2018年6月10日


「ペテロの思いを超えたイエスの働き」
使徒の働き 10章29〜35節

1.「「ためらわず」は律法ではなく、賜物であり希望」
「それでお迎えを受けたとき、ためらわずに来たのです。そこで、お尋ねしますが、あなた方は、いったいどういうわけで、私をお招きになったのですか。」
 ペテロは「ためらわずに」来ました。それだけでなく、そこに何があるのか、どのような理由でいかなければならないのかも、まだこの時点ではわかっていなかったことがわかります。先が「わからない」と言うことは不安なことです。ペテロも同じ人間なのですから、その不安も私たちと同じで変わらないはずです。しかしそれれでも「ためらわずに」来たのは、繰り返しますが、イエスの「ためらわずに行きなさい。わたしが遣わしたのです」の言葉があったからです。そして、その「ただイエスの言葉に従う信仰」と言うのは確かに素晴らしい信仰です。しかしその信仰は、ペテロ個人にある力ではなく、イエスによって与えられイエスによって導かれたものでありました。つまりここに示されているのは、信仰者の、それこそどこに何のために行くのかわからない、ただイエスの言葉に従うのみの、立派な信仰を前にするとき、「それは私たちには無理だ」「私たちにはそんな立派な信仰がない」ということではないということです。信仰は律法ではなく、福音のわざ、イエスの恵みのわざなのですから、この信仰は「しなければいけない」とか、できないことを要求されているという重荷の律法の視点ではなく、私たちはイエスにある限り、これほど大きな可能性を持っているという「希望の証し」であり、イエスは私たちが求めるなら、それを私たちにもしてくださるのだということを意味していることが教えられるでしょう。何があるのか、何のためであるのかわからない、ただイエスの言葉に従った信仰は、私たちの目にあっては無理で不可能なことであっても、イエスにあるなら不可能なことは何一つない。ですから、私たちは、希望を持って、そのイエスが信仰を強めてくださるその働きをいつでも求めて行きたいのです。

2.「コルネリオの、みことばへの従順」
 さて一方のコルネリオもそう尋ねられて、ペテロも何のことがわからずここに来たことに驚いたことでしょう。しかしコルネリオも、そんなペテロにこう語ります。30節
「するとコルネリオがこう言った。「四日前のこの時刻に、私が家で午後3時の祈りをしていますと、どうでしょう。輝いた衣を着た人が、私の前に立って、こう言いました。『コルネリオ。あなたの祈りは聞き入れられ、あなたの施しは神の前に覚えられている。それでヨッパに人をやってシモンを招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれている。この人は海辺にある、皮なめしのシモンの家に泊まっている。』それで、私はすぐあなたのところへ人を送ったのですが、よくおいでくださいました。いま私たちは、主があなたにお命じになった全てのことを伺おうとして、皆、神のみ前に出ております。」
 コルネリオはまさに彼に起こったその通り、神に語られたその言葉の通りに、ペテロに証しをしますが、彼らもペテロが具体的に何を携え、何をするために来たのかわからないのです。しかし彼の敬虔さはよく現れています。彼は「いま私たちは、主があなたにお命じになった全てのことを伺おうとして、皆、神のみ前に出ております」と言っています。つまり、彼は「主が命じたことは何か、主が語ったことは何か。その全てを聞きたい」のです。そのために「神の前」に出ていると彼はいうのです。彼は異邦人であり、ローマ軍の一隊長でありながら、非常に謙虚ではありませんか。ペテロを拝んでしまったのも、そのあまりの謙虚さゆえであったかもしれませんが、彼は、何より、そのように神の言葉にこそどこまでも聞こうとしている、そして神のみことばをどこまでも待ち望んでいる姿がここにあります。ですから2節にある、彼の「神への恐れ畏み」は、神のみ言葉にこそ向けられていたことが見えてくるのです。もちろん、その時のコルネリオにとってのみ言葉は旧約の言葉であり、つまり律法であり、預言書であり、詩篇でした。それらの全てをもちろんわかっていたことでもなかったことでしょうし、キリストへの知識も信仰もまだありませんでした。しかしそうであっても、このまだキリストを知らない、キリスト教から見れば未信者でありながら、み言葉に聞くものに、イエスは確実に働いてくださり、福音へ、信仰へ、洗礼へ、新しいいのちへと一歩一歩着実に導いていることがわかるでしょう。これは幸いです。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみ言葉によるのです」(ローマ10:17)

