2017年6月25日


「罪を赦していただくために」
使徒の働き 2章26〜42節

1.「刺し通す言葉」
 説教は、ただ知識を教えるだけのものでは決してありません。それは私たちのこととして全ての人々に問いかけるものであり、心を刺し通し、さらには、救いといのちに招き、与らせるものなのです。
「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなた方は十字架につけたのです。」36節
 ここでペテロの説教は終わりではありませんが、この後、聞いていた人々が「心を刺し通された」(37節)とある通り、ペテロのこの言葉は、人々に迫り、心を刺し通されるような痛みとなる言葉となるのです。もちろん聖書は福音を伝えるものであり、慰めと平安を与えるものです。ですが、その福音が「本当に慰めと平安」を与えるためには、この刺し通すみ言葉がその前になければなりません。なぜなら福音は「罪の赦し」であるからです。つまり、神の前での人間の本当の現実、罪のことを知らせなければいけないのです。しかしその先にこそ福音はあるのですから、「刺し通す言葉」は福音のメッセージにとってとても重要なのです。その刺し通す言葉はまず聴く人にこう迫っています。

2.「誰が十字架につけたのか?」
「あなた方は十字架につけたのです。」
 と。この言葉は私たちに問いかけています。「あなた方」とは誰か?誰が、何が、イエスを十字架につけたのか?」と。この「迫り」は23節でも見ることができます。
「あなた方は、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。」23節
 と。「あなた方が殺しました」。そう言っています。「あなたがた」とは誰でしょうか?まず36節の言葉の一つの鍵があります。こうあります。「イスラエルの全ての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません」と。「イスラエルの全ての人々」と。この呼びかけは、ペテロの説教の始めにもあります。
「ユダヤの人々、並びにエルサレムに住む全ての人々。あなた方に知っていただきたいことがあります。」14節
 と始まっていました。22節でも「イスラエルの人たち」と、呼びかけているのです。ですから、「あなた方は十字架につけたのです」という言葉。それは、そこにいてもいなくてもユダヤ人、イスラエル人全体に向けられている、そう判断することができます。そうであるなら、私たちとは何の関係もないメッセージになります。しかしペテロ自身は、まずその通りでイスラエル人たちにやはり語っています。というのはペテロは、まだその時は、イスラエル人以外の人々、「異邦人への宣教」というイエスの大きな御心を全く知りませんから、彼が「イスラエル人たち」と語るかけるのは当然なのです。しかし彼は後に、10章にあるように、そのイエスの福音の宣教は、イスラエル人たちだけでなく、異邦人、世界中の人々に向けられていることを知らされるわけです。
 さらにペテロが見ていた「イスラエル」のその「神の選び」についての意味ですが、「イスラエルの選び」というのは、他の人々を排除するような言葉ではありません。確かにイスラエル人自体は、自分たちだけが神に選ばれたといい、特別意識を持ってしまい、排他的ではあったかもしれません。しかし神の側では、その選ばれた理由は、決して他を排除するような目的ではありませんでした。なぜなら神はアブラハムに対しては、「地上のすべての民族はあなたによって祝福される」(創世記12章)「あなたは多くの国民の父となる」(創世記17章)と言い、世界の全ての人々を指しています。その思いは今もかわりません。つまりイスラエルの選びの意味は、それが神の祝福、神の救いを、神の恵みをイスラエルから、イスラエル以外の人々、世界中の人々へ、しかも時間も、その過去の時間だけではなく、未来に至るまで、彼らが取り次いで行く、伝えて行くそのことにその選びの理由があったことを聖書は伝えています。詩篇の詩でも、イザヤの預言でも、イスラエルの人々だけでなく、世界の人々への祝福と救いが示唆されています。エルサレム神殿にあっては、イザヤ書には「全ての人の祈りの家である」とありますし、イエスも、神殿の商売人たちに怒ったのは、「異邦人の祈り」のために用意されていた場所に商売人たちが商売を広げ、「異邦人の祈り」を妨げていたからでもありました。

