2018年6月24日


「キリストは全ての人の主」
使徒の働き 10章36〜43節

1.「キリストを伝えるために」
 ローマ軍の隊長コルネリオと使徒ペテロは、イエスの言葉、そして、そのどちらも全く予期も思いもしない不思議な導きによって出会うことになりました。そこにはイエスの目的がありました。それは神を待ち望んでいる敬虔なコルネリオではあっても、まだ救い主キリストのことを知らず、洗礼も聖霊もまだ与えられていませんでした。そこにイエスがコルネリオのところにペテロを遣わす意味がありました。それはコルネリオやその家族にもキリストこそ約束の救い主であることを伝えイエスの名による洗礼に与らせ、イエスからの聖霊が与えられるためでした。ですからペテロはイエス・キリストを語り始めるのです。

2.「キリストは全ての人の主」
「神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストは全ての人の主です。」36節
 ペテロはこのようにイエス・キリストを、コルネリオとその家族、そしてコルネリオの部下たちにも伝えるのです。このイエス・キリストは全ての人の主であると。
A, 「全ての人の主」
 この言葉には多くのメッセージがあります。まず「全ての人の主」とあります。それはペテロに起こった出来事を思い出させます。ペテロはユダヤ人の伝統として異邦人であるローマ兵との交わりはしませんでした。ですから異邦人にも福音が伝えられているという本来の福音の意味をまだよくわかっていませんでした。イエスが、福音は世界中に宣教され「あなた方は地の果てまでわたしの証人となる」と言ったたのにも関わらずです。しかしイエスから「天からの動物」の幻が与えられ、それらを「食せよ」と言われたのを「汚れたものを食することはできない」とイエスの命令を拒むペテロに対して言われたイエスの言葉「神が聖めたものをきよくないと言ってはいけない」という言葉が与えられ、さらには、突然訪ねてきたコルネリオの遣いであるローマ兵についても「ためらわずに行きなさい。わたしが彼らを遣わしたのだから」という言葉と、そしてコルネリオにも働いてたイエスとその言葉のことを聞き、ペテロはこの異邦人たち、つまり地の果ての全ての人々のためにも、イエスは福音を与えてくださっており、そのためにこそ自分はここに遣わされたと知るように導かれました。その確信が「イエス・キリストは全ての人の主です」に現れているのです。ここに私たちへの幸いがあります。イエスは福音、十字架と復活の救いを、決して、イスラエル人だけのものとしませんでした。まことの神はそんな限られた小さな神ではありません。その愛も、世界の一地域の一民族だけへの愛というように小さなものでもありません。いや、ローマ兵は、イエスを鞭打ち、唾をかけ、罵り、辱め、処刑した人々であり、皇帝を崇拝するような人々でした。しかし人の目からみれば、敵であるような人々さえも、イエスは「地の果ての全ての人びと」から決して除外していないのです。実に「イエス・キリストは全ての人の主です」は文字通りの真実な言葉なのです。ですからその「全ての人」には当然、私たち一人一人も含まれています。イエスが「地の果てまで」といえば、偽りなく「地の果てまで」です。イエスが「誰でもわたしを通るなら救われます」と言えば、その通り「誰でも」なのです。それには一切例外がありません。事実、イエスのその行動は、世が見捨てた人々のところにも行き、友となり、一緒に食事をし、神の国の福音を伝え、「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人のものだから」と伝えたのが、福音書が伝える私たちへの証しです。「このイエス・キリストは全ての人の主です」ー私たち、それは、クリスチャンもまだ洗礼を受けていない人も、その「全て」の中の一人です。ですからイエスは「私たちの主」ともなってくださっています。ぜひ安心してください。そして36節前半に大事なメッセージがあります
B, 「キリストによって「平和を宣教べ」
「神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え」
 と。神は私たちの全ての主としてイエスを与えてくださいました。それは「平和」を伝えるために他なりません。いや「伝えるため」だけでなく、イエスは「平和」を「与えて下さった」方です。平和は、安心、平安とも同様の言葉です。イエスは復活の日、「平安があなた方にあるように」と弟子たちのところに現われています。イエスは一人の罪深い人に「あなたの罪は赦されています。?安心して行きなさい」と言って下さっています。そして最後の晩餐の席、つまりイエスが十字架にかかる直前にも、素晴らしい約束として言っています。
「わたしは、あなた方に平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。」ヨハネ14章28節
 イエスが宣教し与える「平和」の鍵は、このイエスの言葉にあります。それは世や人が「目指す」「達成する」不完全な平和とは違う、「神から」の平和、私たちが得ることも達成することもできない、イエスからの特別なそして真実な平和のことに他なりません。,
@平和「世の平和とは違う、神からの平和」
 ここにある「平和」は世がイメージしたり、伝え、求め、目指すような「平和」とは異なります。人の「正義」の話をしました。それは人によって違うものであり、人の正義はぶつかり合う矛盾という現実があるものだと触れましたが、人の平和も同じで、人が目指し理想とする平和も「正義」同様、百社百様です。どの国のどの思想も平和を唱えます。ナチスもスターリンも、共産主義も、「平和のため」と訴え、国民も扇動されて行き、戦争になったり、それが虐殺にもなりました。そしてそれに対抗する国々も平和のためと二つの大戦に突入するだけでなく、朝鮮戦争、ベトナム戦争、今も戦争は耐えることがありません。大義は正義、平和のためです。そのように人間の平和は、国や人の利己主義から左右されないものではなく、つまり左右される決して自由でない限定的で不十分なものです。どこかで平和な人がいれば、「平和でない人」もいて、平和な人のその平和は、平和ではない人の上に成り立ったりしているものです。それは何においても言えることです。
A世の平和「人が達成しようとする平和」
 そして世の中の「平和」の特徴は、「人が達成しようとする」ものです。大抵、「目的に向かって一致して」ということがあります。けれどもその「一致」ということさえ、人は皆、捉え方が違うわけですから、「一致さえ」も不完全で限定的です。ですから、その「平和」を目指すその組織内でも、派閥が生まれたり、争ったりします。そして「人が達成しようとするもの」であるからこそ、それはキリスト教的な言葉でいえば、「律法的に」ならざるを得ません。その「達成する、目指す目的」のために、人に強いたり、要求したりすることが避けられません。もちろん、社会はそのようなことで成り立っているし、それで社会が保たれ、治安が守られ、まさに「一時の「平和」」が保たれるのですから、それはそれで社会にとっては必要で大事なことです。しかし不完全で罪深い社会の、ひとときの秩序と安定のためにはです。
B「律法による平和」「福音による平和」
 しかし、神がイエスを通して伝え与える「平和」はそれとは全く異なるものです。それは何より、社会のように、強制や義務や要求、つまり「〜しなければいけない」「〜してはいけない」という「律法から」生まれ「律法によって」達成される「平和」「平安」ではないということです。それとは逆です。それは「福音を通して」与えられる「平和」「平安」なのです。事実、律法はそれは社会や組織の秩序の安定や発展としての「一時の有限の平和」は生むかもしれませんが、それは心の平安、平和を決して与えないものです。どうでしょう?「平和のためだ」「平和の達成のために」強いられ、要求されて、そのために行動しても、そこには義務感しかありません。希望や達成はあるかもしれません。しかし自分が達成しなければならない希望であり、そこにはやはり義務感、プレシャー、重荷がつきものです。そしてその達成や希望も、人間は不完全であり不条理であり、それこそそれぞれの思いや正義がぶつかるのですから、常に矛盾に満ちています。そして何より心に平安がありません。律法や義務による希望は不安と失望、そして疲労がつきものです。それでも平和があっても、一時の不完全なものにすぎません。そのように、いくら崇高な平和の目標であり、律法、強制や要求、義務によっては、社会の維持のためには必要であっても、しかしそれは本当の心の平安も平和ももたらし得ないのです。

