2018年6月3日


「私も一人の人間です」
使徒の働き 10章23〜29節

1.「コルネリオとの対面。ペテロを拝むコルネリオ」
「それで、ペテロは、彼らを中に入れて泊まらせた。明くる日、ペテロは立って彼らと一緒に出かけた。ヨッパの兄弟たちも数人同行した。」23節
 ペテロは次の日、早速、コルネリオから遣わされた3人、加えて、ヨッパの兄弟たちと一緒にカイザリヤへと向かって出かけます。1日がかりの道のりでカイザリヤについた時にはコルネリオは待ちわびていて、親族や親しい友人までも呼び集めてペテロが来るのを待っていたのでした。しかし3節でこう続いています。
「ペテロが着くと、コルネリオは出迎えて、彼の足元にひれ伏して拝んだ。」25節
 コルネリオはペテロの「足元にひれ伏して拝んだ」のでした。思い出して見ましょう。2節を見るとコルネリオは
「彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くのほどこしをなし、いつも神に祈りをしていたが」2節
 とありました。彼は「敬虔な人」でした。全家族で神を恐れかしこんでいました。つまり「神を信じていた」のです。もちろんこの時は「キリストへの信仰」ではまだなかったことでしょう。しかし「神を信じて」いました。しかしここではペテロの足元にひれ伏して拝んでいるのです。9章でも見てきましたように、ペテロは確かに多くの不思議なわざを行ってきました。8年も床に着いている病人アイネヤを癒しましたし、ヨッパではタビタという死んで数日も立っている人をよみがえらせました。死人が生き返ったのですからから神のごときわざです。コルネリオはそのことを知っていたのかどうかはわかりません。しかし見えない神が御使いを通して彼に示したその人は、コルネリオにとっては確かに神にも近い特別な存在です。そのように病気を癒し、死人を生かし、神の遣わすその人、ペテロ。しかしはっきりと言えることは、ペテロは決して、神ではありません。見てきたように、アイネヤの癒しに働いていたのは紛れもなくキリストでした。ペテロ自身がはっきりと言っていたからです。「キリストがあなたを癒してくださるのです」と。そしてタビタをよみがえらせることなどペテロにはできないことです。しかしそれをなしたのは紛れもなくキリストご自身であるのも見てきました。何よりコルネリオ自身も神の言葉があったからこそペテロとの出会いがあったのはわかっていたはずなのです。しかし彼はここでとっさにペテロを拝んでしまうのです。コルネリオは、ペテロその人を、拝む対象としてペテロが何か特別なことをしてくれる、あるいはそのような力がある神のように捉え行動したのでした。

2.「「人を神とする」罪の性質」
 この「人を拝する」「人を神とする」ということは世の宗教ではよくあることですし、日本や世界の伝統的な古い宗教や新興宗教などもそのようにして生まれてきます。しかし「人を拝す」「人を神とする」というのは、信仰の不完全さをも見ることができます。それは正しく神を捉えることができない。「神を神とする」ことが出来ない。むしろ、それは「人の側の」、目に見える感じる並外れた現象、並外れた存在によって、感覚的にそれを神としようとする。拝もうとする性質です。もちろんそれは、宗教の世界でなくても、どのような分野、世界でも普通に起こることです。しかし、本来は不完全な人が神、あるいは神のようになる、されるというのは冷静に考えればおかしいことなのです。けれども、むしろ人は疑問に思うことなく、盲目的にそうなっていきます。そのようにして、事実、「ファッショ」と呼ばれる絶対政治や独裁政治は生まれてくるものですし、それは決してナチスだけでなく、歴史では何度も繰り返されていることでもありますし、それはみじかな組織、企業や教育機関でも起こることです。それはキリスト教でさえも例外ではなく、ある人々にとっては、聖書の使徒たちが、罪もなく間違いもない聖人のように扱われることがありますし、私たちも聖書の信仰者や使徒たちは何か力やわざの上で間違いなどない信仰も完全な特別な存在として見てしまうところがあったりするのです。

