2018年3月4日


「ガザに下る道?導く人がなければ:十字架の神学者としてJ」
使徒の働き 8章25〜40節

1.「前回まで」
 さて激しい迫害によりサマリヤに散らされた、エルサレム教会の執事の一人ピリポは、サマリヤの地でキリストの福音を宣教し、サマリヤでも多くの人々が洗礼を受けました。しかし洗礼を受けたサマリヤ人たちはまだ聖霊を受けていなかったので、ペテロとヨハネがサマリヤへと行き、彼らにも聖霊が与えられるように主に祈りました。その時、サマリヤの人々も皆、聖霊が授けられたのでした。しかしその力を称賛した、魔術師シモン、彼も洗礼を受けたクリスチャンではあったのですが、彼はペテロとシモンに「自分はお金を払うからその力を自分にもください」とお願いをします。彼は、聖霊というのは見えない福音の力、見えないイエスご自身から来るものであることを見失い、見えるペテロとヨハネが与えることができ、しかも見えるお金で買うことができるという大きな間違いをしていたのでした。ペテロとヨハネは彼を厳しく戒め神の裁きを伝えます。シモンはもちろんその言葉に打ちのめされるのですが、しかしペテロとヨハネは、それで終わりではなく、そのように自分の罪に打ちのめされたシモンにだからこそ救いの福音を伝えるのです。悔い改めて祈りなさいと。シモンは悔い改め、滅びることのないように祈ってくださいとペテロとヨハネに願ったのでした。そのことが示すように洗礼を受けても尚も誰もが幼子のような罪深い存在であり、むしろそのことにさえも気づかず高ぶるものなのですが、しかし救い主イエスはそこで切り捨て見捨てるのではなく、むしろまず律法によってその真のありのままである、神の前に罪深い絶望的な存在であることを教え、そしてそこから必ず救われる十字架の福音に何度も立ち帰らせることによって幼子のようなクリスチャンの歩みを導いてくださる、それがイエスであり、福音であり、その恵みこそクリスチャン生活であることを学んだのでした。

2.「順調に行っているピリポへの神の言葉」
 そのピリポですが、彼は、そのようにサマリヤというユダヤ人からは虐げられた地で福音を宣教するために用いられた一人です。そして、多くのサマリヤ人が洗礼を受けました。私たちの目や価値判断から見るならサマリヤの地での宣教は「順調」です。信者が増えて、そこに教会が始まり「これから」という時です。ですから人間的な視点では、様々な計算も計画もしたくなるような、さらなる成功の望まれるような状況です。しかしです。神の思いはいつでも人の思いをはるかに超えているのです。
「ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)26節
 「主の使い」というのは、主からの言葉を携え伝えるメッセンジャーです。その主がみ使いを通じていうのです。「立って、南へ行け」と。つまり、そのように人の思いや願望からいうなら、「さあ、さらに」「今こそ」「もっと」成功を、というそのサマリヤの宣教の状況にあって、そのサマリヤを去るようにいうのです。しかもその道まで指定しています。「エルサレムからガザに下る道へ出ろ」と。さらにはそこには丁寧に説明まで入っています。「このガザは今、荒れ果てている。」と。ガザは荒れ果てている地であり道であったのでした。荒れ果てた道ですからあまり人が通らないような道でもあったでしょう。しかし主はその道を指定までしているのです。このところ、みなさん、普通の人間な思いではどうでしょう。「せっかくこれからなのに、こんなにうまく言っているのに、もっと増えるはずなのに、もっと大きくなるはずなのに、なぜ?」そう言いたくなることかもしれません。「人間的に見れば、思えば、計算すれば」です。しかしピリポはどうでしょうか。そのようにいうでしょうか?心の中では一瞬そう思ったかもしれません。葛藤はあったかもしれません。彼も罪深い一人の人間ですから。しかしだからと、彼は「主よ、そうは言っても、それはこんなに成功している現実を見れば明らかにおかしいですよ」とは言わないのです。「こんなもっと成長するはずなのだから、それに従うのは合理的ではありません」とも言わないのです。こうあります。

