2017年7月9日
1.「はじめに」
3章でも使徒たちを通しての「救いの出来事」が記されていきますが、その宣教が決して順調ではなく、もうすぐに反発や迫害が始まっていくことが記されていくのです。しかしその迫害、反発も、イエスの素晴らしい救いの出来事から始まっていることがわかります。
2.「美しの門」
「ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。」1節
二人の使徒たちです。二人は祈るために「宮」つまり神殿に上っていきます。2章のペテロの説教も宮でなされたものと言われていますし、2章46節でも、使徒たちと洗礼を受けた人々は「毎日、心を一つにして宮に集まり」ともありました。ですから使徒たちやクリスチャンたちは、日々、神殿を中心に活動していたようです。そしてそれはおもに、み言葉と祈りであったのでした。その神殿での出来事です。2節
「すると生まれつき足のなえた人が運ばれてきた。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮にの門に置いてもらっていた。」2節
一人の足の不自由な人が宮に運ばれてきます。しかし彼は「祈るため」ではありません。祈るためにやってくる人々からの「施し」を受けるために、毎日、神殿の「美しの門」というところに運んでもらってきていたのでした。当時、手足の不自由な人々は、貧しい人々です。仕事もありませんし、現代のように医療や福祉が整った時代でもありません。彼らが「施し」を受けることによって生活するということはあったようなのです。ですから、彼だけではなく、何人かの病人もいたことでしょう。
一方で、神殿にやってくる人々も祈り、礼拝で神の前に立ちます。律法では、貧しい人に配慮することが求められています。ですから神の前に立つ前に、その「美しの門」に集まる貧しい人々に「施し」をすることで、律法にかなった「良い行い」をして神の前にたち祈りに入れるわけです。ですから貧しい人々もここに集まってくるのです。彼もそんな一人であったのですが、3節にありますように、祈りにやってきたペテロとヨハネに目を留めて、二人に施しを求めるのです。
3.「施しを求める」
まず、足の不自由な彼が求めているのは「施し」「お金」であることがわかります。それも当然のことです。その日その日、食べて生きていかなければならないのですから。しかしもちろん、それは彼の「必要」「求め」の全てではありません。そしてその日の施しをわずか貰えても、それはその日の夕方にはなくなり、そして彼は毎日、ここに来ていたのですから、また明日、ここに来ます。そしてその日の施しも無くなるので、また次の日に来ることになります。いや、おそらく、毎日、安定して施しがもらえるということは考えられません。少ない時もあれば、無い日もあったことでしょう。彼はそのような毎日の繰り返しでした。確かに「施し」は彼を助けます。その時の彼にとっては必要なことでした。しかしそれは全く一時の必要にすぎませんでした。そんな彼に施しを求められた二人ですが、4節
「ペテロはヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。男は何かもらえると思って、二人に目を注いだ。」
ペテロとヨハネは彼に「自分たちを見るよう」に言います。彼は「施し」を求めていたのですから、二人からも「施し」をもらえると期待します。しかしです。ペテロとヨハネはこう言います。6〜8節
「すると、ペテロは「金銀は私にはない。しかし私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言って、彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出した。そして歩いたり、跳ねたりしながら、神を賛美しつつ、二人と一緒に宮に入って行った。」
4.「金銀は私にはない」
