2017年9月3日


「神の前の神の目」
使徒の働き 4章36〜5章11節

1.「はじめに」
 初代教会のクリスチャンたちが、それぞれの財産を献げ共有し、共同生活をしていた記録。その共同生活は、人の思いつき、あるいは、人の強制や力による献金や一致ではなくて、どこまでもみ言葉と聖霊の満たしによる神の大いなる恵みの現れでした。アナニヤとサッピラの出来事もこの続きにある出来事ですが、一転、非常に恐ろしい記録です。しかしこのこともやはりそこに聖霊なる神が働いているからこそのことであるとつながってくるのです。この出来事ですが、決して「全部を献げるから良い、全部を献げないから駄目だ」という良し悪しの問題ではありません。むしろ教会がどこまでも「聖なる神の働き」であるからこそ、私たちは「人の前での敬虔」より「神の前での正直さ」が大切であることを伝えているのです。

2.「バルナバ」4章36節
「キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足元に置いた。」
 バルナバは、ユダヤ人でしたが、イスラエルで生まれ育ったネイティブのユダヤ人ではなく、散らされたユダヤ人の子孫でありキプロス生まれのユダヤ人でした。つまりユダヤ人としての教育を受けながらも、ギリシャ、ローマ文化の中で育って来たのです。そのような彼も、使徒たちの語る福音によって「イエスは救い主」と信じて洗礼を受けた一人でした。彼はヨセフという名前でしたが、使徒たちによって「バルナバ」と呼ばれていました。それは「慰めの子」という意味であるとありますが、彼は人々があまり受け入れたくないような虐げられている人や嫌われている人を受け入れるような人でした。回心したばかりのパウロを真っ先に受け入れ隠まったのがバルナバでした。それまで大迫害者であったパウロですから、たとえ彼が回心したと言っても、クリスチャン達が彼をすぐに赦して喜んで受け入れ交わることは決して容易なことではありませんでした。しかし彼はそのような虐げられたり嫌われる者の心にある孤独やその悲しみや苦しみに彼は同情できる人間でした。まさにイエスがそうであったようにです。その彼の賜物がパウロの回心の時に用いられ、そのような人柄のゆえに「慰めの人」と呼ばれたとも思われます。そんなバルナバもそのみ言葉と御霊の導きに従い自分の畑を売りその代金を使徒たちの足元に、つまり教会に献げたのでした。

3.「アナニヤとサッピラ」
 しかしそれと対照で書かれているのが、アナニヤとサッピラの夫妻です。
「ところが、アナニヤという人は、その妻のサッピラとともにその持ち物を売り、妻も承知の上で、その代金の一部を残しておき、ある部分を持ってきて、使徒たちの足元に置いた。」5章1節〜
 アナニヤという名前は、ヘブル語の名前であり、意味は「主は恵み深い」です。サッピラという名はアラム語の名前であり、意味は「美しい」です。つまり彼らは、バルナバの家系のように散らされたユダヤ人ではなく、まさにイスラエルで生まれ育ったネイティブのユダヤ人でした。彼らがイエスを信じ洗礼を受けたのかどうかは書かれてはいません。もちろん、洗礼を受けたクリスチャンであるとも大いに考えられますが、一方で、この理想的な共同生活や人々の敬虔な姿に人々が惹かれることは今も変わりませんし、敬虔なものへの憧れが強いこの時代はなおさらのことです。ですから憧れや人の思いによって仲間に近づいたり加わろうとする人も当然少なからずいたことでしょう。アナニヤとサッピラはどのような経緯でこの教会に関わるようになったかは詳しくはわかりません。しかし事実として彼らも持ち物を売りました。そしてその一部を残して教会に献げたのでした。しかしこう続いています。

