2018年1月14日


「ステパノが見た栄光:十字架の神学者としてE」
使徒の働き 7章54〜60節

1.「はじめに:前回まで」
 「ステパノの弁明」「説教」を見てきました。ユダヤ人たちはステパノを逮捕し議会に連れ出しました。ステパノは、ユダヤ人は律法と預言の書を大事にし、アブラハム、モーセ、ダビデを偉大な祖先として崇拝するけれども、しかしその彼らは、神の恵みとその言葉こそ拠り所とし、そして何よりその律法と預言が指し示す、やがて来る「救い主の約束」を待ち望んでいたことを聖書から解き明かしました。そして彼は「あなた方はみ言葉を大事にするというが、そのみ言葉に聞かず、そして、そのみ言葉の指し示した「約束の救い主」をあなた方は退け、殺したのだ。」と言うのです。それが説教の結びの言葉かどうかはわかりませんが、それまでを聞いていた宗教指導者たちは激しく反応します。

2.「ステパノの言葉への怒りと信仰が与えられている恵み」54節
「人々はこれを聞いて、はらわたが煮えくり返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
 彼らはステパノの言葉に対して非常に大きな怒りを燃やすのです。ここから教えられることは何でしょうか?まず教えられることは「信仰が与えられている恵み」です。この恐ろしい場面と「信仰が与えられている恵み」、正反対のようなことですが、どう繋がるのでしょうか?
A、「聖霊の働きへの抵抗」
 まずこのステパノの説教。見てきましたように、ステパノは「み言葉を引用して」説教をしました。そしてそれは最初にありましたように「聖霊に満たされて」説教は始まっています。このように、あの2章のペンテコステの日の朝から変わることなく、み言葉の解き明かし、つまり「説教」は、聖霊が働いているのであり、聖霊はみ言葉を通し、語るものを用いて、人々に語りかけるのです。ですからこの時の事実も、間違いなく聖霊なる神がみ言葉を通して、ステパノを用い、間違いなく、ユダヤ人たちに語りかけていたのです。しかしここで明らかなように、彼らはそれを受け入れることができなかったのです。この事実は伝えているでしょう。それは、たとえ「聖霊に満たされて」語られていたとしても、み言葉の説教、福音が、いつでも受け入れられるとは限らないということです。いやむしろはっきりとわかることは、人間の現実、人の罪の性質は、このように聖霊の導きを、拒み、退けようとするものだということです。
B、「自由意志とは何の自由?」
 よく人間には「自由意志」があると言われます。ですからある人々は「人はこの「自由意志」があるのだから、自分である程度、信じることができるんだ。決心できるんだ。自分で救いのために神に対して何かをできるんだ。努力ができるんだ」いうのです。しかし皆さん考えてみてください。もしそうであるなら私たちには救いはあり得なくなるのです。みなさん。人の「自由意志」というのは、神を信じることができる自由ではありません。信じることができる自由な意思は私たちにはありません。どういうことでしょう。もし「自由意志」ということに、私たちの方で神を信じることができる自由、意思があるというなら、私たちの信仰は私たちの意思で信じることができる「私たち自身の業」ということでしょう。そうなると「信仰」「信じること」は「私たちがしなければいけないこと」、つまり、律法になります。そして、そうなると「信仰によって救われる」という時、「救いは神の100%の恵みによる」のではなく「私たちのわざによる」となるでしょう。ですから、私たちの「自由意志」が、「自分で信じる意思、自由がある」とすると、実は聖書や救いの教えに全く矛盾することになります。それは私たちの救いは皆自分自身にかかってしまいます。そして「救われている」という確信は誰も持つことができません。救いの拠り所が自分の行いにかかってしまうのですから、いつでも不安です。しかし、聖書は信仰は賜物であり、救いは恵みであるといい、イエス様は「平安を与える」と言っているではありませんか。私たちに「信じることができる」という「自由意志」はあり得ません。むしろその自由は、私たちの性質、罪の性質ゆえ、信じようとしない、信じることができない。むしろ拒み、退けようとする自由意志しかないのです。
C、「誰も罪ゆえに信じることができない。だからこそ」
 ですから、彼らがここで拒み、怒りを燃やすのは、まさにその姿です。人間の当たり前の姿、罪の姿そのものなのです。人はそのままの性質では、どこまでも聖霊に背を向けようとし、み言葉、福音に拒もうとするのです。ですから本来的に、罪ある人間にとっては、聖霊の働きである説教も、宣教も人間の頭の中の「こうすればこうなる」というような決して簡単なことではありません。むしろいつでも拒否に直面するし、望まざることにも直面するし、私たちの思いや計画をはるかに超えたものなのです。しかしその事実こそが、私たちに揺るがない光、ただ「イエス・キリストのみ」を指し示すでしょう。そうだからこそ、私たちが救われていること、信じていること、信仰が与えられていることが、いかに奇跡であるかということがわかるのではないでしょうか。私たちが信じていること、信仰の歩みにあることが、いかに、神の恵みが働いているか、思わされます。そうです、私たちも拒むものでした。私もそうでした。しかしそのような私たちを見捨てずにみ言葉を通して聖霊は働いて、私たちに起こり得ない、信仰を与えてくださっていることは、まさに神の奇跡でしょう?それは聖霊が、拒む私たちの心にそれでも働いてくださり、素晴らしい宝を与えてくださった、その出来事の間違いのない証しが、クリスチャンとしての私たち自身であり、私たちの信仰なのです。このユダヤ人達の恐るべき怒りの聖句にさえも、ものすごく感謝なメッセージがあるのです。「信仰が与えられている恵み」です。