「金銀は私にはない」という言葉は正直な言葉でしょう。使徒達は、決して裕福ではありませんでしたし、そして2章で見て来ましたように、始まったばかりのエルサレム教会は、共同生活で、共有財産でした。皆が財産を捧げて生活していたのでした。ですから、事実、ペテロとヨハネは持っていなかったことでしょう。そして福音によって自由な彼らには、「「善行」をしてから神の前に立つことができる」という考えからは自由です。彼らにはイエスの十字架と福音がありました。それは「人の行い、人が何かをするから」、ではない、神の御子であるイエスが、罪深いままの彼らを愛してくださり、罪を全て負って十字架にかかって死んでくださった。それによって罪の赦しをイエスは一方的に与えてくださったという福音です。つまり彼らにとっては、十字架のゆえに罪赦されているのだから、彼は何をしなくてももはや安心して神の前に立ち祈ることができますし、そのために来ているのです。しかしもちろん弟子達は、「イエスが愛してくださったように、隣人を愛するように」と、導かれているからこそ、その足の不自由な「彼の声」に応えようともするのです。しかし彼らは言います。「金銀は私にはない」と。意地悪しているわけでも、ケチをしているわけでもありません。「本当にない」のです。しかし彼は「施し」を求めています。「施し」が確かにその日、その時の、彼の「必要」ではあります。それに対して二人はさらにどう答えているでしょうか。
5.「私にあるものーナザレのイエス・キリストの名」
「しかし私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」
「私にあるものを上げよう」。それは何でしょうか。それは「イエス・キリストの名」、つまりイエス・キリストです。そさひてその「名によって」とあります。「イエス・キリストの名」とは何でしょうか。世間では、「社長がそう行っている」「総理がそう言っていると」と偉い人の名前を出すと、特別な力が働くということがよくあったり、学問でも「有名な学者がこう言っている。こう書いていると」と論証に使われたりもします。その人の実績と名前に一定の信頼を置いているわけです。しかし、この「イエス・キリストの名」によってということの意味は、それとは異なるというか、それ以上のことです。それは生きている本当の神、救い主ご自身が、その場にも生きて働いてくださり、神の思いのままにそのことをしてくださるという、非常に強い意味があります。ですから私たちが「イエス・キリストの名によって祈ります」という時も、「イエスが確かにそこにいてくださり、聞いてくださる。答えてくださる。働いてくださる」という「信仰の表明」でもあるのです。
ですからペテロが「私にあるもの」と言い、「イエス・キリストの名によって」と言っていることの意味は、「イエス・キリストこそここにあり、主こそ我と共ににある」「そのイエスのわざを現そう」と言っていることに他なりません。事実「イエスの名」が、単なる偉い人の名前ではないことがこの後わかります。「イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言っていますが、それは彼にそうするように言っている単なる命令ではありません。彼は自らで立つのではありません。ペテロは、彼の手を取ります。手を取っただけです。しかしその時、
「たちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出した」
と続いているのです。それはペテロ自身の力ではありません。足の不自由な彼の力でもありません。あるいは「社長がそう言っているから」「総理がそう言っているから」と同じ感じで、「イエスの名」だからと、その彼が自分で足とくるぶしを強めて立ち上がったというのでもありません。ペテロが「イエスの名によって」手を取った時、彼の足とくるぶしが強くなった。それはまさに、イエスの力がそこに働いているからこそです。そのイエスの力によって、彼は立ち上がり、歩き出すのです。これがペテロや使徒たちが持っている「イエス・キリストの名」でした。それはイエスご自身です。そこで生きているイエスが実際に働いてくださりこの事をなした、イエスが彼にこの素晴らしい出来事を与えてくださったのです。
6.「イエスの「命令」の意味」
そこで今一度、この言葉に注目してみたいのです。それはイエスの名によって「歩きなさい」という言葉です。それは確かに「命ぜられ」ています。しかし、ここでわかるのです。それはイエスにある命令は、私たちが自分の力で果たすべき命令というよりは、イエスの助けによってなされる、イエスの力によって立たされていくということがわかるのではないでしょうか。そうなのです。イエスは「新しい戒め」を私たちに与えています。「イエスが愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい。」「これは新しい戒めです」と言っています。あるいは「イエス・キリストにならって」とも新約聖書ではよく書かれていますし、山上の説教には多くの戒め、命令があります。マタイ28章20節の宣教命令もそうでしょう。それらは確かに戒めであり、命令です。