3.「彼は立って出かけた:従うとは?」27節
「そこで彼は立って出かけた」27節
 彼はそのような人間の思いから見るなら合理的ではないし理解できないような命令、言葉に、それでも従って、立ち上がりその示された地へ出かけるのです。「従った」のでした。しかしみなさん、この「従う」ということも、何度も見てきました。それは彼がそのような服従する意思の強さや非常に優れた忠誠心を持っていたからではありません。彼が従ったのは「信仰のわざ」であり、つまり「信仰のわざ」ということは、福音から生まれる恵みへの応答であり、つまり「人の力ではなく、みことばと聖霊が豊かに働いていた、その聖霊によって溢れ出る恵みの行動であったということです。つまりその「従う強さ」はピリポ本人にあった何かではなく、聖霊の賜物、導き、強さであったということです。さらには見てきましたように、その信仰ははっきりとしたキリストの十字架の信仰でもあったでしょう。ステパノの死、ステパノの指し示した栄光のキリストを彼らは見せられ、キリストの十字架こそ救いであると彼らは立ち帰らされたからです。そのように「キリストこそ力なり」と立ち帰らされたからこそ、迫害に直面し散らされたとしてもその地でキリストを伝えてきたのです。「立って出かけた」のは、彼の強さ、彼の意思が強かった、彼にある何かではなく、どこまでも賜物である信仰のわざ、福音と聖霊のわざに他ならないのです。「服従」は律法ではなく福音なのです。そしてその導きは、人の目には不合理や辻褄が合わなくても、決して無駄でも不合理でもなく、何度もいうように、神の合理性、神の辻褄が必ずあることを更に見ることができるでしょう。27節はこう続いています。
「そこで彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピアの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピア人がいた。彼は礼拝のためにエルサレムに上り、いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。」
 その荒れ果てたガザの道、しかしそれは「主が指し示した」ガザの道であるのですが、そこに一人のエチオピア人が馬車に乗って通りかかるのです。彼はエルサレムに礼拝に行った帰りとあり、預言の書イザヤを読んでいたとあるので、彼には旧約の神への信仰はあったのでした。しかし救い主キリストのことはわかりません。そんな彼が通りかかるのです。そんな時にピリポもそこを通りかかるのですが、そこで聖霊が語りかけます。29節
「御霊がピリポに「近寄って、あの馬車と一緒に行きなさい」と言われた。
 主の指示は「あのエチオピア人の馬車と一緒に行け」と。ピリポはそのようにします。
「そこでピリポが走っていくと、預言者イザヤの書を読んでるのが聞こえたので、「あなたは読んでいることがわかりますか」と言った。30節
 ピリポは、言われた通りに走り寄ってから、預言者イザヤの朗読が聞こえたとあるので、「あの馬車と一緒に行きなさい」と、言われた時には、まだ朗読が聞こえていたわけではありません。つまり朗読が聞こえたから、「行きなさい」と言われ行ったのではないということです。ですから「一緒に行きなさい」という言葉も不思議な指示に思えたことでしょうけれども、ここでも、彼はそれでもその言葉に従ったのでした。そしてその馬車に近寄った時に、預言者イザヤの言葉が聞こえてきたので彼は尋ねるのです。「あなたはその読んでいる言葉の意味がわかるか」と。エチオピアの宦官は答えます。