3.「私たちが十字架につけた」
 このように見て行くときに、一体、何が分かってくるでしょうか。それは説教も、そして、この「あなた方は十字架につけたのです」というこの言葉も、それは、確かにペテロその人は、イスラエル人、ユダヤ人たちに対して語っています。しかしその説教は、御霊に満たされ、御霊の導かれるままになされている、御霊の説教であり、イエスの言葉でもあります。つまりこの説教、そして「あなた方は十字架につけたのです」というこの言葉、神は誰に対して語っているのかというと、それはイスラエル人だけではなく、同時に、それは世界中の全ての人々に向けられているのです。ですから私たちとは決して無関係ではありません。「私たちにも」語りかけられています。そしてそうであるなら、この言葉もまた「私たち一人一人への問いかけ」であるということになることがわかるでしょう。
「すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなた方は十字架につけたのです。」
 これは私たちへの言葉なのです。そして、そうであるなら、私たちもまたイエスを十字架につけた一人一人であるということなのです。
 「私たちもまたイエスを十字架につけた」ーこれはどういうことでしょう。確かに、十字架につけたのは、ユダヤのパリサイ人、律法学者たちであり、祭司や長老たちです。ピラトであり、ローマ兵であり、またその裁判にいて、扇動され「十字架につけろ」「イエスの血の責任は自分に降りかかっても構わない」と叫んでいた群衆です。しかしそれは、彼らの良心や理性による行動ではありませんでした。彼らの「妬み」とそこからどんどん膨らむ「憎しみ」がありました。その妬みと憎しみにより「偽りの証言」がありました。イエスが正しいとわかっていながらです。そればかりではありません。ローマの総督ピラトは「イエスには罪はない、イエスは正しい」とわかっていても、自分の地位を守るためや、自分の人気のために、イエスを有罪にしたでしょう。そして周りに扇動されたユダヤ人も、命令されたローマ兵も、その時々の雰囲気や権力に流され、長いものに巻かれるように、「十字架につけろ」と叫び、イエスに、鞭、ツバ、茨の冠、罵詈雑言で、残酷に辱めました。それらはまさに「人の罪」に他なりません。そして、その妬み、憎しみ、偽り、自己保身、自己中心、その時の力や声や大多数の言葉に流され、正しいことよりも長いものに巻かれるように扇動されていく人の残酷さ、それはいつの時代もどこでも誰にでもその行動のみならず人の心にあることではありませんか。神は人のその心を見られるともあります。

4.「聖書の伝える罪とは」
 そして「罪」という時に、聖書では、その「罪の最初」を何よりも伝えています。その罪のはじめは聖書の始めにあるように、人は神を否定し、神をないものにすることにありました。創世記3章の堕落の場面を思い出してください。堕落の前に、神は人を祝福し愛され、共にあり、いつでもみ言葉を持って、人に良いものを与え導いていたことが書かれています。けれども「神のようになれる」という誘惑の言葉にこそ、アダムとエバは負けてしまいました。それは「自分が神のようになる」という自己中心の初めです。そのように神を退け、自分が中心、自分が神になったことこそ、聖書が言う「罪」ということです。そのようにして、神の言葉を偽りとして、神に背を向け、神をないものとして、神の言葉に全く背いて、「自分が」「自分こそが」の人の歴史が始まっていきます。そこから、罪の歴史は始まっています。アダムは、背いたのに「自分は悪くない」と言わんばかりに、「あなたが与えたこの女が」(創世記3章)と、エバと神への二重の責任転嫁が生まれました。さらには、彼らの子は「自分の思いのままに」弟を殺しました。最初の殺人です。神とその言葉に背を向けて以来、人の歴史は、まさに「自分が神のように」の思いや、「自分が自分が」のぶつかりあいの罪の歴史であることは否定できません。確かに、理性と知識によって発展した歴史でもあるかもしれません。しかしその実際は、世界では戦争も殺戮も不平等も残酷さも、改善されるどころか、同じことが何度も繰り返されているでしょう。歴史は繰り返します。聖書は確かに「罪」を伝えています。しかしその「人の罪」は、神の前にあっても、人の前にあっても、人間の明らかな現実であると伝えるために聖書は語っているのです。なぜなら、人は「神も知らない」「信じない」のですから、その罪のことを知らないからです。そして聖書は、救い主は、その罪のために、「世の罪」のため、「世界の罪のために」来られたと伝えてもいます。そうなのです。私たちに語られている
「すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなた方は十字架につけたのです。」
 のその意味、それはイスラエル人だけではなく、まさしく人類の罪が、つまり、私たちみんな、一人一人が、その私たちの罪が、神の御子イエス、キリスト、救い主である方を十字架につけたのだ、そのことを伝え、問いかけているのです。
 その言葉、その現実に、人々は「心を刺される」のです。神であるかた、救い主としてこられた方、神がはるか昔から約束していた罪を取り除く救い主を、自分たちが十字架につけて殺した、その罪深い現実は、重大で深刻な事実を彼らに突きつけられました。ですから聖書の言葉は、そのように神の前の本当の私たちの現実、それこそ私たちの本当のありのままを、明らかにするものなのです。あなたは神の前に罪人だ。あなたのその罪がイエスを十字架につけたのだと。そのように神の前の「真のありのまま」を本当に知るということは、都合良く自分を自己解釈したり、自己義認してそこで完結することでは決してありません。むしろ自分では真の自分を知ることは決してできません。真の自分は聖書によってこそ明らかにされます。そして、明らかにされ知ったその時に、心は刺し通されるのです。

