2017年8月27日


「聖霊に満たされて」
使徒の働き 4章32〜37節

1.「はじめに」
 前回は、ペテロとヨハネが、エルサレムの宗教指導者たちから脅された上で解放され、仲間たちのところに帰ってきたところを見てきました。しかし、の時ペテロとヨハネは、仲間に恨みや嘆きや不安を報告したのではなく、その迫害の時にも主イエスの恵みが溢れていたことを人々に証しします。それを聞いていた人々も、イエスの恵みは確かであることを確信させられ、神に対し賛美と信仰の告白と、そして聖霊の満たしを求める祈りをささげたのでした。その時、その人々も「聖霊に満たされ」福音を大胆に語り出した。前回はそこまでを見てきたのでした。
 今日のところは、そこから続いている出来事です。ここに書かれている教会の姿は、ある意味、教会の歴史に波紋を広げ、「これが理想的な教会の姿である」と主張するグループがいくつも生まれては、その理想を強調する故に、政治主張に発展したり、争いさえも起こってきた歴史もあります。事実、確かに、今の教会の姿とは違うものも見せられます。クリスチャンであってもとかく福音を律法的に捉えてしまう性質があるのですが、しかしこのところで私たちが間違ってはいけない大事な点は、「この時の姿が本当の姿であり、今は偽りの姿である」とか、そのような「どちらが正しいか」論、ではないということです。あるいは「こうなるべきだ」論、「こうならないなら真の教会ではない」とかいう議論でも決してありません。むしろ、ここに書かれている教会の姿も、また現代の教会の姿も、どちらも真の教会の姿です。しかしそれがどちらも「聖霊と十字架のみことば、キリストの福音、罪の赦しの福音による」ならです。それがこのところを理解するための土台になります。

2.「聖霊に満たされて」
 まずこの出来事は、一同が「聖霊に満たされて」の出来事でした。こうありました。
「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神の言葉を大胆に語り出した」31節
 「聖霊に満たされ」とあります。ですから、この32節以下の出来事も、その「聖霊の満たし」による一つの出来事であるのです。しかし「聖霊に満たし」とあるときに、それはそこに「みことば」と、そして文字通り、「聖霊の力」が大きく働いていることを示しています。つまり見える現象としては人の思いや意思、人の力や業のようで、実はそうではないということです。どこまでも聖霊がみ言葉を用い、人々に働いている。その聖霊の力、働きがあってこそです。そしてこう続いているのです。
「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、誰一人、その持ち物を自分のものと言わず、全てを共有していた。使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強く証しし、大きな恵みがその全ての者の上にあった。彼らの中には、一人も乏しい者がなかった。地所や家を持っているものは、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従って各々に分け与えたからである。」32〜35節