3.「み言葉はすべての人へ」
 み言葉に聞いている皆さん。それはクリスチャンもそうでない人もです。み言葉に聞いているとき、自分ではそうは思わなくても、たとえそのみ言葉の意味が十分にわからなくても、そのみ言葉に反対していたとしても、そのみ言葉に聞いていることそのものを、神は覚えていてくださっています。そしてあなたを決して見過ごしたりはされず、あなたに語り続けてくださり、あなたにも働こう、与えようとしてくださっている。「聞くこと」は全ての始まり、「聞いている」人はすでに始まっているのです。ですから、今は、わからなくてもいいし反対しててもいいのです。「聖書に反対するから、信じないから、もう聞かないでください、もうこないでください」という教会もあると聞き、残念に思いますが、私達この教会はキリストにあって、そんなことは決してありません。み言葉に聞くことは、すべての人への神の招きです。信じる人にも信じない人にもです。そして聞き続けるとき、主なる神は、その聞く人に、その人の思いを超えて、豊かに働いてくださるのです。なぜなら、神の言葉は、無から万物を創造し、命を創造した言葉であり、信じない人にも信仰与えることができる、本当に力ある言葉だからです。それがこのコルネリオを通して私たちに語られている一つのメッセージに他ならないのです。ですから、遠慮する必要はありません。何ができなくてもわからなくても構いません。ぜひイエスの言葉、聖書の言葉を聞きにいらして欲しいのです。

4.「やっとわかったペテロ」
 事実、このコルネリオを通して、イエスは、やはり「みことばを聞いて」その通りにやって着たペテロにも、ペテロの思いを超えた素晴らしいことを用意しています。何よりそのわからななかったみことばの意味ははっきりと目が開かれるのです。34節以下
「そこでペテロは、口を開いてこう言った。「これで私は、はっきりわかりました。神は偏ったことをなされず、どの国の人であっても、神を恐れ畏み、正義を行う人なら、神に受け入れられるでしょう。神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え、イスラエルの子孫にみことばをお送りになりました。このイエス・キリストは全ての人の主です。」
 ペテロはここではっきりとわかるのです。幻の意味、そしてなぜ自分はこのコルネリオのところに遣わされたのかをです。それは
「神は偏ったことをなされず、どの国の人であっても、神を恐れ畏み、正義を行う人なら、神に受け入れられる」
A, 「神を恐れ畏み、正義を行う人」
 ここで注意したい言葉は「神を恐れ畏み、正義を行う人」の意味です。この言葉は「行い」が求められているように理解できるかもしれません。つまり「立派な行いを行う人が受け入れられるのか」「立派な行いがなければ受け入れられないのか」と。しかし、まずここで理解しなければいけないのは「神を恐れ畏み」の示すことです。ペテロは、コルネリオの証を聞き、そう言っています。つまり、その証しには、コルネリオがみことばに聞き、みことばを忠実に証しし、みことばをなおも求める姿が現れているでしょう。それがまさにペテロのいう「神を恐れ畏む」であったのでした。そして正義については、人の目から見る正義であるなら、その正義は、百社百様でしょう。現在の世界を見ても、それぞれの国それぞれの正義があります。その正義はそれぞれ違いますし、その正義がぶつかり合ったりもします。同じ国内でも正義は同じではなく、A党の正義もあれば、B党の正義も違いますし、同じ党内でも大統領の正義と、全く異なる正義の党員もいます。それはこの日本でも全く同じですし、何より、身近な自分と自分の隣人の正義も違いますし、家族内でも夫の正義と妻の正義も違ったりします。互いに自分の正義を譲らないので、夫婦喧嘩は起こるのですが。人の正義とはそのようなものです。しかし、聖書で正義というときに、そのような人の正義ではなく、それは神の義、神の言葉を意味していて、「正義を行う人」というのは、自分の正義を行う人ではなくて、あるいは神の言葉を忠実に行う人のことでさえなく、それは神とその義である神の言葉をただ「信じる人」のことを指しているのです。なぜなら、人は神の言葉を完全に行うことは決してできないからです。つまり神の義を人は行うことができないのですが、しかし神はそのようなことを全てご存知の上で、人は神とその言葉を信じることで義とされたと聖書は一貫して伝えているからです。創世記15章6節にはこうあります。これはアブラハムについて書かれた言葉ですが、アブラハムは沢山の欠点も弱さもあった一人ですが、聖書はこう書いています。
「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」
 と。そのところを引用してパウロはそのことを伝えています。ローマ4章2節
「もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神のみ前では、そうではありません。聖書はなんと言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それで彼の義とみなされた」とあります。」
 と。人それぞれの行い、その行いによる正義は、むしろ人は誰でもそれは自分自身を誇るようになるものです。アブラハムでさえも例外ではありません。そんな自分を誇るような正義は、神の前で義であるはずがありません。そうではない、人は神を信じた、その言葉を信じた。それを神は義とみなしてくださったのだ。神の前に正義を行ったとみなしてくださったのだ、パウロは伝えてくれているのです。そのことを踏まえ、本題に戻りますが、ペテロがコルネリオにみたのは、その正義です。もちろん、コルネリオは、まだキリストを信じる信仰とは言えないものです。しかし彼は旧約の神の言葉を聞き、来るべき救い主を待ち望んでいたのですから、それはアブラハムや他の旧約聖書の信仰者たちと同じ信仰です。そのような神の言葉に聞き、神を畏れ待ち望む信仰は、決して神の前に見過ごされることはありません。
B, 「どの国の人のためにも」
 そしてそれだけでなく、何よりここで素晴らしい光は、それは、救いは選びの民と言われたユダヤ人だけのものでは決してない。それまでユダヤ教の律法では排除されていた異邦人であっても、どの国の人であっても、神の前にあっては決して除外されることはないことをペテロははっきりとわかったと言うのです。あの汚れた動物の幻は、その時は全くわかりませんでした。いや、このカイザリヤにやってきた時にもまだわかっていませんでした。しかし、ペテロは、神はこのカイザリヤの異邦人、ローマ人であるけれども、聖書に聞き、約束を待ち望んでいた、そんなコルネリオのことを見過ごさなかった。その祈りも、その愛も全て覚えて、そしてこのコルネリオにもキリストの正しい福音を宣教し、洗礼を受けさせるために、イエスはコルネリオに語りかけておられたことを知って、ペテロには全てが繋がったのです。幻の意味と、コルネリオに導かれたその意味、そして宣教は、まさしくイエスが約束された通りに、「地の果てまで」なのだとわかったのです。