4.「問題は何か?」
「そこでペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金を残して置いたのか。」
 ペテロは二人にこう言うのです。それは彼らの罪を指摘する言葉です。なぜなのでしょうか?アナニヤとサッピラが全部ではなく一部を献げたからなのでしょうか?人はとかく額や量の方に注意が行きますからそう理解されるかもしれません。しかし、ペテロが問題とするのはそこではないのです。こう続いています。4節
「それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。なぜこのようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」
 まずペテロははっきりと言っています。その財産も売ったことで得たお金もあなたのものだと。それは売ってからもあなたの自由になったのだと。そのように決してペテロは献金を強要、強制したりすることもなければ、まして「全部でなければ不信仰だ、ダメだ」などということもないのです。この初代教会の時代からも変わることなく、献金、奉仕でさえも、神への献げものは、強制や義務とか決まりごと、律法ではなく、信仰のゆえに喜んで、自由に献げるものであったことがこの言葉からわかるのです。ですから、バルナバもそうであったでしょう。ここで財産を売り、献金を献げる人々、全額献げ、自分の財産ともはや思わないで、みんなのものであるとして共同生活していた人々は、喜んで、信仰のゆえにしていたことであり、それは強いられてでも義務でもない、自由な行いであったのでした。
A. 「人の前の敬虔の追求:企てと人への欺き」
 しかし、アナニヤとサッピラは、どうであったのでしょふ?ここに「企んだ」とあります。しかも「人を欺いた」とあるのです。二人が献金を献げたのは「企て」であったわけです。自由に喜んでのことでもなければ、「信仰」によってでもありませんでした。それは「企て」でした。つまりそれは自分の思いから出た「自分のための」ことだとわかります。そしてその「企て」は「人を欺く」ことでもあったのです。敬虔と見られるユダヤ人達の偽善についてはイエスは山上の説教でこう述べています。マタイ6章ですが偽善者は「人にほめられたくて会堂や通りで施しをする」(6:2)とか、祈る時に「人に見られたくて会堂や通りの四角に立って祈るのが好きだ」(6:5)とか断食の時にも、「やつれた顔つきをして、人に見えるようにする」(6:16)とも書いています。ユダヤ人は敬虔を重んじる人々ですから、社会にはものすごく敬虔な人々が沢山いましたし、その彼らの敬虔(piety)は社会では大変、褒め称えられましたが、しかしその敬虔が「神の前の敬虔」というよりは「人の前の敬虔」であることをイエスは見抜いていたのがこのイエスの指摘でした。それは人に見せるため、人によく見られるための敬虔です。アナニヤとサッピラもユダヤ社会で育って、財産を持っている家柄ですから、ユダヤ教の教育も受けてきたのでしょう。ですから良い名前もつけられました。しかしその敬虔はやはり人の前の敬虔であり、この時も、「人を欺いた」「企て」とある通り、人に見せるための献金、つまり、彼らは一部を献げたのであれば「一部」と正直にいえばいいのに、一部を残して置いたのを隠して、あたかも全額のように献げたのでした。それは8節のサッピラの証言からも明らかです。ペテロがサッピラに「本当にこの値段で売ったのか」と尋ねた時に、サッピラはそうではないのに「はい、その値段です」と答えています。これが彼らの人を欺く「企て」だったのです。まさに、彼らは「人の前」の意識はあっても、「神の前」「神への正直さ」がなかったのです。そのことをペテロは指しているのです。
B, 「聖霊を欺く行為」
 その二人の献金は明らかに「喜んで」でもありません。自由でもありません。彼らは自分のよく見せたい、よく見られなければいけないという思いに縛られています。そして、何より信仰から出ていないです。なぜならその欺こうとする「人の前」は見えていても、「神の前」は全く見えていないからです。ですからペテロはいうのです。
「聖霊を欺いて」そして「あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」 
 と。アナニヤとサッピラは人を欺くことはできたかもしれません。しかし、そのような偽りの心は神を欺くことはできなかったのでした。ペテロにその欺きがわかったのは不思議ではありますが、聖霊の特別な働きがあったとも思われます。いずれにしましても、神の目を欺くことはできなかったのです。アナニヤはそのペテロの言葉を聞いた時、5節ですが、
「アナニヤはこの言葉を聞くと、倒れて息が絶えた。そしてこれを聞いた全ての人々に、非常な恐れが生じた。」
 アナニヤは神の前に、息絶えたのでした。そして妻のサッピラも先ほど触れた通り、やはり神の前での神への献金であることを忘れ、嘘をつき、そして同じように彼女も息絶えるのでした。この出来事は、教会全体とこれを聞いていた人々に非常な恐れが生じたと結ばれています。