3.「栄光は誰により、どこにあるのか?」
A, 「イエスに」
 第二に教えられること、それは「真の栄光は誰により、どこにあるのか?」という問題の答えです。このところは、私たちには理解できないことに導かれます。見てきましたように、聖霊によって選ばれた執事の中でも、最も敬虔だと尊敬されていたステパノです。そして聖霊に満たされて語ったステパノでした。しかしその結末は、彼は怒りのうちに殺されるのです。みなさん、これは私たちには逆のように見えます。栄光の神学や繁栄の神学の目で見れば、全く矛盾です。そこには成功も繁栄もありません。望むような状況もありません。そうです。神は確かに助けることができます。そこにいる議員たちを滅ぼしステパノを助けることができるはずです。敬虔で7人の中でも一番優れた執事ですから、人の思いにはかれば、生きていてくれた方が、教会で用いられると考えます。しかしそれはどこまでも人の思いです。神がここで教会に与えた答えは、ユダヤ人の怒りのままにステパノを殉教させる、ステパノの死でした。これは私たち人間の価値観や合理性には当てはまらない、理性では納得できないことです。多くの人はこの不合理性ゆえに躓くのです。しかし神がイエスを通して与えた救い、福音の奥義、十字架に現されたことであり、その通りのことがここにも起こるでしょう。そして、神の栄光はどこにあるでしょう。
「しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスを見て、こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」55〜56節
 「聖霊に満たされていたステパノ」とここでもあります。その彼が見ていたもの。もちろん、その目には、歯ぎしりをし自分に怒りを燃やす権力者達も当然見えています。目に見える現実です。しかし、聖霊に満たされていたステパノに、主はどう答えたでしょう。主は、ステパノに神の栄光を見せるのです。それは、他の人は見えません。聖霊に満たされていたステパノに示されたものです。そしてそれは「地上」とはありません。「天が開け」とあるでしょう。「天に」開かれた神の栄光です。そしてその栄光はどこにあるでしょう?栄光は天の神の右に立っているイエスにあるのです。ステパノはそれを見たのでした。
B, 「天の神の右の座の」
 主イエスは「天の神の右の座で」ステパノを「見ています」。地上に来て助けるのではない。あくまでも見ています。おかしいことのように見えるかもしれません。しかし聖霊に満たされたステパノは、そこでなぜ助けにこないのかとは言いません。地上に、人間の願うように、今ここで栄光を現せとは言いません。「自分の願う通りになったところに神がおられる、神の栄光がある」というのが栄光の神学の特徴ですが、ステパノの信仰はそうではありません。天の神の右の座におられるイエスにこそ神の栄光があるとして天のイエスを指し示すでしょう。
「こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
 と。ステパノには確実に見えているんです。そしてそれは素晴らしいものとして見えていて、周りにも見えているように思える言い方です。そしてそれはイエスがまさに約束していた通りです。天の右の座に着くと。それこそ来たるべき王の王座でした。弟子達は「地上の王国」を思って、「その右と左に自分たちこそ」と間違った願いを持っていましたが、神が預言者達を通して約束した王座、神の国の王座は、人が建てた崩れゆく神殿の王座では確かにありませんでした。天の神の右の座の王座でした。神の国は、確かに地上のものに治らない、まさに「天の御国」なのです。その「イエスの約束の通りだ」と、ステパノは天のイエスを指し示し「見よ、神の栄光がある」というのです。
C,「ステパノが指し示した神の栄光:証人・宣教とは?」