3.「わたしも一人の人間です」
 しかしキリスト教は、初代教会の時代からそれを明確に否定することがここにはよく現れています。ペテロはそのコルネリオの行動に対して明確に言います。
「するとペテロは彼を起こして、「お立ちなさい。わたしも一人の人間です。」26節
 ペテロは、自分も一人の人間だと言います。この言葉は何を私たちに伝えているでしょうか?それは第一に、自分に力があるのではないということを意味してます。このことに関しては先ほども述べた通りです。アイネヤを癒すときも「『キリストが』あなたを癒してくださる」とはっきりと言っている通りです。そしてこの言葉は第二に、ペテロは「あなたとなんら変わらない一人の罪人である」といことを意味しています。ペテロにせよ、パウロにせよこのことは何度も繰り返しています。他のところでは「自分はあなた方と同じ人間です」とも言っています(使徒14:15)。そうなんです。ペテロは聖人ではないのです。同じ人間です。もちろん使徒として召されたということは特別であったでしょう。しかし、召しというのは「イエスが」その福音の言葉で恵みのうちに「呼び出し」選び出し任命していることを意味しています。ですから、その召された人の召しの根拠は、その人が何かそのようなそれに値する存在になった変わったから「召された」ということではなく、イエスの選びとその言葉にこそ召しの根拠はあるのです。つまり、ペテロはなんら変わらない一人の人間、罪深いペテロのままであるけれども、イエスがそのように召してくださったから使徒であり監督であり、説教者でもあったのです。だからこそ、ペテロは言います。
「お立ちなさい。わたしも一人の人間です。」
 もし、彼が自分になんらかの特別な力や、ひざまずかれるような理由があると思っていたなら、跪かれたときに、敬意を払われたとき、自分に栄誉が帰されたとき、人はまんざら嫌な気持ちもしないことでしょう。しかしペテロははっきりというのです
「お立ちなさい。わたしも一人の人間です。」
 と。14章の15節の方では、自分を拝もうとする人々に
「どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です」(使徒14:15)
 と言って、その行為を止めるように言っています。ペテロは、そうすることによって、自分が神なのではない、ほかにはない、ただ一人の神を指し示し、コルネリオに、人々に「神を神とすること」を教えているのです。

4.「私たちは神になる必要はない」
 このように、このことは、神を信じていても、神を神とせず、神以外のものを神としてしまおうとする信仰の不完全さと人間の罪深さを教えられるところではあります。しかしここには同時に一つの恵みを教えられます。それは「私たちは神になる必要はない」ということです。それは、私たちも同じように、「わたしも一人の人間です」ということが出来る幸いです。どういうことでしょう。私たちは「神の完全な恵みによって」救われたものです。私たちを救ったのはキリストです。そしてその生活も、良いわざも、奉仕も、聖化も、それは洗礼によって新しく生まれ、死んで天に帰るそのときに至るまで、どこまでも福音の言葉、十字架の言葉と聖霊によるわざです。つまり全てキリストが福音と聖霊によって、力を与え、すべての信仰の道は、キリストがなしてくださる事です(エペソ2:8〜10)。私たちのクリスチャン生活は、キリストのいのちにあずかっているという意味で全く新しい生活であるし、私たちの良いわざも奉仕も、キリストにあってそれは、私たちのわざではなく、キリストのわざです。そうであるなら、私たちの信仰からでる良いわざを、私たちの力であるとは私たちは言わないはずです。しかし、私たちはそうとわかっていても、自分の力で自分の義を立てようとしてしまいます。私自身そうです。わかっていても律法主義に陥り、自分の力で救いや神の国を達成しようとしてしまいます。自分の力や人の力で、だれかの救いを達成しようとしたり、平安を得ようとします。イエスは「わたしが与える平安」と言っているのにも関わらずににです。そして、その自分のわざや力によって、救いの確信を得ようとしたり、自分の行いによって敬虔さを測ったり、逆に救いを疑ったりします。しかしそれはイエスが教え与えた福音に反対することではありませんか。福音とは「神であるイエス様がしたこと、イエス様がしてくださること」という意味です。しかしそれに対して律法は「私たちたちがしなければいけないこと」という意味です。聖書にはその律法によって救われるとも、それによって人は義とされるともありません。しかし人はそうなってしまいます。福音に反することであり、それはつまりキリストに反することであってもです。ですからせっかく神であるイエスがしてくださるのに、「自分で神の前に完全になろう、救いを達成しよう、義を立てよう」「キリスト以外で平安を得よう」それはまさに、「自分が神になろうとする行為」「キリスト以外を神とする行為」です。まさに最初の人々アダムとエバが、「神のようになれる」というその木の実を採って食べたようにです。そしてそれこそまぎれもない罪の性質だと聖書は伝えています。
 しかしみなさん。今やキリストの前にあって、私たちはもはやそうする必要がないのでしょう?私たち自身が、自ら完全になる必要がない。自分で救いを達成する必要もない。自分で義を立てる必要もないのです。いやそれは決してできません。繰り返しますが、それは「キリストが全てをしてくださった」ことでしょう。むしろ私たちはそのようにどこまでも罪人で、自分では自分を救うこともできない存在であったからこそ、神は、そんな私たちのために御子イエスを世に送り、そのイエスを十字架に死なせ、よみがえらせたでしょう。そのイエスの十字架にこそ完全な罪の赦し、復活にこそ新しいいのちをあらわし、その完全な救いを与えるためにこそ、神は御子イエスを私たちに与えたのです。それが聖書の約束です。そうであるなら、そこに私たちは「神になる必要」はもはやありません。自分で完全である必要はありません。自分で救いを達成する必要も、自分で自分を聖化する必要ももはやなくなったのが、救いの恵みの素晴らしさなのです。私たちは今でもただその罪深く不完全なままで、十字架の前に立つ存在以上のものではありません。つまり十字架の前にしか立つことができない存在です。しかしそれはその十字架で私たちはただ悔い改めさせられるとともに、そこでイエスが「あなたに今日も与えるよ」と与えてくれるその十字架と復活のいのちをただ受け続けるのが救いの生活だからです。私たちは神になる必要はありません。私たちもキリストのゆえに「わたしも一人の人間です」といえることはとても幸いなことであるし、神の前に正しいことなのです。むしろ神のように振る舞ったり、罪がないかのように装ったりすることこそ、神に対する欺き以外のないものでもありません。ですから聖餐式もそうです。ぜひ神の前にあって、まさにひとりの人間として罪深い存在だからこそ、そのわたしのためにイエス様は十字架にかかって死んでくだださった、そこに私の救いがあると、イエスが与える聖餐をそのまま受け取ればいいのです。罪深い一人の人間のためにこそこの聖餐は恵みとしてあるのですから。

