2018年5月20日


「御霊が彼にこう言われた」
使徒の働き 10章17〜23節

1.「思い惑うペテロ」
 「ペテロが、いま見た幻はいったいどういうことだろう、と思い惑っていると、ちょうどそのとき、コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家をたずねあてて、その門口に立っていた。そして、声をかけて、ペテロと呼ばれるシモンという人がここに泊まっているだろうかと尋ねていた。」17〜
 幻が終わって、夢から覚めた後です。まだペテロは「思い惑っている」とあるように、その幻の意味をわかっていないことがわかるのです。しかしそこに「ちょうど、そのとき」とあり、「コルネリオから遣わされた人たちが、シモンの家を訪ねあてて」と続いています。つまりペテロの側では、その幻の意味も、なぜその幻が与えられたのかなど、一切わかっていない中で、そしてコルネリオも彼によって遣わされた側も、そのような幻がペテロに与えられるだろうとかも全くわからない中で、その幻があったことを意味しています。しかしその両者に起こっている出来事は、決して偶然ではありません。まずコルネリオに現れた御使いも、コルネリオへの言葉も、神からの意図と計画を持った働きかけでありました。具体的な場所と建物まで指定され、そこに行き、ペテロを尋ねなさいでした。そして、このペテロへの幻も、まさに神様からのの幻であり、言葉であり、何よりここにあるように、その時まで神はしっかりと定めて現したことがわかるでしょう。カイザリヤからヨッパまで1日がかりの道のりですが、まさにコルネリオの使いがこの皮なめしのシモンの家にちょうど到着するその直前に、幻が与えられているのがわかります。ペテロの側では一切わかりません。コルネリオの側でも一切、わかりません。人の側では計画も予定もありません。全ては神から導かれるままです。しかし、その神の計画、神のなさることは、このように「ちょうどいい」でしょう。人の側ではわからない、しかし神の側ではしっかりとみていて、完全と働かれているというまさに具体的な証しがここにありますね。そして、19節には、まさに決定的な言葉があるでしょう。

2.「「思い巡らし」ではなく、「御霊が」」
「ペテロが幻について思い巡らしているとき、御霊が彼にこう言われた。「見なさい。三人の人があなたを尋ねてきています。さあ、降りて行って、ためわらず、彼らと一緒に行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」
 まだ、ペテロは思い巡らしています。しかしその「思い巡らし」「考え」「熟考によって」神のなさることについての答えは出ません。では、神のなさることへの知識は、どこから、つまり神のみわざを私たちはどのように知るのでしょうか。それは「御霊が彼にこう言われた」とあるところから始まっています。そうです。神のなさることへの知識は、どこまでも「御霊による働き」で、天の神から来るものだとこのところは示しています。「御霊」と聞いても、初めての人はびっくりするかもしれません。幽霊なのかと。「御霊」あるいは「聖霊」とも呼ばれますが、その「御霊」というのは、幽霊ではありません。それは神ご自身、キリストご自身の「霊」であり、目に見えませんが、「神そのもの」として聖書では示されていて、聖書の初めから終わりまで登場し、人のために働いています。その働きについては、イエス様ご自身が説明しているのですが、「助け主」と呼ばれます。「助け主」つまり「助けてくださる神様」という意味ですが、「御霊」は「助ける」働きをするというのです。このところはその一端を見ることができますが、その「助け」は、単なる「補助」とか「サポート」とかを超えて働いていることがわかります。それは「人の思いを超えて、神の計画を、人に働きかけ、実行していく」、そのような「助け」に他なりません。今日、聖書の暦では「ペンテコステ」「聖霊降臨日」と呼ばれます。それは、イエスは弟子たちにやがて聖霊が与えられると約束していたのですが、その通りに「聖霊が与えられた」その日が、このペンテコステ、「聖霊降臨日」です。このペンテコステもクリスマスに並んで、神の救いの恵みを思い起こさせる素晴らしい時に他なりません。今日のところにはそのことが現れています。

