2018年7月22日


「散らされた人々を通して」
使徒の働き 11章19〜21節

1.「律法を打ち砕き導くイエス」
 11章に入り、そこではエルサレムへ帰ってきたペテロに対して教会の同胞から批判が起こったことから始まっていました。その批判は、ペテロが、ユダヤ人以外の人々と交わり彼らに洗礼を授けたことでした。というのもキリスト教の宣教はエルサレムから始まりましたが、ペテロやイエス・キリストの使徒たち、最初のクリスチャンたちは、当初は、ユダヤ人だけへイエス・キリストの福音を伝えていました。それはイエスがように「ユダヤ人だけ」と言ったからではありませんでした。イエスはむしろ宣教の命令では、「あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)あるいは「地の果てまで、わたしの証人となります」と言っていたのですから。しかし弟子たちがなぜそうしなかったのかというと、ユダヤ人の律法では異邦人と交わってはいけないとあったからでした。ですから弟子達も、普通のユダヤ人同様、習慣的に、異邦人とは交わりをしてはいけない、しないという生活にあったのであり、イエスから「地の果てまで」と言われても、その言葉の意味もよくわからず忘れてもいったことでしょう。
 しかしそのような外国人に対して閉ざされた状況を打ち破ったのはイエスご自身であったのでした。イエスは、ローマ兵の隊長でありながら聖書をよく読み神を信じていたコルネリオという人物に現れ「ペテロという人物を招くように」と言います。同じようにイエスはペテロにも現れ不思議な夢を与えました。それは天からあらゆる動物が吊るされ降ろされるという夢で、イエスは「その動物を屠って食べなさい」というのでした。しかしユダヤ教では汚れた動物は食べてはいけないという律法があるので、ペテロは「できない」というのです。しかしそれに対してイエスは「わたしがきよめたものを、きよくないと言ってはいけない」と言い、それが三度繰り返されるのです。それでもペテロは何のことか全くわからないで思い悩んでいるちょうどその時、コルネリオから遣わされた者がペテロの元を訪れますが、そこで再びペテロにイエスの声があり、その呼びに来た人々は異邦人であるけれども「ためらわずに彼らと行きなさい」と言うのでした。そのようにしてペテロは導かれるまま、コルネリオのところに導かれ、二人は出会い、そしてそこでコルネリオから、コルネリオ自身もイエスから語りかけられ招くように言われたことを聞き、ペテロはすべてを悟るのです。イエスは、このコルネリオにもイエス様の福音を伝え洗礼を授けさせるために自分をコルネリオのところに導いたのだと。そのように導かれペテロは異邦人であるコルネリオとその家族、部下達に洗礼を授けたのでした。エルサレムの教会のペテロへの批判は、そのことに対する批判ではあったのです。しかしペテロはそのように批判する仲間達に、そのように初めから絶えること無く導いていたイエスの導きについてそのままを証しし、イエスがこのことを御心としておられ、イエスが律法に縛られた自分たちの頑なな心を打ち砕いてその御心を果たされたのだと伝えたときに、初め批判していたエルサレム教会の人々も、批判をやめ、そのイエスの人の思いを超えた導きと恵みを喜び、賛美したのでした。

2.「宣教のみ言葉はどのように実現して行くのか」
 このように福音の宣教や、その宣教の広がり、前進というのは、人間はむしろ無力であり、最初の弟子達も律法や慣習や伝統に縛られていて、彼ら自身ではイエスの目的である「あらゆる国の人々」「地の果てまで」は広がっていくことは出来ませんでした。しかし、それを打ち砕いたのは、イエス自身であるということが、何よりのコルネリオの出来事の証であり、私たちへのメッセージであったのです。そのことはこのところでも全く同じで、むしろイエスのそのような働きは、それ以前、そして教会最初で最大の悲劇を通してこそ、すでに始まっているという不思議がここでは証しされているのです。
A, 「ステパノのことから」
「さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んでいったが、ユダヤ人以外の者には誰にもみことばを語らなかった。ところが、その中にはキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシャ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。」」19節