5.「信仰は律法ではなく福音」
 コルネリオとその家族たち友人たちを前にして、ペテロははっきりと言います。
「ご承知のように、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。ところが神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。それで、お迎えにきたときに、ためらわずに来たのです。」28節
 非常に印象的な言葉は「ためらわずに来た」という言葉です。ペテロはためらいの理由もはっきりと言っています。「ご承知のように、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです」と。ペテロ自身の律法の考えではその通りであったのです。しかしそれを180度変えて、ためらわずに行かせたのは彼の判断、彼の考え、彼の力ではありませんでした。彼が、「神は私に、どんな人のことでも、きよくないとか、汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました」と言っているように「神は」示してくださったのです。そして20節で主はペテロに言いました。
「さあ下に降りて行って、ためらわずに、彼らと一緒に行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」
 と。律法に従った判断を180度覆し、「ためらわず」に行きなさいと言ったのは、聖霊なる主、神ご自身、キリストご自身であり、この導きこそ、彼をまさに「ためらわずに」行かせたのだと、ここにわかるのです。どこまでもイエスの働きだとわかります。信仰さえも。いや信仰こそです。信仰は、このようにイエスの言葉によって強められ前進していくもの、イエスのなそうとすることにイエスご自身が導くものなのです。信仰に始まり信仰に進ませる(ローマ1:17)とある通りです。そして「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみ言葉によるのです」(ローマ10:17)ともある通りです。私たちの信仰は、イエスからの素晴らしい贈り物で、それはイエスは「上げたら上げっぱなしで、あとは自分の責任で育てなさい」とは決して言っていない。イエスはいつでも福音を語りづづけています。それは信仰を与え育てるため、信仰を強めるため、信仰のうちに進ませるためにです。信仰生活はそのように律法ではなく、人のわざではなく、どこまでもイエスの恵みなのだということです。そのことをこの箇所は私たちに証ししているのです。このところは、そのようにクリスチャン生活のはじめから終わりまでの基本を示しています。救いは神の恵みであると。信仰は律法ではなく福音であると。そして、信仰生活も宣教さえも、律法ではなく福音であると。恵みであると。感謝ではありませんか。私たちは今日もイエスの圧倒的な恵み、圧倒的な救いをみ言葉から確信し、主をほめたたえましょう。そして十字架の前に悔い改めと救いの確信を持ってこの聖餐に与り、罪赦された平安をいただき新しいいのちの希望をいただきましょう。そしてここから遣わされていこうではありませんか。