3.「ペテロは御霊に導かれ」
 ペテロとは何者なのでしょうか?彼は使徒です。使徒たちのリーダーと呼ばれ、最初の教会であるエルサレムの教会の最初の監督です。しかしペテロは、これらの出来事を、彼ら自らの頭で熟考し、発想し、計画し進めてきていることなどは一切ありません。まさに、一つ一つ、一歩一歩、主なる神、まさに御霊に導かれて、神のなさうとすることへと導かれていることがわかります。そうこのペテロにも確かに、御霊、聖霊が与えられていて、その聖霊が、彼を絶えず、一歩一歩、助けているのです。みなさん、ここに、実にシンプルな、そしてわかりやすい、クリスチャンの姿、そしてクリスチャンとして生きることの恵みと幸いがあります。もし御霊のこの助けがなければ、ペテロのように、私たちは何もできない。神から私たちへの多くのものがあっても、理解できない。「思い巡らして」もわからないのです。しかし、ペテロにそうであったように、このように、御霊こそが私たちにも、み言葉を、福音を、イエスがなされることをわからせてくださり、助けてくださり、私たちの思いや計画をはるかに超えたところへと導いてくださっている。御霊があればこそ、クリスチャンの歩みはあり、御霊があればこそ、御霊に従えばこそ、私たちは「思い惑い」から解放され、「平安」が来る。その証しなのです。皆さん、私たちには聖霊が与えられ、聖霊が私たちをそのように助け、導いていることを感謝しましょう。そしてその聖霊は、誰でも洗礼を受ける人に与えられるというイエスの約束です。この助けに支えられ歩む歩みには、全ての人が恵みとして招かれています。ぜひ信じている人は、恐れることなく、洗礼を受けようではありませんか。

4.「御霊はみことばを通して」
 そして御霊の恵みについては、さらに大事なメッセージがここにあります。それは御霊はどのように導き、働かれるか、ということがここに書かれています。それは「言葉」を通してです。よくクリスチャンの中でも誤解されたり、間違って教えられたりすることがあるのですが、聖霊の働きについて、ある人々や団体などは、聖霊が直接、その人の「感性」「感情」「感動」、あるいは「経験」などに働いて導くかのように強調するのです。だから「み言葉がなくても」あるいは「み言葉があっても」ですが、そのみ言葉を、自分がただ感じるまま、感動するままに示された時が、聖霊が働いている時であり、その感性、感情、感動に従って行動するのが主の導きなんだというのです。あるいは何か特別な経験に神の導きがあると断定して、その経験に基づいて行動するのが大事だという人もいます。しかしそれはキリスト教の信仰では、実は危険だということがわかると思います。なぜなら、結局、どんな素晴らしい感動があっても、あるいは表向きどんなに敬虔そうに、信仰的に見えたとしても、あるいはたとえ聖書のみ言葉がそこにあったとしても、結局、それは、神のことばに基づいているのではなく、どこまでも自分自信の感情、感覚、経験が物事の判断基準になってしまっているからです。これは聖霊の働きでは決してありません。このところでも、ペテロは、自分が感じるままは愚か、その思い巡らすまま、熟考するままに自分で判断して行動したりはしません。いやまさに「思い巡らしている」まさにその時に、御霊は語りかけているではありませんか。もし御霊の語りかけがなければ、その「思い巡らし」の先に、コルネリオの「使いの者」とは会ったかもしれませんが、しかし異邦人であるローマ兵とペテロが、イエスの御心に従った正しい判断ができたでしょうか。事実、28節で、ペテロ自身が「自分たちユダヤ人は、本来は、外国人の仲間に入ったり訪問したりするのは律法にかなわないことだ」と言っているその通りに行動したかもしれません。これまでの経験と、思い巡らした結果は、律法の通りの行動であったことでしょう。しかしその思い巡らしているその時に、御霊が語りかけます。
「見なさい。三人の人があなたを尋ねてきています。さあ、降りて行って、ためわらず、彼らと一緒に行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」