 このところには多くの示唆がありますが、何よりここでも、最終的には「ユダヤ人だけ」という律法の壁が砕かれ異邦人に伝えられることが書かれています。しかしそこで改めて示唆されていて、私たちの思いを超えているのは、その最初のきっかけはあの悲劇から始まっているということに気付かされることです。それは「ステパノのことから」始まっているのです。ステパノの出来事は見てきた通りですが、簡単に振り返りますと、エルサレムで教会が始まり、福音が伝えられ、多くのユダヤ人が救われ、教会の人の数、クリスチャンの数も増えて行きました。急成長したわけです。そして多くになるにつれて教会を管理する人々が必要になり、敬虔な7人が選ばれ執事が立てられました。ステパノはその7人の中の一人で評判のいい人でした。その状況はまさに「人の目」から見れば、「上手くいっていてこれからさらに」という上昇の流れであったのですが、しかしそのステパノが「キリストを伝えていた」という理由で逮捕、尋問され、石打ちの刑で殺されるのです。それがこの19節にある「ステパノのこと」であったのでした。しかしそれに終わりませんでした。19節でも「ステパノのことから起こった迫害」とあります。それは、このステパノのことをきっかけにエルサレムの教会では「大迫害」が起こり、使徒達以外の信徒達は皆「散らされ」てしまったのでした。何千人も救われ、大きくなり、執事も立てられ、人間の目から見れば、成功であり、右肩上がりの急成長であり、上手くいっている状況でした。しかしそんな最中、教会のリーダーが殺されたことだけでなく、教会にとっては大きな挫折であり、まさに大打撃であり大試練です。何千人もいたのが、牢獄に入られたり、遠くに散らされてしまったのですから。これは人の目からみるなら「どうして?」「なぜ?」という状況です。私たち人間の価値観、成功観から見るなら、神のなさることは全く理に合わず、不条理、非合理的、意地悪にも見え、神の存在を疑いたくなるような状況に陥りました。
B, 「散らすことを通してイエスが」
 しかし、そこには人の思いを超えたイエス様の大いなる計画とその実行がまさにありました。それは迫害にによって散らされたからこそ、エルサレムからさらに広い地域へとクリスチャンが広がり、そこでそのクリスチャンたちはそこにいるユダヤ人たちに福音を伝えることができたのでした。迫害があって散らされ、ステパノのことがあったからこそです。そしてその時、10章で見てきたように、使徒たちでさえも律法に従って、ユダヤ人以外に福音を伝えていませんでしたが、しかしその散らされた時に、8章ですが、執事の一人の一人であるピリポという人物は、ユダヤ人とは仲の悪いサマリヤ人にも福音を伝えて洗礼を授けたり、エチオピアの宦官との不思議な出会いによって、彼に聖書の預言からイエスの福音を伝え、その宦官に洗礼を授けたことがありました。そのピリポに語りかけ、宦官に語りかけるように導いたのは、他でもないイエスの声であったでしょう。
 それらの出来事から分かることは、もし彼らに迫害も試練も起こらず、急成長のまま、順風満帆で、人の計画や思いや満足のままで教会が歩んでいたなら、エルサレムからの広がり自体はあったとしても、ユダヤ人以外の人々へ、まさにイエス様がいっていた「あらゆる国の人々」「地の果てまで」イエスの証人となっていく、イエスの福音が異邦人にも宣教されていくということにはならなかった。教会はユダヤ教の一派として終わっていたことでしょう。人の性質として、人は伝統と律法に縛られ易いものであり、事実、使徒たちでさえもそこを打破できなかったし、ペテロに対して非難が出ている事実からも、打破しなければいけないとも思っていなかったのです。イエスが「地の果てまで」「あらゆる国の人々」といっているにも関わらずですです。そのように人の思いや計画では、打ち破れない伝統と律法の壁であったのですが、それを破っているのはイエスであるということです。しかも人が予期しない、思いもしない、望みもしない、兄弟の死、リーダーの死、迫害、散らされることを通してです。そしてピリポに働き、そしてパウロに対しては、アナニヤにも働いていました、そしてペテロにも働いていたイエスの語りかけ、イエスの言葉を通してです。このように使徒達の思いや意思や行動力やその他の何らかの力ではない、イエスの言葉こそが、彼らにすることを、導き、励まし、力を与え、そのことをなしてきたのでした。イエスの計画の実現を、イエスご自身がです。
C, 「福音の力が」
 それはこのところでも同じです。前回まで見てきたように、エルサレムの教会では、ペテロの証しをとおして、イエスの「異邦人宣教」というみ旨を、ようやく悟ることができましたが、しかし方々に散らされたクリスチャンたちは、ユダヤ人以外の人々には福音を宣教していませんでした。律法に忠実ではあったのです。しかしこうあります
「ところが、その中にはキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシャ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。」20