「歩きなさい」「たちなさい」と同じです。命令です。しかし、それは同じように、イエスの名にあってなされているものであって、イエスが力を与えてくださり、イエスが立たせてくださり、イエスが歩かせてくださることであったでしょう。事実、使徒たちは、宣教を命じられましたが、それがなされるのは約束の聖霊を受けてからであり、それまでは「留まりなさい」「待ちなさい」であったでしょう。そしてまさにその聖霊を受けて、使徒たちは、聖霊の力によって命令がなされていったのが、2章で見てきたことでした。パウロもそうでしょう。これから見ていくところですが、改心したばかりのパウロは恐れ、弱っていましたが、命令が果たされて言ったのは、イエスの導きであり助けによるわけです。
そうです。足の不自由な彼は、自分では立って、歩くことができないのです。私たちも自分たちの力では、イエスがしてくださったように愛することなど、いかにできないことであるか、私たちはよくわかっています。しかしペテロを通して、イエスの名で命令したイエスご自身がくるぶしを強め、立たせ歩かせたように、私たちにもイエスの名があるなら、イエスが働き、イエスが助け、そのイエスの御心を私達のうちに行ってくださるのです。ヘブル13章にこうある通りです。主語に注目してください。
「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちに行い、あなた方がみこころを行うことができるために、全ての良いことについて、あなた方を完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン」ヘブル13章20〜21節
どこまでも「平和の神が」「イエスにあって」です。イエスが全てを導き、完成してくださるのはイエスなのです。
7.「本当に必要なもの」
そしてこのところでもう一つ教えられることは、イエスは本当の彼の必要を知っていて彼に与えたと言えるでしょう。どうでしょう。彼は毎日の施しを受けたとしてもすぐに無くなります。そして明日も来なければなりませんし、毎日、その虚しさの繰り返しです。それでも足は全く良くはなりません。いやもう足のことは誰もできないし、諦めてもいたことでしょう。毎日の繰り返しは、そのような虚しさ、諦め、失望感の繰り返しでもあるのです。しかし8節にこうあります。7節後半から
「するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出した。そして歩いたり跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。」
跳ねたりしながら、神を賛美しつつ宮に入って行った。歩けたのはもちろん、その喜びと賛美にあふれているでしょう。前回も見ました。賛美は強いられてではなく、心からの喜びがあってこそであると。彼は本当の喜びに満たされたのです。それは施しをけていた日々にはなかったことです。しかし歩けないものが、諦めていたものが、歩けるようになった。全く不思議な力によって。イエス・キリストの名によってです。つまり、そのイエスの名に生き生きと働く神の本当の力と癒しを体験した、その喜びであり賛美です。それこそ、その癒し、その喜び、その賛美こそ、そしてそこに与えられる信仰こそ、何より彼には必要なことであるとイエスは知っていたのです。ペテロもヨハネも知っていたのです。その最も素晴らしいものを、彼らはこの彼に与えたのでした。もちろん、歩けることによって、新しい人生も始まることになります。働くことができ、自分で収入を得ることもできるようになります。しかしそれ以上に、彼は二人と一緒に宮に入って行ったとある通りで、神への喜びと賛美の日々こそが、彼の新しさの最高のものだと言えるでしょう。その本当の喜びと賛美こそをイエスはこの彼に与えたのでした。
8.「おわりに」
実はこの素晴らしい出来事を通して、迫害が始まっていきます。しかしそれを知った上
で、イエスはペテロとヨハネを通して、このことを現してくださっています。これこそイエスが与えようとするものであると。イエスの名、イエスの福音は、「金銀以上に」素晴らしいもの、心からの喜び、賛美、平安を、与えてくださる。与えることができる。そのことを私たちに伝えてくれているのです。
「わたしはあなた方に平安を残します。わたしはあなた方にわたしの平安を与えます。わたしがあなた方に与えるのは、世が与えるのとは違います。あなた方は心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」ヨハネ14章27節