2018年2月11日


「ピリポはサマリヤでキリストを:十字架の神学者としてH」
使徒の働き 8章5〜8節

1.「はじめに」
 ステパノの処刑を機にエスカレートしたエルサレム教会への迫害。エルサレム教会は、
使徒たち以外、皆、散らされてしまいます。さらに迫害の中心人物の一人出会ったサウロというパリサイ人は、教会を荒らし、家々に入っては男も女もクリスチャンを引き摺り出しては、牢獄に入れてしまったのでした。何度も問い掛けたように、それは「人の目」から見るなら、「神様どうして?」と、決して祝福とは思えない、敗北のような、神も神の言葉も疑いたくなるようなマイナスの出来事ではあったのでが、しかし散らされた人々は、神も神の言葉も捨てません。いやむしろ、彼らは、散らされた地で、ますます「みことば」を「キリスト 」を宣べ伝えていったのでした。それはなぜか?それは、ステパノが最後まで指し示したキリスト、そのキリストによってこそ救われた新しいいのちが与えられ、そのキリストと福音こそ力であり、いのちであること、そのキリストこそクリスチャンが指し示す全てであり、神の栄光が現れていることに、立ち帰らされたからでした。しかも、それは、イエスご自身が必ず起こると言っていた迫害を前にし、主が「ステパノの死」ということを用いながらも、最高の力、武器をクリスチャンたちに備えたのであり、人の目には愚かで、敗北で、失敗と思えるようなことでも、神の目にあっては完全であり、全ては益とされるための計画であったのだと、いうことを見てきたのでした。そのことは今日のところでも証しされて行きます。

2.「不条理に思える事実」
「ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。」5節
 ピリポという人物。12使徒にもピリポという人物がいますが、その「使徒ピリポ」のことではありません。彼は、6章5節でステパノと一緒、選ばれた7人の執事の一人でした。こうあります。
「この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカルノ、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。」6章5節
 とあるそのピリポです。この状況は、見てきましたように、教会への激しい迫害が起こりました。その前にはステパノが処刑されています。ですからこのようにして選ばれたはずの7人、つまり、これからの教会のために選んばれたはずの7人であり、しかも使徒たちがイエスの御名において頭に手を置いて祈った7人なのですが、その一人は処刑され、そして、他の執事たちも散らされた、という教会にとっては望まないようない出来事であることが浮かび上がってくるでしょう。繰り返しますが、エルサレム教会は大試練です。そしてそれは世の合理的な価値観に照らせばこ「大いなる矛盾」です。私たちの目から見るなら本当に辻褄の合わない、理に合わないこの結果なのです。やはり「なぜ?」と思いますよ。しかしそこには私たち自身では計りしれない、理解できない、しかし真実な神様の「辻褄」、「神の計画」の真実さと完全さがあるのです。