5.「助けが必要な存在だからこそ、み言葉を通して」
 「ためらわず」とある御霊の言葉は、実に意味深いです。つまり御霊は、ペテロの弱さ、不完全さを知っているでしょう。ペテロがこのままでは、コルネリオの使いに会った時に、異邦人でしかもローマ兵である彼らと一緒に行くことに「ためらう」「躊躇する」であろうことを知っていたということです。しかし、そんなペテロだからこそ、御霊の助けが必要なペテロであったからこそ、御霊はおられる、助けられる、そしてそれは言葉を通して導くからこそ、語られるのです。
「見なさい。三人の人があなたを尋ねてきています。さあ、降りて行って、ためわらず、彼らと一緒に行きなさい。彼らを遣わしたのはわたしです。」
 と。みなさん。今、確かに私たちには聖霊からのこのようなペテロのように直接的な語りかけはありません。しかしだからと言って、イエス様は私たちに語っていないのでしょうか。御霊は働いていないのでしょうか。そんなことはありません。この聖書こそ神の言葉ではありませんか?この礼拝こそ、みことばの解き明かしの時ではありませんか?もしからしたら、私たちは使徒たちはこのように「直接、語りかけを受けたから」彼らは特別だと思うかもしれません。確かにペテロやパウロは直接、語り掛けを受けた特別な存在ではあるでしょう。しかしそれは実に稀で、そんなに多くはありません。実は、彼らも他のクリスチャンたちも、同じで、当時、確かに新約聖書はまだなくても、旧約聖書はありました。「旧約聖書は福音のない律法の書だ」という人がいますが大きな誤解です。旧約聖書はイエス・キリストの到来の預言であり、信仰者たちは「やがて来る約束のキリスト」を信じて救われたのですから旧約聖書にも福音が溢れているのです。ですから、ペテロや使徒たちやクリスチャンたちは、まさにその旧約聖書から、今と同じように、毎週、あるいは毎日、礼拝を行い、み言葉から福音の解き明かしを受け、聖餐に与っていたのです。そのみことばを聞き、クリスチャンたちは今と同じように、福音から平安をいただき、遣わされていたのです。ですから当時も礼拝のみ言葉の解き明かしがまさに御霊の働きであったのです。今と全然違いません。み言葉にこそ御霊は豊かに働き、みことばを通してこそ御霊、イエスは語りかけ、罪の赦しと新しいいのちの平安を宣言し、平安のうちに世に遣わされていく、それは昔も今も決して変わることのない聖霊の働きなのです。今日も聖書を通して御霊は働いています。御霊はみことばを通して私たちに語りけています。それは私たちの信仰を強めるために、そして私たちが信仰と平安のうちに、同じように罪の世へ、しかしイエスが私たちの思いをはるかに超えたことを計画しているそのイエスの目的に向かって遣わすためにです。感謝なことではありませんか。

6.「助け主、み言葉、平安」
 ペテロは御霊の言葉に導かれ下に降りていき、彼らに会います。そして、そこで初めて、22節にある通り、コルネリオに御使いが現れ、神の言葉があった経緯を知るのです。ペテロは最初から知っていたのではありません。ここにきて初めてペテロは、神のなさったことの意味がわかったのです。つまり、それまではどこに向かっているのか、何のためなのか、何の意味なのか、全くわからなかったということです。しかしみ言葉と御霊に導かれるとはそのようなものです。私たちは初めに答えを求めます。あるいは、すぐに目の前に目に見える、あるいははっきりと理解できる答えがないと、進めないと言います。私もそう言ってしまいます。しかし、イエスの導き、聖霊の働きは、そうではない。いつでも逆であるということです。はじめに言葉ありき、約束ありきなのです。しかしそれは不完全で罪深い人の言葉、人の約束、人の思いつきや感情でもない、完全で、無からいのちを創造し、すべてを益として下さる神の言葉、約束です。その言葉を信じるのが信仰であるし、御霊に従うことであるし、そこにこそ真の平安があるということです。助け主、みことば、平安は、実に密接です。イエスのこのことばを思い起こしましょう。
「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊はあなた方に全てのことを教え、また、わたしがあなた方に話した全てのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたに平安を残します。わたしは、あなた方にわたしの平安を与えます。わたしがあなた方に与えるのは、世が与えるのとは違います。あなた方は心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」ヨハネ14章26節?27節
 「心騒ぎ」、「恐れる」のは、世が与える平安に依存するからです。それは私自身の経験からもそうだなあと言えることです。この罪の世、世にあっては艱難があるという「この世」、いや私自身もまぎれもなく、罪人であり、その罪ゆえに、愛せず、赦せず、従えない私もその世の一部です。そこでアダムの子として、責任転嫁をし、言い訳をし、罪さえ認めないようなそんな闇の中にある私は、その罪の世に何かを求めてもそこに永遠の光は決してありません。しかし、そんな私のために十字架にかかって死んでくださり、罪の赦しを得させ、救いの確信を与えて下さるイエス。それだけでなく、絶えず語りかけ、人の道ではない、神の計画する完全な道を導いて下さる。そこに立つことができるほどの幸いとそこにある平安は他にありません。それはまさに信仰による平安です。イエスしか与えることのできない真の平安です。それは、御霊によってこそ私にも、そして全ての信じるものに実現します。そのためにこそ、今日もみ言葉を通して聖霊は私たちを信仰に招いています。強め、信仰のないものに、信仰を与えようとしてくださっています。そのみことば、その招き、導きを、感謝して受けようではありませんか。信じる信仰が与えられている人は、ぜひ洗礼を受けようではありませんか。そして聖霊を受けましょう。