神にのみあるものです。ですから神こそ、神のみが栄光を表すことができる方です。しかしヘロデは、神に栄光を帰さなかった。それは自分の栄光を自分で表そう、実現しようとした。ゆえに打たれたというのです。このところは示唆があります。栄光は神のものであり、神が現し実現するもののみが真の栄光です。ですからモーセは神の栄光を見ることさえできず、神が通り過ぎるときの背中しか見ることができなかったとあります。私たちは本来は神の栄光を見ることができない。しかし聖書は、「一人子としての栄光を見た」とあるように、イエスとその十字架と復活にこそ神の栄光が現され、私たちはイエスに、あるいはイエスを通して神の栄光を見ることができると教えられています(ヨハネ1:14)。ですから、神の栄光というのは、私たちが現すことでは決してない、いやそれは不可能です。むしろそれは神がなそうとすることを人がなそうとするのですから、ヘロデとそんなに変わらないですし、神を神としていないことになります。そんなヘロデは打たれてしまいました。そのように人は虫に噛まれ滅びるほどに弱いです。どんなに力と行いで自分の正当性、正義、栄光を誇示できたとしても、小さな虫の小さな一噛みでその命は絶たれてしまうということです。もちろんその小さな虫こそが御使いの一打であったわけですから、それは地上のいかなる優れた力ある王でも、神の遣わす小さな力の前にいかに弱く朽ちゆく存在なのかを私たちに伝えていると言えるでしょう。

6.「主の言葉こそ盛んになる」
 そしてルカは実に象徴的にこう結んでいます。
「主のみ言葉は、ますます盛んになり、広まって行った。」24節
 人は草のように枯れ、散りゆくもの、その栄華も、名声も、草のように枯れていきます。ペテロが聖書の言葉から引用しています(第一ペテロ1章24?25節)。そうです私たちはどこまでも衰えて行くものです。どんな信仰者であってもです。バプテスマのヨハネは、ヨハネの福音書の3章27節以下で、「人は天から与えられるでなければ、何も受けることができない」 (27)と言い、イエスを指し示して「彼の方は盛んになり私は衰えなければならない」(30)と言いました。しかしそれはイエスが盛んになることこそ、救いの到来、婚礼の花婿がやってきた喜びの時であり、ヨハネは自分はそのことをこそを喜んでいると言っています。人は衰えます。しかしイエスこそ王、私たちの救い主、助け主、その方が盛んになる。それこそ真の神の国であり、私たちの喜びとなることをヨハネは言いました。人間ヘロデの神のような声は、一匹の虫によって絶たれました。しかし主の言葉は、ますます盛んになり広がって行った。それこそ永久に残るものです(第一ペテロ1章25節)。その言葉に生かされていることを心から喜びましょう。