3.「サマリヤへ下り」
 5節ですが、まずあります。ピリポは「サマリヤに」下っていくのです。この「サマリヤ」と言いますと、いくつか思い出すエピソードがあります。まずはイエスが話した「良きサマリヤ人」の例え話です。イエスは「隣人を愛しなさい」という神の律法の中心の話で、「では、あなたの隣人は誰か?」という問いかけを持ってこの例え話をしています。その話はこうです。ユダヤ人が強盗に会い瀕死の重傷を負いました。そこに同じユダヤ人のパリサイ人や祭司が通りかかかるけれども、自分に災いが降りかかるのを恐れて見捨てて通り過ぎて行きます。しかしそんな中で一人の「サマリヤ人」が通りかかります。そして、その瀕死の重傷のユダヤ人のところに立ち止まり、応急手当をし、そしてロバに乗せて宿屋まで連れて行き、治療や療養、宿泊や食事など全ての費用を置いていったという話です。しかしその話でイエスが伝えたかったのは、ただ「困った人を助けてあげましょう」という慈善やヒューマニズム的な話ではありませんでした。なぜならまず「サマリヤ人」というのは、当時、ユダヤ人がとても忌み嫌い、仲が悪く、ユダヤ人たちが蔑みを持って見る人々でした。ユダヤ人はサマリヤの地域を通ることさえもせずに、遠回りしてでも違う道を通ります。それ位、仲が悪いのです。しかしそこにこそ話を理解する鍵があります。
 「愛すべき隣人とは誰か?」ーそれは自分に良くしてくれる、自分と気があう、価値観や趣味が一緒、同じ仲間だから愛するというのであるならば実に簡単です。誰でもできます。しかし聖書がいう「愛すべき隣人」とは、そのように、敵対する相手、蔑みあう相手、憎しみ会う相手、いや自分を蔑み、自分に悪を図るような人をさえも愛することこそ、神が求めている律法であり、それが神が求めている「愛すべき隣人なんだ」と、教えることが、その例え話の意味することでした。しかもその話はただ「そうしなければいけない」という律法だけで終わるメッセージでもありませんでした。もし律法だけのメッセージであるなら、それが私たちには出来ないことです。ではイエス様は何を伝えようとしているか?その例え話の「真のメッセージ」は、イエス様ご自身こそが、良きサマリヤ人であり、敵を愛するために、敵のために祈り、救いを与えるためにきたのだということでした。
 事実、「サマリヤ」というと思い出すもう一つの話は、ヨハネ4章です。サマリヤの女の話があるでしょう。先ほども言いました。普通のユダヤ人はサマリヤ地方を避けて通ります。遠回りしててでも違う道を行きます。しかしこの4章では、イエスがあえてこのサマリヤの道を行かれ、そしてサマリヤのある村の井戸で、その夕方に人目を避けるように水を汲みにきた罪深い女に話しかけるのです。ユダヤ人が蔑むサマリヤ人というだけでなく、ユダヤの教師が女性に話しかけることも普通はしません。「水をください」とお願いすることもありません。しかも社会を避けているような「罪深い女」に話しかけることなども普通のユダヤ人、まして教師と呼ばれている人はしないのです。しかし、イエスはその女性に声をかけ、水をお願いし、そして、神の国の福音を彼女に語るでしょう。まさに「良きサマリヤ人」のメッセージを具体的に現しています。そして、その究極の実現こそがこの十字架であり、人類、そして私たちへの私たちのための愛と犠牲であることはいうまでもありません。まさに神に敵対し、神に反対し、神を信じない。神ではなく自分を中心にして自分を神にしようとする、性質が人間誰でもあります。しかしその人類のため、つまり私たちのためにこそ、神の御子イエスはご自身の命を十字架の死に投げ打つことこそ聖書は福音であると伝えています。そのように、私たちの「真の隣人、真の友」となられ、「真に」愛してくださった、その愛が、十字架にこそ溢れていますし、イエスこそ「良きサマリヤ人」なのでした。その「サマリヤ」です。

4.「散らされなかったなら」
 そのサマリヤに、散らされたピリポは下って行きました。そして一体そこで何をしたでしょう。「サマリヤ人たちは自分たちユダヤ人たちが軽蔑する人たちだから」「誰もユダヤ人は交わらないのが常識だから」と、そこを隠れるように通り過ぎたでしょうか。それともその敵意を露わにしたでしょうか?対抗し争ったでしょうか?いや、違います。「キリストを宣べ伝えた」とあるでしょう。皆さん、これは一人のユダヤ人にとっては驚くべきことです。普通はしないことです。しかし、かつて一人だけいました。そうイエスです。そのイエスのように、迫害に会い、散らされたピリポは、サマリヤに下っていき「キリストを宣べ伝えた」のです。
 皆さん、ここに驚くべき神のみわざと恵みを見ることができるのです。エルサレムの教会のクリスチャンたちは、もし散らされなかったのなら、自分たちであえてサマリヤに宣教に行くことはなかったことでしょう。なぜなら、まだ異邦人宣教など考えられなかった時です。この後です。ローマの百人隊長コルネリオの場面で、ペテロに夢が与えられ、異邦人への洗礼へと導かれるのは。しかしその時でさえも、ペテロは、最初は、汚れた食物を、異邦人に例えてさえいます。サマリヤ人は厳密に言えば異邦人とは立ち位置が違うのかもしれませんが、しかし「選びから除外された人々」としてユダヤ人は見ていた人々です。使徒たちが、あえて自分達からそのサマリヤに宣教に行くなど考えらない時だったのです。しかしイエスは予てから、「世界への宣教」を伝えていたでしょう。「全ての人へ」「地の果てまで」と言っていたのですから。その計画は、まさにここに一歩が踏み出されるのです。しかしそれは使徒たち、クリスチャンたちの方からではありません。イエスの方からです。しかもそれは教会が、迫害によって「散らされる」ことによってです。散らされたからこそ、そこで散らされた人々、ユダヤ、エルサレムから、世界へと「証し人」として遣わされて行くのです。