 ここにキリスト者の証し、宣教の原点はここにあります。私たちの証し、宣教は神の栄光を指し示すものです。その栄光は何でしょう?どこにあるのでしょう?どこに私たちは神の栄光を見、何を指し示すのでしょうか?それは十字架にかかってよみがえられた復活のイエス・キリストなのです。栄光はイエスにこそある。しかも天の神の右の座にあるイエスです。それは何を意味しているでしょうか?それは救いの完成、つまり「未だに」ではなく「すでに」を意味しています。十字架と復活、そして昇天で、全ては完成し、そこに神の栄光は現されたのです。ですから、私たちが願った通り、計画した通りになったところに神の栄光がある、神の栄光が私たちによって現されるという「「未だ」「これから」の栄光」を私たちが指し示すのではないのです。救いは完成した。栄光はすでに現されている。イエス様の十字架に。神の国は完成した、イエス様の十字架と復活に。それが、ステパノの見た栄光、いや、主なるイエスが聖霊に満たされたステパノに「見せた」真の栄光に他ならないのです。私たちは「目に見えるものにある栄光」を証しするのでもなければ「自分たちが実現する栄光」を指し示すのでもありません。まさにみ言葉に約束されている神の奥義である福音。見えない、朽ちることのない、いつまでも残る、イエス・キリストの完成された栄光。十字架と復活に立つ、永遠のいのちの国を、み言葉を通して指し示すものなのです。
D, 「地上の物事は天の恵みのゆえに始まる:「どちらか」の問題ではなく」
 「じゃあ、地上の物事は大事ではないんだ」、そう思うかもしれません。大事ではないなんてことは全くありません。「どちらか」の問題ではないのです。大事なことは、地上の私たちの生き方は、まさにその「神の栄光をどこに見るか」ということから、全てが始まるということです。「すでに」現された神の栄光、イエス・キリストを見るから、その福音に、十字架と復活の救いに預かるからこそ、その「既に」の神の栄光を、私たちは確信を持って証しできるでしょう。それこそ喜びと賛美を持ってです。もし「未だ」あるいは「これから私たちによって」という栄光を伝えるなら、不安と重荷ではありませんか?福音とはそのような重荷を私たちに負わせるものではありません。イエスによって「すでに」救いは完成しました。十字架と復活に。神の栄光は、すでに天の神の右の座です。「すでに救いは完成した、神の恵みのゆえに」だからこそ、私たちは喜んで世に出て行けるでしょう。その素晴らしさを伝えることができるでしょう。その栄光を知っているからこそ、私たちは、福音と聖霊の力によって真に隣人を愛して行けるではありませんか。「未だに」「これから私たちによって」ではなく、「既に」「イエスのゆえに」の福音を通して聖霊は私たちを平安にし、喜びで満たすのであり、その福音の与える平安と喜びが、律法ではない、真の良い行いや隣人愛へと私たちを駆り立てるのです。しかもそれはイエス様のようにです。
E, 「「キリストのように」は律法ではなく福音のわざ」」
 そのことはステパノの最後の言葉に現れています。56節までのステパノの言葉に対して、ユダヤ人たちは、57〜58節にあるように、殺意に駆り立てられ、ついには石打ちにして殺します。しかし59〜60節こう結ばれています。
「こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。そしてひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
 当然、壮絶な痛みがあったでしょう。死にゆく寸前のことです。しかし聖霊に満たされ、この「死の陰の谷」にあっても「イエスの栄光」を見ていたステパノは、驚くべき言葉へと導かれ、その生涯を閉じるではありませんか。
「私の霊をお受けください」「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」
 それは十字架上のイエスの言葉と同じ言葉です。当然のことですが、ステパノは神ではありません。救い主でも、キリストでもありません。ここでキリストになったのでもありません。彼は死の時まで一人の罪人です。しかしこの言葉に導かれたステパノ。ステパノが強いからですか?ステパノが立派だからですか?違います。それだと新しい律法主義や、聖人信仰のようなステパノ信仰を生むだけです。そうではありません。ステパノのこの言葉は、聖霊に満たされていたステパノに働いていた、聖霊の力、十字架の福音の力に他なりません。神の栄光、十字架の福音、全く恵みによる「既に」の救いの喜びは、私たちの思いをはるかに超えたことを私たちにさせ得るのです。特に、愛ということについてです。皆さん、自分に石を投げるもののために、この愛の祈りができますか?人間にはできないことです。肉のステパノ、罪深いステパノのままではできないことです。しかし福音はそれをさせる力があります。聖霊は私たちの思いをはるかに超えたことを、私たちを通して、世に現すのです。み言葉を通して、福音を通してです。それは誰も計算も予想もできません。しかし素晴らしい約束なのです。ですから、私たちも、まずみ言葉に聞きましょう。そして与えられている信仰にゆえに、そしてイエス様に栄光を見るがゆえに、主イエスにあって、世に出て行きたいのです。もちろん世にあって患難はあふれています。この世は死の陰の谷です。しかしその患難にこそイエスの十字架は立っています。そこに神の国はあると。神の栄光はあると。あなた方の朽ちることのない永遠のいのちの道は開かれていると。だからこそ乏しいことは何もないのです。イエスにあって、歩んで行きましょう。