3.「キリストの十字架こそ真の平和の光」
 聖書は、そしてこのペテロもそのような世の人間が達成するような、強制と義務による、不完全な平和のことを言っているのではないのです。まずここで続けて見て行くと、ペテロはその平和の言葉は、「イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました」とあります。それはペテロにとっては当時の聖書である旧約聖書のことです。その旧約聖書の人々を通して神が伝え約束してきたことはなんであったでしょう。そのことそペテロはこの後、伝えています。旧約の約束は、やがてこの世界を救い出す救い主を約束してきました。そしてその前に預言者が送られるとも約束していますが、それは37節にある通り、「バプテスマのヨハネ」のことでしょう。そしてそのバプテスマのヨハネがガリラヤで主の道をまっすぐにするという預言の約束の通り、彼が指し示した救い主は、誰であったでしょうか?38節にあるとおり、ナザレのイエスであったでしょう。そのイエスの知らせこそ、ガリラヤから始まり、ユダヤの全土に広がって行きます。そして、そのイエスは、旧約の約束にあるとおり、傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、世にあっては折られる葦である、罪人の友となりました。
 そしてその旧約の約束が何よりも指し示していた、神がイスラエルの子孫に与えた平和の約束は、この十字架にこそ実現したでしょう。39節以下でペテロはその平和の約束は、十字架と復活において実現し、こう自分たちに明らかにされたのだとし、そしてこう言います。41節
「しかし、それは全ての人々にではなく、神によって前もって選ばれた証人である私たちにです。私たちは、イエスが死者の中からよみがえられた後、ご一緒に食事をしました。イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んでいる者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、その証しをするように言われたのです。イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じるものは誰でも、その名によって罪の赦しが受けられると、証しています。」
 神はイエスを通して平和を宣べ伝えるために約束を与え、そしてその約束を実現された。しかし、それは、世の中の人々や国や社会が用いるような強制や要求、律法によってではない。それは天からの約束である神の言葉、そしてその言葉の通りに実現した、世にとっては愚かでありつまずきである十字架の死を通して。その平和は、イエス・キリストの十字架、十字架の言葉である福音による平和。その平和こそイエス様は与えてくださるし、自分たちもその証し人なのだと、ペテロは伝えているのです。

