2018年5月13日


「神がきよめたものを」
使徒の働き 10章9〜16節

1.「前回」
 カイザリヤのコルネリオというローマ兵の隊長に御使いが現れ、「ペテロという人物を招くように」という、神の言葉がありました。コルネリオはとても敬虔な信仰者で、ローマ人でありながらユダヤ人の貧しい人々に施しをし周りからの評判の良い人でした。しかしそんな彼に、神はペテロを招くようにいうのです。コルネリオの信仰はまだイエス・キリストへのはっきりとした信仰ではなく、それどころか彼には福音を解き明かす人もいなければ、彼に洗礼を授ける人もいなかったからであり、コルネリオも洗礼を受け救われる必要があったからでした。神は、そのコルネリオにも福音を伝え、キリストへの信仰を与え、救いの洗礼を授けるためにこそ「ペテロを招くように」と伝えたのでした。

2.「祈りにある神の大いなる導き」
 しかし一方、そのペテロです。彼はそのコルネリオのことは知りません。ですから彼自らコルネリオのところへ行くことを計画しているという状況でもありません。そもそも使徒たちはまだこの時、異邦人に洗礼を授けるということさえしていませんでした。ですから、そのペテロがコルネリオのところに行くことになり、そして彼に福音を語り洗礼を授けるに至るまでにも、人の側の何かがあるわけではなく、神の一方的な恵みの導き、働きがあるということなのです。まずこう始まっています。
「その翌日、この人たちが旅を続けて、町の近くまできた頃、ペテロは祈りをするために屋上に上った。昼の十二時頃であった。」9節
 コルネリオも「祈りをしていた」とありましたがペテロも祈りをしていました。前回「コルネリオの祈りは神の前に立ち上った」ともありました。この二人の祈りは何を教えているでしょうか。それは「祈り」というのは、互いに知らない者同士、ヨッパとカイザリヤと場所も離れていますが、その同じ神への祈りによって、その神を通して二人は繋がっており、つまり一人の神によってその二人が既に結ばれていることを教えられます。このように「祈り」というのは、決してただの「しなければいけない」という律法ではなく、むしろ神からの恵みの賜物として、そこには私たちの思いをはるかに超えた神の計画が秘められていて、私達の思いもしない無限の可能性があるのです。なぜならどこで誰が祈っても、一人の神に通じ同胞にも通じているからです。ですから私達が誰もいない、誰も見ていない、誰も知らない孤独の中で祈ることも、無意味なように思いますが決して意味のないことではありません。あるいは私たちが遠い国のクリスチャンのために祈ることも意味のないことでは決してありません。なぜなら祈る時、その祈りは必ずキリストに結ばれ、キリストにあって多くの人と結ばれているからです。まだ会っていない、計画も知らないペテロとコルネリオが互いに祈りによって神にあって結ばれているようにです。祈りは素晴らしい神からの賜物です。そんな時に