5.「キリストを」
 しかも、そこで「『キリストを』宣べ伝えた」とあるのもそうです。確認した通り、ただ散らされただけでは「キリストの証人」とはなっていかない状況です。何を伝えなさいという言葉があったわけではありません。何度も見ているように、迫害というマイナス状況のゆえに、意図せず、予期せず、望まざることとしての結果でした。しかしそこで「キリストを宣べ伝えた」ということは、そこにその動機があればこそでしょう。けれどもマイナスの状況、試練です。普通、人の目から見れば、キリストは嘘つきだと、疑い、キリストを捨てたくなる状況です。人の道理や計画では、理不尽で矛盾することばかりの状況です。その状況から、そのような理不尽だとか、矛盾するとか、「こうなれなければおかしい」「だれかのせいだ」「ああであればよかったのに」という視点から、動機を探るなら、「キリストを伝える」にはなり得ません。ただ人間的な行動に走ったことでしょう。キリストを捨て、みことばを捨てるような状況です。しかしなぜ「キリストを伝えた」のでしょうか?そうです。それが前回、見た通りです。彼らはキリストを確かに見せられ、キリストに立ち返らされ、キリストの真実さ、キリストの愛、キリストの救い、恵み、勝利と栄光を見せられ、確信させられたからこそでしょう。これこそ救いであると。そうです。ステパノの死と証しがあったからこそ、その動機は生まれていることが、このピリポからもはっきりとわかるのです。

6.「神のなさることは時にかなって完全」
 そうなんです。聖書のみ言葉は私たちに語ってくれています。それは、神にとって、何ひとつ無駄なことはないということです。伝道者の書にある通り、「生まれる」にも「死ぬに」も、神の時があるのです。それは人間の目には理不尽に見え、矛盾するようなことであっても、私たちが神はいない。神は見捨てたと言いたくなるような出来事であっても、しかし神にとって、全ては時にかなって美しい、それは完全だということです。もちろん、ステパノの死にも、何よりキリストの十字架にも、見るように、悪や、悲劇や惨劇は、人間によるものです。人間が一番残酷です。この世の不条理や悪は、人間の罪による結果です。しかし、それさえも用いて益とされるということが、今日のところには現れているでしょう。教会が散らされたからこそ、サマリヤに遣わされた。そして、ステパノの死にキリストが証しされていたからこそ、彼らはその試練と困難の中で、キリストを捨てるのではなく、キリストの言葉を捨てるのでもなく、キリストを、福音を伝えた。その敵対しているはずのサマリヤ人に、愛を持って伝えて行くことができたのも、そこにキリストが示されたからこそ、キリストがまさにサマリヤに下っていって福音を伝えていったように、あるいは、キリストが十字架上で敵のために愛の祈りを祈り、そしてステパノも同じように、石を投げられる中で、敵のために愛の祈りを祈ったそのように、ピリポもサマリアへ「下って」行くことができたのではないでしょうか。
 そして、このように福音は、エルサレム内だけでなく、エルサレムから外へ、まさに地の果てまでの第一歩として、広がって行くことになるのです。そして事実、その福音を通して聖霊は、そのサマリヤでも救われる人を起こすでしょう。
「群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。それでその町に大きな喜びが起った。」6〜8節
 その福音は、そのサマリヤでも、救われる人を起こし、その福音は、大きな喜びを人々にもたらしたのでした。福音は教会が「散らされたからこそ」、人間が自らでは行かない地へと広がっていきます。そのイエスの恵みを通して私たちの日本にも福音が届いているのです。人の目には敗北、失敗、マイナスに見える「散らされた」ということがあったからこそ」です。神のなさることは全て時にかなって完全なのです。

7.「「信仰」は律法ではなく福音」
 もちろん、それを信じることも難しいことです。特に困難の最中にあるときは尚更そうでしょう。それが人間です。そう私たちはそれが聖書の真理、神の真実、福音の真実であっても、私たちは自分自身では決して信じることができないことです。しかし「神のなさることは全て時にかなって美しい、完全である」ということは、自分たちで「そう信じなければいけない律法」ではないということです。そのみ言葉はイエスの福音なのです。イエスがそのことを見せてくださる、その約束なのです。私たちはそのことを待ち望みたいのです。イエスは必ずそのようにしてくださるでしょう。
 私たちは、イエス様に今、信仰が与えられ、「すでに」救われているいます。「すでに」祝福されています。その幸い、その平安、その喜びを胸に、計り知れない神がなさる完全さに期待しつつ、今日もここから遣わされていこうではありませんか。