2017年10月1日


「私たちはそのことの証人です」
使徒の働き 5章17〜32節

1.「はじめに」
 アナニヤとサッピラの出来事は人々に「おそれ」を生じさせました。しかしその「おそれ」は恐怖や脅しのことではなくて「聖霊なる神を偽ることは決してできない」こと、そして「聖霊は確かにおられ自分達に教会に働いてくれている」ということへの確信を新たにさせられたことを意味していたのでした。ですから彼らは益々聖霊への信頼が新たにさせられ、聖霊に求めたからこそ、聖霊の力によって大いなる不思議を現したのでした。しかし宣教はいつでも問題なく順調ということでは決してありません。求める人や受け入れる人も多く集まってきて信じて加えられてはいましたが、福音に対する反発や迫害も決して小さくなかったのです。その弟子達による宣教や不思議な出来事を聞きつけた宗教指導者たちですがこう始まっています。

2.「妬み」
「そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者も皆、妬みに燃えて立ち上がり、使徒たちを捕らえ、留置場に入れた。」17節
 「大祭司」は神殿の儀式、礼拝を司る人々です。「その仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者も皆」とありますが、「サドカイ派」はいわゆる議会派で、「サンヘドリン」と呼ばれるユダヤ人議会のメンバーでした。何よりも彼らは、ルカの福音書でも見てきましたように、かつてイエスを逮捕し、大祭司カヤパの家に連れて行って尋問し、ローマ総督ピラトの裁判に引き出して、ついには扇動して有罪にし十字架につけて殺した人々でした。また彼らは神殿で足の不自由な人を癒して福音を伝えていたペテロとヨハネを、やはり逮捕して留置した人々でもありました(4章)。その時は、ペテロがあまりにも大胆に、しかも反論できないほど理路整然と聖書から福音を語ったので、彼らは戸惑い、「もうイエスのことを語ってはいけない」と脅した上で釈放せざるを得なかったのですが、その何日も経たないうちに再び、エルサレムの街は、イエスの弟子たちによる大いなるわざと福音で騒がしくなったのでした。彼らはそこに、やはり多くの人が彼らの癒しに求め、語る福音に従って行くのを認めざるを得なかったのでしょう。ですから26節で、彼らが街の群衆を恐れていることが記されているのですが、しかしそれでも彼らは人々のようにイエスを受け入れるのではなく、イエスキリストとその福音に対してどこまでも反発するのです。自分たちが妬みと悪い策略でそのイエスを十字架につけて殺したのですから。まさにこの時も彼らは同じように「妬み」を燃え上がらせるのです。そして今度はペテロとヨハネだけではないようです。他の使徒達も含め、逮捕し留置所に入れたのでした。