3.「ペテロの「否」」
「すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。ところが食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢心地になった。」10節
 そこでに神の言葉が、夢の中で語るのです。続けますが、
「見ると、天が開けており、大きな敷布のような入れ物が、四隅を吊るされ地上に降りてきた。その中には地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、這うもの、また空の鳥などがいた。そして、彼に「ペテロ。さあ、ほふって食べなさい」という声が聞こえた。」11
 天が開け。地上のあらゆる種類の動物や鳥が天から吊るされ降りてきた。そしてペテロに「それらをほふって食べなさい」という言葉があった。しかしペテロはこう答えます。
「しかしペテロは言った。「主よ。それはできません。私はまだ一度も、きよくない物や汚れた物を食べたことがありません。」12節 
 ペテロは主の言葉が「しなさい」と言ったことに対して、「しない」と答えます。なぜならその動物の中に、ユダヤ教徒が決して食べない四つ足の動物の種類がいくつか含まれていたからでした。それは確かにモーセ律法で定められていたことであり、ユダヤ人社会では厳格に守られてきたことでした。しかしここには、ペテロが、神のみ心に対してどこまでも不完全な一人の人間であることが現れています。それは神の命令に対して「否」「しない」と言ったこともそうですが、なぜ「否」「しない」と言ったのか。それはペテロにさえある律法に対する間違った理解と、そして彼もなおも律法に縛られているという現実があるということです。
A, 「律法への間違った理解」
 まず律法に対して彼はどう間違って理解しているでしょう。それは、彼はここで神に対し、その神の言葉に対し「否」というために律法を根拠に用い掲げています。つまり、律法を「人間が使う」道具としているということです。しかも神への「自分たちの正当性」の主張としてです。「神よあなたが間違っています。律法では食べてはいけないんですよ。」と。これはまさしく、律法の主人も、律法の解釈者、判断者も「人」ということです。しかしこれは逆です。律法の主人は人ではありません。律法を用いるのも人ではありません。律法は神のもの、神の言葉であり、律法の主人は神であり、律法を用いて人に告げるのは神の方です。ですから、確かにペテロは神に言われたとき、それが矛盾するようには聞こえたかもしれませんが、それでもそれは、どこまでも律法の主人である神のことばであり、神ご自身こそ律法の完全な解釈者であるのですから、ペテロの側で、拒んだりする理由は全くなかったはずなのです。少し難しいかもしれないので、例えば、福音書の中で弟子たちが安息日に穂を積んで食べていたのは安息日の戒めに反すると、パリサイ人達は責め立てました。しかしイエスは言っています。ダビデも神の家に供えられたパンを食べたではないか?それは神が空腹のダビデとその部下に与えたものではないか?と。そしてイエスは言います。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」と。
 人の子、キリストは安息日にも主。つまりキリストこそ律法の主、律法を備え、与えた主であるということです。その主が与えた安息日、律法は、人間に与え、人間のために定められているものであり、律法のために人間がいるのではないと、イエスは律法の正しい理解を伝えています。しかしここでのペテロの理解は、まさに「律法のための」ペテロの弁明であり、「律法のため」の「ペテロの「否」」です。「主が語りかけているにも関わらず」にです。彼は、一生懸命、律法のために弁明しようとしているのです。しかしそれは全く逆です。まさにパリサイ派の人々が、神のみ旨は何かではなく、律法を、そしてそこにある文化、行い、秩序、慣習を一生懸命守ろうとするあまり、神のみ旨を見失って、律法のために彼らが存在してしまっていたように、ペテロも、律法の意味を逆に理解してしまっている。「食べなさい」という神の言葉よりも、「食べてはいけない」のための彼がいる。だからこそ「否」と答えるのです。皆さん、律法は大事です。しかしそれは「神から私たちへ」の「私たちのための」言葉です。私たちが律法のためにいるのでもなければ、私たちが律法という言葉を一生懸命守り、律法のために弁明するために私たちは生きているのではないということです。難しいかもしれませんが、とても大事なことです。
B, 「律法になおも縛られる現実」
 そしてもう一点は、ペテロはなおも「律法」に縛られているという現実です。「食べなさい」は、「してはいけない」「しなければいけない」ではなく、「あなたに与えよう」という神の言葉、いわば福音です。もちろん「律法」も神の言葉なのですが、しかし、ここで、ペテロにとっては「あなたに与えよう」という神の言葉、福音よりも、「してはいけない」の律法の方が優先されているのです。しかしそれはごく当たり前のことです。クリスチャンであっても。ペテロであってもです。私たちは救われる前は律法によって生きていたのですから。ですからこのところは私たちに教えてくれています。私たちは福音によって救われ、福音にあって生きるもの。その通りです。しかしその新しさと同時に、私たちの古い性質は、まだあるという現実です。「古い性質はもうない」などと思ってはいけません。そう思うことはとてつもない自己矛盾に陥りむしろ信仰が衰えてしまうでしょう。私たちはキリストにあっては完全に救われていますが、肉にあっては同時にまだ罪人です。そしてその肉の性質は神の恵みに反抗して、自分の律法の行いによる正しさを求めます。神が「わたしがあなたに与える」「わたしがあなたのためにしよう、与えよう」という言葉に反して、「いやそうではない、私が、私が、主のために」となってしまいます。それは敬虔そうに見えながら、現実は、神の恵みを軽んじたり否定していることなのですから、実は「神を神とする」ことではなく「自分を神とする」ことと同じになってしまっています。しかしそうしてしまうのが肉の性質、私達にあるどうしようもない罪の性質なのです。むしろ大事なことは、ペテロでさえもそうであるように、私達は「義人であり同時に、罪人だ」と認めることです。ペテロの不完全さの現実はまさに私たちが「自分は不完全、しかしキリストこそ聖であり義であり完全である」と福音を知るため、そして「神を神とするため」の大事な一歩として私たちに語りかけるのです。