3.「聖霊によらなければ」
 この記録を吟味すると、ここにはいくつもの「人のわざでは不可能」であり、「聖霊の働きによらなければ」ということがいくつもあります。
A,「「信じる」ということ」
 まず「信じた者の群れ」とあります。「信じる」ということ自体、聖書は、それは人のわざではないと伝えています。エペソ2章からも何度も引用した通りですし、ルカの福音書を通しても、み言葉を通してそこに聖霊が働いてこそ、信仰が与えられたり強められたりした出来事を見てきました。むしろ人の自からの決心や強い意志や強がりは、十字架の前の弟子たちを見るときに、いかに脆いかをも私たちは何度も確認させられてきました。「信じる」ということは奇跡です。私たち自身の性質は、初めの人のアダムとエバのままであり、どこまでも罪深く、神に背こうとする者です。今でも、私たちは「神を愛せよ」という第一の戒めさえも、不完全であり、私たちは自分たちの力では「神を愛する」ことなどできないもので、むしろ自分だけ、自分しか愛することができない者ではありませんか。しかし、そんな私たちが「信じる」と告白したわけです。それはまさに聖霊とみ言葉の働きによる私たちに起こった神秘であり奇跡なのです。聖霊の働きの証しが「信仰」なのです。実に今でも教会は「信じた者の群れ」と呼ばれますが、しかしそれは教会は、人のわざや力ではない、人の意志や思いでもない、みことばと聖霊によって建てられ、聖霊が生きている証しだという恵みを伝える言葉であるのです。
B, 「心と思いを一つにすること」
 そして、その後には、「心と思いを一つにして、誰一人、その持ち物を自分のものと言わず、全てを共有していた。」とあります。人が「心と思いを一つにする」ということはなんと難しいことでしょう。夫婦でさえもなかなかできないことです。しかも、その「一致した心と思い」になることもそうですが、「持ち物を自分のものと言わない」ことも、実に難しいことです。しかしその事実はこの出来事が聖霊の働きであるということを示しているのです。
C, 「主イエスの復活を証しする」
 さらには「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強く証しし」ともあることはもう明らかです。クリスチャンが復活の証をする場面が2章にも3章にも、そして4章にもありますが、そこではまさに「聖霊に満たされて証しした」という言葉が書かれていたわけです。聖霊の満たしがあってこそ、聖霊が確かに働いていてこそ、人々はイエスはキリスト、イエスは復活したと証しができるのです。その出来事であったことがわかります。そして決定的な言葉としてこう続いているでしょう。
D, 「大きな恵みがあった」
「大きな恵みがその全ての者の上にあった。」
 そうです。大きな恵みがあった。それはイエスがみことばと聖霊によってそこに確かにおられ働いていたということです。イエス・キリストの大いなる恵みがあったからこそ、聖霊によって、彼らは心と思いを一つにしていた。持ち物を自分のものと言わず共有していた。皆が自分の家や財産を売って、財産を分かち合っていったのでした。

3.「聖霊の働き、教会の本質は「あるべき論」「律法」ではない」
 しかしです。皆さんはここで思うかもしれません。「自分たちは、こうではない」と。「だから、私たちは聖霊に満たされていないのだと。聖霊が働いていないのでは」と。そういう風に思う声は実際に多いのです。しかし最初に触れました。「これは「こうあるべき論」では決してない」と。「これは「聖霊の満たしがあってこそ」」「聖霊のわざである」と。
A, 「「人が何をすべきか」=律法」
 大事な点ですが、「聖霊の満たし」「聖霊の働き」と、「あるべき」論は、実は真逆です。一緒には成り立たないことです。なぜならまず「あるべき論」は、それは「律法」です。「『私たちが』こうあるべき、こうするべき」という議論です。律法です。それがたとえ、主語を神や聖霊にして「神がこうあるべき、聖霊はこう働くべき」と論じても同じです。なぜなら「神がこうあるべき」「聖霊はこうあるべき」と、考えているのは自分であり、その時、むしろ自分の思いや願望に神や聖霊を従わせているに過ぎない言葉だからです。ですから、よく聖霊を強調し「あなたには聖霊はこう働かなければならない」と教えたり啓発したりするグループがありますが、それは結局は、聖霊に信頼しているのではなく、自分の願望に人を従わせようとしているにすぎません。このように「あるべき」論は、そこにいくらキリストや聖霊を置いたとしても、どこまでも「律法」なんです。
B, 「大きな恵みがあった:神が何をしてくださったか(してくださるか)=福音」
 しかし「聖霊に満たされ」「聖霊の働き」はそうではないでしょう。み言葉や聖霊より先に人の思いや決定、願望が入る余地はないはずです。もし、少しでも入れようとするなら、それはむしろその願望や思いに、聖霊を従わせようという律法にすぐ変わってしまいます。まさにここで「大きな恵みがあった」とある通り、「聖霊の満たし」もそこにある「聖霊の働き」も、どこまでも主イエスがみ言葉を用いて働く一方的な恵みなのです。それはみことばを通して「神が私たちのためにしてくださること」つまりどこまでも「福音」なのです。