3.「試練と助け」
 迫害、困難、望まざることはイエスが言った通り絶えず起こってきます。そしてパウロはこう言っています。
「十字架のことばは滅びに至る人々にには愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それはこう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを虚しくする。」」第一コリント1章18〜19節
 と。その通りです。パウロはここで「ギリシャ人は知恵を求め」とは書いてはいますが、当然、ギリシャ人だけではなく「世の知者、知恵」を表しています。そしてユダヤの宗教指導者たちは社会では教育を受け博識ある「知恵ある者」でもありました。しかし彼らにとっては福音は「愚か」であり「妬み」でしかありません。その一方でまさに教会の宣教と癒しの出来事は、ただイエスの恵みによって救い出され聖霊を与えられた弟子達を通して、その福音による神の力が表された出来事であったのです。教会も宣教もいつでもみことばに「逆説の真理」があることを、この迫害の出来事は伝えています。しかしこの「試練」に直面する教会ですが、主の助けがすぐに現れます。19節ですが
「ところが、夜、主の使いが牢の戸を開き、彼らを連れ出し」
 こう続いています。その逮捕されたその夜です。主の使いが彼らを牢から出したのでした。「試練」に対しては、必ず「脱出の道が備えられている」(第一コリント10:13)ともパウロは記していますが、その通りです。神は決して私たちの試練を見過ごしたりはしておられない、そして助け、脱出の道を備えてくださっていると慰めの約束を教えられるのですが、しかしです。こう続いているでしょう。
A, 「助けは主の目的に従って」
「行って宮の中に立ち、人々にこのいのちの言葉をことごとく語りなさい」と言った。彼らはこれを聞くと、夜明けごろ宮に入って教え始めた。」20節
 主イエスは、試練、艱難に対して必ず脱出の道、助けを備えてくださっています。しかし、それはこの時のように「すぐ」の時もあれば、「すぐでない」時もあります。むしろ「すぐでない時」の方を私たちは経験します。長い間、祈っても答えられないように思う時は誰もが経験することでしょう。あるいは自分の祈ったような答えが与えられなかった時もあることでしょう。しかしそれはイエスが聞いていないのでも、無視をしているのでも、約束を偽っているのでも決してありません。私達はそれがいつとかどんな時とかはわりません。しかしイエスは「その時」を定めておられる、ということが一つ言えることです。そしてそれ以上に、この20節の言葉が伝えていることは、「その時」は、イエスが無計画に適当に決めているのでは決してない、そこには、イエスの目的と計画があってこそ「その時」があるということが、ここで教えられていることでしょう。
 その「目的」とは「宮に立ち、人々にいのちの言葉をことごとく語」らさるという目的と計画です。しかしみなさん。これも実に不思議です。この20節の目的だけ見るなら、「ああ確かに宣教が目的なんだなあ」と思います。しかしこの後まで、見て行くと、大祭司達は、逮捕した使徒達がいないことで右往左往し、苛立ちを強めます。そしてせっかく牢獄から出されたのに、御使いに言われた通り、朝早くから神殿で語り始めたために、再び捕らえられ、彼らは結局は議会に引き出されます。そして彼らはその議会でも臆することなくイエスの十字架と復活を語るのです。それもまたイエスの目的と計画の一部であったと言えるわけですが、しかしこのように牢獄から出されたものの、良いことばかりではなく、むしろ私たちから見れば、良くないことが続きます。33節を見ると、26節では人々の手前、「手荒なこと」は控えていた大祭司達ですが、33節ではイエスの十字架と復活のメッセージを聞いて彼らは「怒り狂い、使徒達を殺そう」とするでしょう。妬みは殺意にまで大きくなります。そして結局は、40節では彼らは鞭打たれることになります。更に言えば、この妬みから怒り、そして殺意と言うのは、まさにこの後、7章のステパノの処刑、そして8章のサウロによる大迫害、それによるエルサレム教会の破壊と縮小の「伏線」になっています。
B, 「知恵ある者のの知恵を滅ぼし、」
 みなさん、こう見て行くなら、私たちの目から見るなら「神のその計画、目的とは何なのだろう」と思ってもおかしいことではありません。当然です。私たちから見れば、望まない、予期しないような災いが続いていきます。多くの不思議、逮捕、牢からの解放から、皆、繋がっている出来事です。そうであるなら、もし最初から逮捕されないように助けてくれれば、こんな災いが避けられたかもしれないのに、とそう思うかもしれません。しかしそれは「私たちから見ればそう見える」と言うことにすぎません。「私たちから見れば」です。ここにも、先ほどのパウロの引用した聖書の言葉、
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを虚しくする。」
 は当てはまるでしょう。イエスの目的や計画は、私たちの知恵、賢さでは計り知れません。私たちの知恵や賢さではかるなら、その神の目的や計画は愚かに見えたり矛盾するように見えたりするのです。しかしそこにこそ神であるイエスの目的と計画は確かにあるのであり、それは決して誤りや矛盾がない。しかも皆さん、み言葉を思い出すでしょう。その計画には「神は全てのことを働かせて益としてくださる」(ローマ8:28)とまで言う揺るぎない約束も置かれているでしょう。そのような完全な目的と計画を持って、イエスは私たちを見ておられと言うことなのです。イエスは私たちの試練も苦難も悲しみ見ています。私たちの祈り、叫び、嘆きを聞いてくださっています。そして、その目的と計画に従って、イエス様は必ず働いてくださいます。それはいつとかどんな時とかわからない。私たちの知恵や賢さで思い計ることとは違うかもしれません。しかしイエスは約束してくださっています。「全てを益とするためである」と。つまりそれは「神のため」ではなく「私たちの益のため」「私たちの良いことのためだ」と。
C, 「信じられないからこそ」
 そうは言っても、約束してくださっていると言われても、それを「信じる」ことも「容易ではない、信じられない」ものです。誰もがそうです。しかし現実として、確かなのは人の言葉や人の心配ではなく、イエスの約束、言葉なのですから、私達は「そう信じる者達」なのですから、「約束の通り必ずイエスは良くしてくださる」と信じる時にこそ、私達は本当の安心、世が与えることが決してできないイエスの与える平安に与ることができるでしょう。それが信仰の強さです。そしてその信仰さえも聖書にある通り、イエスからの賜物であり日々、聖霊がみ言葉を通して強めてくださるものなのですから、私達はそのように「信じさせてください、そしてあなたの平安を与えてください」と祈りたいのです。祈る時、聖霊は私たちの信仰を必ず強めてくださるのです。