5.「宣教は福音。主の恵みのわざ」
 ここには、素晴らしい恵みがいくつもあります。第一にこれまで見てきた通り、キリストの知識、神の国の知識は、聖書の教え、信仰は、どこまでも「導き」であると言うことです。ペテロが神の御心を理解するまでの、イエス様の、聖霊による、あまりにも豊かな配慮と働きかけ、その導きがはっきりとわかるのです。この監督であるペテロでさえもです。そのようにクリスチャンは、どこまでも聖霊とみ言葉、福音によってこそ、どこまでも導かれていく素晴らしい恵みがまず第一に確認できることです。
 そして、第二に、イエスの宣教は、本当に「地の果てまで」なのだと言うことです。興味深いのはその「地の果てまで」の約束は、使徒の働きの1章にある、イエスが天に昇られる直前の約束です。つまりペテロは「すでに」聞いていたことでした。しかしそれでも、そのペテロであっても、聖霊を受けた後のペテロであっても、その約束の意味をわかっていなかったことがわかります。むしろ「異邦人と交わってはいけない」と言う律法に縛られた。それゆえに異邦人にも福音が宣教され、洗礼が授けられるなどとは、彼はまだわかっていなかったのです。このように「人の知恵やわざ」では、決して、ユダヤ人から世界へ、血の果てまで、と言う福音の広がりはなかったことでしょう。しかし、見てきた通りに、迫害によって、散らされた出来事もありました(8章)。そしてこのように、コルネリオへの具体的な働きかけもあるのです。人の側ではわからなかった、忘れてしまっていた、しかし、主イエスはその約束を決して忘れない。忘れないどころか、このように不思議な、しかし完全な恵みの働きで、イエスは約束を果たしてくださる。そのことがここにわかるのではないでしょうか。そのようにして、福音は、世界へ、地の果てまで、そして私たちのところへもイエスは届けてくださっている、素晴らしいさに立ち返ることができるのではないでしょうか。
 信仰も、その生活も、そして、宣教も、それは、人のわざ、人の功績、律法では決してありません。信仰も、その生活、奉仕も、召命も、そして宣教も、それは律法、重荷ではなく、福音です。恵みです。福音の言葉と聖霊による、イエスの働きなのです。私たちは福音と聖霊の豊かな力によって用いられているにすぎない、素晴らしい存在なのです。そして、誰でも、この福音による新しい歩むに、招かれているのです。ぜひ受けましょう。イエスは、全ての人、特に、このようにみ言葉に聞いている人を、決して見過ごさない、覚えていてくださり、与えようとしてくださっているのですから。