5.「神は何を語っているのか?」
A,「神の前」
 みなさん、この出来事は私たちに何を伝えているでしょうか。それは「神を恐ること」の大切さと言いますか、「人の前」の敬虔ではなく、私たちはいつでも「神の前」にあることを覚える大切さを伝えているでしょう。決して、献金は一部ではダメで、全額を献げる方がより敬虔であるとか、そうでないと不信仰だとか、そのような教えでは絶対にありません。むしろ人の前でどんなによく見られようとも、全額を献げるような行為ができたとしても、その心に偽善があるなら、企てがあるなら、人を欺き、自分がよく見られようということであるなら、それは神の前には明らかであり、それは神を欺くことなんだということです。イエスは山上の説教では、そのような偽善は厳しく断罪して、それは世で報いを受けているといい、むしろあなた方は、誰も見ていない隠れたところ、むしろ神が見てくださる誰もいないところで、善行や祈りや断食をしなさい、そうすれば、神の報いを受けると、真の幸いを伝えています。
B,「献金は神へ、しかも喜びと自由のうちに」
 そしてそれが「人の前」ではなく、「神の前」にあるものであるなら、献げものや奉仕などは、それは誰か「人」とか、あるいは「教会という組織」へ献げるのではなく、どこまでも「神へ」献げるものであるということもわかってきます。しかも、強いられてもで、義務でもありません。企てもありません。人からよく見られるためでも、人からの報いを受けるためでもありません。どこまでも喜んで、何からも縛れない、信仰の自由で、神へ献げるものだということが教えられるのではないでしょうか。
C, 「正直なへりくだった心」
 ですから、今日の箇所のメッセージは、決して量や額の問題ではありません。最初から述べてきたように、「一部ではダメだ。少なすぎてはダメだ。全部でなければダメだ」ということをここは言っているのでは決してありません。イエスは一貫して「信仰こそ」を求めておられます。それは「神の前」に偽ることではなく、むしろ私たちの正直なへりくだった心こそを喜ばれます。「人は上辺を見るが、神は心を見られる」とも第一サムエル記にあります。「神の目」は全てをご存知である目であり決して欺くことのできない目です。
D, 「福音:神の前の神の目は十字架上の私たちを見つめる目」
 私たちは神の目を見失ってしまったアナニヤとサッピラのようではなく、そのような「神の前」の本当のメッセージに立ち返る時に、私たちは幸いを得ることができるのです。アナニヤとサッピラは、そのユダヤ社会にある、沢山献げることが敬虔であるという間違った価値観に流されていたと言えるでしょう。しかし「善い行い」やたくさん献げることが救いとか敬虔だというのは、それは律法主義です。しかしそれがユダヤ社会を象徴している価値観でした。しかし律法主義は結局は「人が何をすべきか」と人が主眼、人が中心になりますから、たとえ神の律法であっても、人間の性質上、必然的に「神の前」を見失ってしまいうのです。では、神の前にあって私たちはどう立つのでしょうか?私たちは「神の前」に一体、何を見ることができるでしょうか。私たちが聖書から教えらえる「神の目」はどんな目でしょうか。それはもはや「律法の目」ではないでしょう。私たちは知っています。神の目は、それは「十字架上の人類への愛の目」ではありませんか。愛と憐れみの目、罪の赦しの目です。それは、私たちの欠点も足りなさも、不十分さも全てご存知でありながら、私たちを救うために自分を犠牲にされる目です。みなさん、その「愛の目」を知るなら、もはやその神の前に、自分を良く見せる必要はありません。自分を偽る必要はありません。つまり神の前にあって律法主義に帰ることはナンセンスであり、もはやそこに帰る必要はないのです。

6.「おわりに」
 十字架のイエスは私たちの罪の全てをご存知の上でそれでも私たちを愛してくださり、その私たちの罪を全部背負って、私たちが負うべきだった十字架と死を受けてくださいました。そのようにイエスの十字架のゆえに、「神の前」は今や、平安の場所なのです。救いの場所です。喜びの場所ではありませんか。ですからメッセージは、「真の神の前」を知ることは恐れだけでなく、私たちの本当の幸いにつながっていると言うことです。律法ではなく、この福音にあって安心して神の前に立つことができる幸いです。真の平安と喜びと自由がそこにあるからです。そして、その平安と喜びからこそ、企ても人の前も気にしない、見返り求めない、真の献げもの、真の善い行いがあるのです。どんなにわずかでも、それが一部であっても、神の前に正直にそして喜んで、イエスの救いに応答するものであるなら、神は喜んでくださるのです。ぜひ神の前に、神の愛と恵みは溢れていることを知り、それを受け、ここから遣わされていきましょう。