4.「議会での尋問の場で」
 さて、使徒達は再度拘束され、議会に結局は連れ出され尋問されます。
「あの名によって教えてはならないと厳しく命じておいたのに、何と言うことだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、その上、あの人の血の責任を我々に負わせようとしているではないか。」28節
 彼らは「イエスの名」と教えが、エルサレム中に広まったしまうことを非常に恐れていることがわかります。そしてかつてイエスを十字架につけた時に、彼らは妬みはもちろん偽りの証言を並べ立てて、しかもピラトが三度「この人には罪はない」と言ったのに、群衆を扇動してイエスを十字架につけて殺しましたが、ここで彼らにはそのように妬みや偽りの証言や、無罪の人を有罪にすることへの罪悪感が見え隠れしていることもわかります。そのように何ら法的な根拠があってではなくて、彼らの勝手な思いと感情で、使徒達に「イエスの名によって教えてはならない」と命令していたのでした。
A, 「対決ではなく福音」
 しかしそれに対してペテロはどこまでも一貫しています。
「ペテロを始め使徒達は答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。私たちの父祖達の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスをよみがらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従うもの達にお与えになった聖霊もそのことの証人です。」29節以下
 まず「イエスの名によって教えてはならない」と言う強い命令がありました。「脅して返した」ともありました。しかしそれに対しペテロははっきりと言います。「人に従うより、神に従うべきです」と。しかし、ペテロや使徒達は、彼らと「対決」していません。彼らが言う、その「イエスの血の責任」も当然求めていません。むしろペテロは、この尋問する彼ら、妬みと怒りにある彼らに対しても、どこまでも十字架と復活を伝えているでしょう。そして、はっきりと言っています。
「神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。」
 これはまさに「福音」です。「神は悔い改めと罪の赦しを与えるためにイエスを遣わしてくださった。イエスの十字架は、私たちに罪の赦しを与えてくださる」。そのようなメッセージであることがわかるでしょう。しかも「私たちはそのことの証人です」と言っています。「キリストの証」というのは、イエスが言われた「聖霊が臨む時、力を受け、地の果てまでわたしの証人となる」の言葉の通り、聖霊に満たされて、聖霊による説教、福音の宣言、証しのことに他なりません。つまり「証し」は「福音の働き」「キリストの働き」なのです。ですからここでは、イエスご自身が、使徒達を通してこの大祭司、議員達に対して、怒りでも裁きでもない、対決でもない、この福音の言葉を語っているということです。
「神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。」
 と。皆さん、ここに神の揺るぐことのない、そして広く限界のない思い、愛、目的が現れています。それは誰一人例以外なく「全ての人」がこの「罪の赦し」を受けて、救われることです。罪赦されて安心することです。それは敵であろうと誰であろうと、誰一人除外されない。自分を十字架につけて、今尚妬みにかられている彼らであっても、この後怒り狂って愛する使徒達を殺そうとまでし(実際、ステパノを殺し)、鞭打つ彼らであったも、決して除外されない。彼らにも罪の赦しこそ福音、良い知らせであると、イエスは聖霊により、使徒や弟子達、教会、クリスチャン達を通していつでも語ってくださっているということなのです。それは私たちに対しても同じ恵みです。
B, 「福音の素晴らしさ」
 皆さん、このところから教えられることは何でしょうか?私たちのイエスの前のふさわしさは、立派な行いをするから、戒めを完全に果たすからクリスチャンとしてふさわしい、そう言うことではありません。私たちは救われて今尚、罪人です。信仰によって100パーセント救われています。信仰のゆえに100パーセント私たちは義と認められています。しかし同時に、私たちは今なお100パーセント罪人でもあります。罪を犯してしまいます。しかし、だからふさわしくないではない。だから救われていないではない。だから聖餐式を受けるに値しないではないのです。イエスは罪深い私たちのためにこそ来られたのです。今なお罪深い私たちのためにこそ、今日もこの十字架が私たちに指し示され、福音を語ってくださっています。罪に苦しみ私たちは神の前に今日も来て悔い改めるからこそ、イエスは私たちに宣言してくださるのです。「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と。それが礼拝、福音の説教、宣教の素晴らしさに他なりませんし、聖餐式の幸いでもあります。あの最後の晩餐の時、イエス様は、罪深い弟子達をご存知の上でパンを裂き、ぶどう酒を渡したように、私たちが罪深いからこそ、イエスは同じようにみ言葉とこのパンとぶどうを持って、私たちにイエスのからだと血を与えてくださるのです。福音は「神であるイエス様が私たちのためにしてくださること」です。つまり、そのまま信仰を持って受けるものが福音です。誰でも受けることができます。ぜひ受けて、平安と確信をいただいて、今日もここから遣わされて行きましょう。