4.「自らでは理解できない。理解へとみ言葉が働く」
 事実、ペテロはその神の言葉の意味がわからない中で、ペテロがそこで一生懸命知恵を振り絞って彼の努力の産物としてはその幻の意味に到達しません。こう続いています。
「すると、再び声があって、彼にこう言った。「神がきよめた物を、きよくないと言ってはいけない。」こんなことが三回あって、その入れ物はすぐに天に引き上げられた」15
 ペテロはその意味がわかりません。しかし、主は言われます。
「神がきよめた物を、きよくないと言ってはいけない。」
 天から降りてきた動物には三つの恵みがあらわさています。一つは「天から」という恵み、そして第二に「神がきよめた」という恵み、そして第三に「主が備え主が食べなさい」と言っている恵みです。つまり圧倒的な何重もの恵みです。しかしそれに気づかないペテロ、その言葉、その幻を正しく解釈できないペテロ、それを拒むペテロです。このように人間はどこまでも不完全です。教会の監督、使徒たちのリーダー、説教者であるペテロ。しかしそれでも神の前に不完全で何もできない、いや恵みを拒む存在である事までも実にそのまま記されています。しかしそんなペテロも、このように真の律法の解釈者で福音を与える救い主キリストの言葉によって導かれていることがわかるでしょう。これがキリスト者の真の姿、あり方です。私たちは「完全だから従える、ついていける、自分の力や意志で従えるから立派」というのではありません。何か優れたものや力が自分にあるから従えるのでもありません。どこまでも弱い、不完全で、罪深い私たちが、完全な神の言葉に、救いの福音に導かれて行くからこそ、私たちの信仰生活があり、クリスチャンはいるのだということです。それでもペテロはわかっていません。「三度もあった」とあり、そして次回のところですが、17節をみると、それでもペテロは思い惑っています。人の力はそんなものなのです。しかしなぜそのペテロを通して大いなるわざがあるのか。それは主イエス・キリストが働いているからです。主のみ言葉、解き明かし、導きがあるからこそなのです。

5.「キリストにあって聖められている恵み」
 最後に、この動物の幻に一つの幸いがあります。イエスは言っているでしょう。
「神がきよめた物を、きよくないと言ってはいけない。」
 と。みなさん、なんという平安の言葉でしょう。私たちは何者でしょう?確かに罪人です。どこまでも罪深いです。愛せよと言っているのに、愛することができない。赦せと言っているのに、赦せない。心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、あなたの神を愛せよと、言っているのに神を愛せない。いつでも自分中心、人よりも、神よりも、自分しか愛せない、まさに神の前には第一の戒めにこそかなっていないどこまでも罪深い一人です。しかしそんな私たちをきよめて下さった方がいるでしょう。イエスではありませんか?イエスの十字架の血、その死が私たちの汚れをきよめたでしょう?そのイエスの十字架のゆえに、イエスのゆえに、私たちはどんなに罪汚れたものであっても、神は「わたしはキリストの十字架によってあなたをきよめた、だからあなたはキリストのゆえにすでにきよいのだ」と言ってくださるでしょう。皆さん、私たちをも「神はきよめて」くださいました。キリストのゆえに。そうであるなら、神は私たちにも今日、この言葉を語っています。
「神がきよめた物を、きよくないと言ってはいけない。」
 と。みなさん、サタンの最高の誘惑。私たちが陥りやすい最大の罪は、キリストを疑うこと、救いを疑うこと、福音への反乱です。それこそ恵みや福音ではなく、自分の行いに「きよさ」の根拠や原因があるかのように、福音を退け、律法に走りやすくなる。「こうでなければいけないと、自分が神のために」と。しかしその先に陥りやすい最大の落とし穴は、自分の行いに救いやきよさの根拠をおいて、自分の行いが不十分であったり、自分の思うように自分がしなかった時に「自分はきよくない」ということです。もちろん「自分はきよくない」と気づかされることは大事なことです。しかしそれも「キリスト抜き」「十字架なし」には絶望でしかありません。キリストがいるからこそ、きよくないと打ちのめされる時に、圧倒的な神の恵みによってきよめられることを知ることができます。キリストを抜きにし、神の恵みを無にして、単なる律法主義から「自分はきよくない」に至ることは極めて危険です。そこには絶望しかないからです。信仰を失うことになり、それはサタンの最高の誘惑です。しかし神は一人子キリストのその血によってこそ、私たちをきよめてくださいました。それが福音です。私たちはキリストのゆえに、神の前にきよいものです。いくら罪深さの絶望に直面しても、このキリストにあって、私たちはその福音に帰ることができるでしょう。ですから私たちはイエス・キリストを信じ、イエス・キリストの十字架と復活に日々生かされるものであるなら、この言葉を感謝を持って聞きたいのです。
「神がきよめた物を、きよくないと言ってはいけない。」
 と。今日も福音によって生かされている、素晴らしい幸い、喜び、平安を覚え、ここから遣わされていこうではありませんか。