4.「律法は重荷を負わせ、十字架は重荷を下ろす」
 その十字架は、教会が証しする福音の核心部分です。それは律法と逆を示しています。律法は、先ほども言いましたように、義務であり重荷を負わせ、「私たちが行う」ことによって達成するものです。しかし福音、十字架はその逆です。イエスは罵り、蔑み、鞭打ち、十字架につけるもののその罪を代わりに全て背負って死なれたその証しです。律法のように「負わせる」ものではなく、その逆で、私たちの重荷を代わりに負った出来事が十字架なのです。そしてそれは人間のその重荷の最も重い重荷は、何より神の前に反逆し、愛を持って全てを与え、全てをしてくださる神をないものとして、自分が世界の責任者、中心、自分が神になろうとする、自分中心ゆえの重荷、罪の重荷です。見てきた通り、自分が神になろうとするそれぞれの正義や平和こそが、実は世の中の闇、矛盾、問題ともなっています。自ら神になろうとするその性質、その罪は人間の最大の重荷であり不安であり絶望なのです。しかし、聖書はそんな私達に、キリストこそがその十字架によって、私達の負の遺産を全て背負い、あなた方は神にならなくていい、わたしがあなたの優しい愛の神だからと宣言してくださり、裁くのではなく、重荷を負わせるのでも、重荷の責任を私たち自身に取らせるのでもない、むしろ私たちの重荷をおろしてくださったのがイエスの十字架の出来事であることを伝えているのです。
 そして、私達の心の重荷が十字架で代わりに負われ、その重荷が下されるからこそ、そこに本当の平安、安心、何者にも縛られない、本当の平和があるでしょう。イエスを通して神が伝える平和は、この平和です。私達に重荷を負わせることによって私達が達成しなければいけない平和ではなく、イエスが代わりに全てを追ってくださり重荷をおろしてくださることによって与えてくださる平安であり平和です。そして私達はその平和を、誰かに実現させたり、自分で実現するのではなく、出発点や動機や作用も皆逆になります。つまりまず自分がイエスから平安、平和を受け取ることによって、自分が平和、平安になることから全てが始まる。そのようにイエスにあって自分がまず平安になり平和になるからこそ、その平和を証しでき表していくことができ、そしてその平和、平安は、福音を通してイエスが私達に表してくださることとして、私達から自然と溢れてくるものなのです。それは誰にも強制したり要求したりもしません。まさに良い香りのように、自然と周りに影響を及ぼしていく不思議な力、福音の力、イエスの力なのです

5.「平和を作るものは、神の子」
 「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人のものだから」とある山上の説教で、「平和を作るものは幸いです。その人たちは神の子供と呼ばれます」(マタイ5章9節)とあります。予てからの疑問が言われます。人間が目指し達成しようとするその平和は矛盾と不条理に満ちているのに、なぜ神の子と呼ばれるのかと。それは世の平和、人の達成する平和では決して理解できません。この言葉の意味は、イエス・キリストの十字架にあって、神の平和、神の平安をいただき、その平安を真に知っている人が、人々に平安を分かつことができるからこそ神の子なのです。律法では平和を作ることはできません。それは教会でも同じです。私たちがキリストにあって福音のゆえに真に平和、平安であるからこそ、誰でも神の子となり、真の平和はそこから始まるのです。ぜひキリストにあって私たち自身が平安を今日も受けようではありませんか。そして平安のうちにここから遣わされて行きましょう。