 その散らされた中には「キプロス人とクレネ人が幾人かいて」とありますが、それは外国生まれのユダヤ人のことで、そのような外国生まれのユダヤ人がこの時代かなりの数がいました。エルサレム教会では、エルサレムに帰っていたそのような外国生まれのユダヤ人たちにも宣教はされ、多くの外国生まれのユダヤ人も洗礼を受けていました。その人々のことを指しています。そのような散らされた人々の中には、地中海地方のキプロスやクレネ出身のユダヤ人も何人かいたのです。彼らは、ギリシャ語を話す人々ですから、ギリシャ文化の中で生まれ育ってきた人々でした。ですから異邦人と交わるなという律法があったとしても、彼らはイスラエルに帰還するまでは、ギリシャ人社会の中で、交わり生活することは避けられないこと、いやむしろ当たり前のことでもあったことでしょう。そんな彼らはアンテオケに来た時とありますが、アンテオケは現在のシリヤの西側にある都市で、シルクロードの出発点と言われる場所で、当時はローマ帝国第三の都市と言われていました。ですからギリシャ人、ローマ人はもちろん外国人が沢山いる都市なのです。そんな環境のアンテオケなのです。そのアンテオケで、ギリシャ語を話す外国出身のユダヤ人クリスチャンは、そのギリシャ人たちにも「語りかけ、イエスは主であると伝えた」のです。それは大きな行動であったであったでしょう。それまでにはしていなかった事なのですから。しかしユダヤ人でありながら、同じ文化で育ってきた人々を見て、彼らは、キリストの素晴らしい知らせ、福音をユダヤ人だけのものとすることはできなかったのでしょう。その自分と同じギリシャ文化の影響を受けているギリシャ人たちにも、イエスの福音を話さずにはいられなかったのでした。しかしそれが律法ではない福音の力です。福音から生まれる衝動、その「素晴らしい知らせ」をぜひ伝えたいという動機こそ、律法や伝統を越えさせます。そしてそれは、イエスは散らすことを通して、しかも生粋のユダヤ生まれのユダヤ人や使徒たちではなく、外国生まれの名もないユダヤ人たちを通してという、人が思いもしない方法で、ここでもそれまでの「ユダヤ人以外のものに誰もみ言葉を語らなかった」という大きな壁を越えさせて、異邦人への宣教が進められていくことがわかるのです。そのようにして人の思いや計画やそれによる行動でもない、いやむしろ彼らが理解できず忘れていた「あらゆる国々の人々を弟子としなさい」「あなた方は地の果てまでわたしの証人となる」という約束は、イエスご自身が、福音の力で、信仰者一人一人を用いることによって、実現していくのだということが教えられるのです。それは「散らされた時」から始まっている。いや「ステパノの処刑の時から」イエスには全て見えていた事、まさに全てはイエスの「御手の中にあって」のことだったのです。だからこそ21節はこうあります。
D, 「主の御手がともにあったので:宣教は御霊と御力の現れ」
「そして、主の御手が彼らとともにあったので、大勢の人が信じて主に立ち返った。」
 と。外国生まれのユダヤ人クリスチャンたちはギリシャ人たちにもイエスを伝えました。そして大勢の人が信じて主に立ち返りました。しかしそれは彼らに力やなんらかの説得力のある言葉があったからではありません。「主の御手が彼らとともにあった」からです。使徒であるパウロでさえもこう言っています。
「そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行われたものではなく、御霊と御力の現れでした。それはあなた方の持つ信仰が人間の知恵に支えられず、御力の現れでした。」第一コリント2章4〜5節
 このように宣教は、律法ではなく、つまり「しなければいけない」という律法によって導かれるものではなく、それは福音です。イエスの御霊と御力の現れであり、しかもそれは信仰者である私たちを用いてなされるものであるのです。しかしその御霊と御力を「律法」は私たちに与えることは決してできません。それを与えるのは福音のみ、キリストのみであり、キリストの十字架ではありませんか。そしてその福音によって救いの確信と喜び、平安と力が与えられるからこそ、福音を真実を持って証ししていくことができるでしょう。「恵みの福音」を伝えるはずなのに、律法を動機にして行うなら、そこに矛盾が生まれます。その矛盾こそが、クリスチャンを苦しめ、重荷を追わせ、疲れさせます。律法を動機にしては、人は知識としてキリストを語ることはできても、御霊と御力によって真の福音の素晴らしさを伝えることは決してできません。宣教はイエスの御手のわざです。福音のわざなのです。福音こそが動機、私たちが福音によって平安を与えられるからこそ、福音をまず受けるからこそ、福音を伝えることは始まって行く、それは、まさしく御霊と御力の現れなのです。
 今日も変わることなく福音を受けましょう。今日もイエスは、罪深い私たちのためにこそ、十字架のことば、福音を語ってくださっています。「あなたの罪は赦されています。安心していきなさい」と。今日もそのようにイエスによって心も霊も新たにされ、ただただイエスによって救われている喜びと平安に満たされ、ここから遣わされて行こうではありませんか。