4.「導く人がなかれば、どうしてわかりましょう」31〜35節
「すると、その人は「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」と言った。そして、馬車に乗って一緒に座るように、ピリポに頼んだ。彼が読んでいた聖書の箇所には、こう書いてあった。「屠り場に連れて行かれる羊のように、また黙々として毛を刈るものの前に立つ子羊のように、彼は口を開かなかった。彼は卑しめられ、その裁きも取り上げられた。彼の時代のことを、誰が話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去れられたのである。」宦官はピリポに向かってこう言った。「預言者は誰について、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、誰か他の人についてですか。」ピリポは口を開き、この聖句から始めてイエスのことを彼に宣べ伝えた」
A, 「わからない」
 エチオピアの宦官は、聖書を読んでいました。しかしその「本当の意味」するところ、つまり、「そのみことばを通して神が自分に何を伝えたいのか」がわからなかったのでした。それは実に当たり前のことです。この聖書の言葉は、神の言葉です。クリスチャンはそう信じます。そして神はいつでも、その神の言葉とその意味を、主が召し出した預言者や裁き司を通し、そのみことばを解き明かし伝えてきたのです。そのような方法を神はとってきました。それはイエスの時代もなんら変わらず、だからこそ使徒たち、牧師や長老、宣教者として召されたものの口を通して、みことばは解き明かされ、福音は伝えられて行きます。「イエスによって召された人のその召しを通して」です。ですから、そのことの意味することは、召しや神の働きがなければ、私たちは最初は、誰もその真のメッセージはわからないということです。もちろん聖書は読めば、内容はわかります。物語もわかります。しかしそこにある福音のメッセージを私たちはそのままでは、つまり自然の力では、その罪深い性質のゆえに自分では決して正しく理解できないのです。もちろんそれぞれ自由に解釈はできます。しかしどうでしょう。人間はいつでも聖書を自分に都合のいいように解釈するものです。それは旧約聖書の時代の、モーセに反対し、エジプトにいた方が良かったと言ったユダヤ人達もそうでしたし、何より、サウル王はそうでした。などなど挙げればきりがありません。ですからこの宦官の言葉はみことばに対して謙虚ですし正直です。勝手な解釈をしてわかったかのように言わないのです。自分はその意味がわからないことを謙虚に認め、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」というのです。それだけではなく、教えを乞うために馬車にピリポを載せるのでした。
B, 「聖書を正しく伝えるために」
 この「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」ーこれは重要な大事な言葉です。それは、人間は聖霊によって導かれたものの解き明かしがなければ誰もこの状態であることを示しているからです。そしてこのことは、だからこそ、按手を受けた説教者はもちろん、何より、その説教や解釈の根拠となり「聖書はいったい何を伝えていると自分たちは信じているか」を示す教理や信仰告白が教会には必要なものとして登場してきたことを意味しています。「教理など必要ない」という人がよくいます。「信仰告白も必要ない」ともある人は言います。そして言います。「聖書が一番、聖書だけに聞けばいいのだ」と。もちろん、その通りです。聖書が一番は全く正解です。しかし、みなさん「導く人がなければ、どうして聖書はわかるでしょうか」。教理や信仰告白は必要ない、聖書だけあればいい、聖書に直接聞けばいいという人々はよく言います。それぞれが直接示されるまま感じるままに信じるのが大事なんだと。しかし、導く人がなければ、正しく教える人がいなければ、人は福音をわかりません。歴史が示すように人は自分に都合のいいように解釈します。ですから、聖書を本当に誰でも好きなように感じるまま解釈することこそ正しい読み方であるとするなら、それは100人いれば、100通りの罪深い都合のいい解釈が存在するのが現実なのです。しかしそれでは教会は福音を守っていけるのでしょうか?福音を正しく伝えていけるのでしょうか?ガラテヤの人々は1つの例です。初めはパウロから正しく福音を教わったはずの人々です。しかしその福音が、彼らの都合のいい解釈によって律法的になって行きました。そんなガラテヤの教会には、パウロは実に厳しい、そのように「もう1つの福音」を作り上げ、福音を律法に捻じ曲げるものは、天のみ使いであっても呪われよ。そう言っています。初代教会もそのような間違った教えの脅威に晒されて行きます。それゆえにパウロは実に教理的なローマ人への手紙を書き、そしてそのような福音の説教ための正しい教えの基準が必要だからこそ、使徒信条もできたのでした。もちろん教理も信仰告白も聖書に変わるものではありません。聖書が第一であり唯一の神の言葉です。その聖書が神の言葉であり救いの言葉であることを証しし証明し、公に「私は聖書はこのことを伝えていると信じる」と告白するのが信条、信仰告白なのです。「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」ーこれは私たち、教会にとって大事な言葉なのです。

5.「主にとって1つも無駄なことはない〜この宦官のためにこそ」
 宦官が読んでいたのは、有名なイザヤ書53章です。彼は預言者イザヤが一体、誰のことを語っているのかわかりませんでした。ピリポは、そこで、それがイエス・キリストを指すのであり、そのイエス・キリストの十字架によって救いは成就したことを語ることができたのでした。そして36〜38節、宦官はイエスを信じたのでしょう。近くの水に立ち止まり、彼はピリポから洗礼を受けたのでした。みなさん、このように、全ては無駄ではありません。ピリポがこれからという状況で、ガザの道に遣わされたのは、人の目には何のことかわからなくとも、理解できなくとも、主にははっきりと見ていたものがあったのです。つまり沢山ではなく、たった一人、この異邦人の宦官が聖書の解き明かしと救いを求めていることを、主はしっかりと知っておられ、その一人のためにピリポは遣わされ用いられたのでした。99匹の迷わなかった羊よりも、迷える一匹を大事にされるイエスと重なるのです。主のなさることはそのように、私たちには愚かに見えることであっても、いつも時にかなって美しい、完全です。そして神は全てのことに働いて益とされるのです。
 そして、その後、ピリポは再び、主に連れ去られ、サマリヤの地に戻ったのではなく、ほかの地へと遣わされて行くのです。ここにも不思議があります。最初は執事として召されたピリポですが、教会は散らされ、彼はサマリヤに遣わされます。もちろん執事として召されたことも意味があったことでしょう。しかしその執事としての召しは、さらなる新しい召しへと導きます。彼は宣教師としての新しい召しが与えられたのでした。ですから、1つの召しが一生一度だけのものということももちろんあるでしょうけれども、それだけではありません。新しい召しがそれぞれに与えられ、行きなさいという地は、誰でも新たに示されることがあるということです。それは確かにその時は不思議で戸惑いではあるでしょうけれども、それは主にとってはなんら無駄ではない、素晴らしい、そして完全な導きであることをこのところは教えてくれていますし、私たちは福音にあって、「すでに」、主の祝福であり、希望であり、その道は、人の目には荒れた道であっても、主にあって確かであるのです。感謝ではありませんか。