4.「聖霊の働き:いつとかどんな時、その良し悪しを判断できない」
 そして「聖霊の満たし」とその働きが「福音」「神がなさること」であるなら、私たちはそれがいつ起こるとか、どんな風に起こるとか、ましてその良し悪しなどいうことができないものではありませんか?イエスははっきりといっています。ヨハネ3章のニコデモの場面です。
「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、その通りです。」ヨハネ3章8節
 今は科学の発達で確かに風の動きを予想はできますが、それでも完全ではありません。突風や竜巻がいつ起こりどこを通るのかは、誰も予想はできません。ましてイエスの当時は、風の動きはどこからきてどこへ行くのかわからないのです。聖霊の働きはそのようだとイエスはいっています。そして使徒の働きの1章でも、約束の聖霊についてイエスはこういっています。
「イエスは、言われた。「いつとか、どんな時とかいうことは、あなた方は知らなくても良いのです。それは父がご自分の権威をもってお定めになっています。」使徒1章7節
 いつとかどんな時と、使徒たち、弟子たちは知らなくても良い。神がその権威によって定めておられるとイエスは聖霊の約束について語っているのです。

5.「現在も確かに聖霊は働いている」
 このように、聖霊の満たし、聖霊の働きは、そのように神、主なるイエスが、その思いのままに、定め、そして働かれることなのです。それは今日の箇所の出来事もそうでありますし、そして現代の私たちもそうなのです。皆さん、今も、つまり現代のこの私たちの教会もです。ですから、「この4章の通りで今ないから、私たちには聖霊は働いていない」ではないのです。その弟子たちの信仰の初めにも、教会のはじめにも、何より「イエス様のみ言葉と聖霊」があったように、私たちも同じように、福音が語られ、聖霊によって信仰告白が与えられ洗礼を授けられたものの群れでしょう。私たちも、イエスの十字架による罪の赦しと復活の新しい命にあずかっていることを喜ぶがゆえに礼拝に集まるものではありませんか?それは自分のわざですか?自分の思いですか?そうではなく福音と聖霊の働きがここに、私たちにもあるからこそ今、信仰があり、イエスの福音で安心するのではありませんか。そこにキリストの教会はあるのです、今、御霊は満ちているのです。聖霊は今も働いているのです。「この聖書の現象、姿と違う。だからこの時より弱い」というのは、それは律法の目です。「あるべき論」に陥っています。人のわざ、人の目線、人の基準にまで教会を下ろそうとしています。そうではないでしょう。信仰も救いも教会もどこまでも聖霊による福音のわざです。この時も、そして今もです。そこに福音が語られ、その約束のゆえに喜びの信仰が与えられている私たちがいるならです。まして、そのようにイエスの聖霊による働きであるなら、私たちから見て「このあるべき姿ではない」と今の教会を断罪することは、それは自分や兄弟を断罪しているだでけでなく、実は聖霊を、つまり神を断罪していることになってしまいます。聖霊の働きは私たちでは測ることは決してできません。ましてその聖霊の働きを、私たちの測りで良し悪しを決めることなどできないのです。

6.「おわりに」
 今、まさに、偽りの福音ではなく、十字架と復活の福音が毎週、語られています。イエス・キリストが指し示されています。正しく聖餐式が行われ、何より私たちが今、信仰を賜物として与えられて、そのイエスへの信仰のゆえに、福音によって罪の赦しに安心し、救いを喜び、救いの確信がある。そうであるなら私たちも今、聖霊の満たしにあるのです。聖霊が確かに働いているのです。そこに教会は確かにあるのです。そのことをぜひ安心し、感謝し、その幸い、その素晴らしさを誉めたたえようではありませんか。証ししようではありませんか。その安心と喜びに満たされ、私たちは世に出ていき、神を愛し、隣人を愛していきましょう。