5.「罪を赦していただくために」
 しかし、その時、人々はこう言うのです。37節の後半の言葉です。
「兄弟たち、わたしたちはどうしたら良いでしょうか」と言った。
 説教は、「あなた方が十字架につけたのです」ということで決して終わりません。福音の説教は「心を刺し通し」心を絶望のどん底に落とすためでは決してありません。そこで終わるなら、絶望しかありません。しかし、そうではありません。ペテロの説教の最終結論、最も伝えたいことが最後にあります。それこそ神が私たちに伝える福音です。
「そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜならこの約束は、あなた方と、その子供たち、並びに全ての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人に与えられているからです。」ペテロは、この他にも多くの言葉を持って、証しをし、「この曲った時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。」38節
 ペテロの説教は。それは裁きの言葉ではなく、その罪の現実と、その「曲った時代からの救い」を勧めるものだとわかります。さらにそれは「全ての人々へ」と語られています。そしてそのすべての人への「どうしたら良いでしょうか」の、ペテロの答え、それは「罪を赦していただくためにイエス様の洗礼を受けなさい」なのです。先ほども言いました。人はみな神の前に罪人、神に背を向け、神を否定し、自分勝手に生きていくものだと聖書は伝えていると。それが人間の現実だと。しかしイエスはその罪を「裁くために」きたのではないということがペテロの説教からも明らかです。そして何よりペテロの伝えるように、イエス様が、正しい方、罪のない方なのに、その十字架に黙って従われたのも、実にそのためです。十字架はローマ時代の刑罰であり、ローマで最も残酷で最も重い罪に課せられる死刑です。ですから十字架は、「罪あるべきものが負う」ものですが、しかしそれを罪のない神の子イエス・キリストは黙って負うでしょう。聖書は、それはまさに私たちの罪の全てを、あるいは、私たちが本当は負うべきだったものを代わりに負われたのだと伝えています。しかし神はそのイエス様の十字架のゆえに、たとえ罪ある私たちであっても、もはや罪をないものとして見てくださるということこそ聖書の伝える良い知らせに他なりません。その約束の通り、神は今も「あなたが神の前にどんなに汚れていても、どんなに罪が重くても、あなたの罪はもう問わない。罪は赦されます。このキリストのゆえに、このキリストのこの十字架のゆえに」ーそのように私たちに語ってくれています。洗礼というのは、そのキリストによって罪の赦しに与ることであり、誰でも受けるように招かれている救いの洗礼でありそれは恵みなのです。そしてこのみ言葉の通りなのですから、洗礼によって必ず誰でも救われるのです。それもまた紛れもない、私たちに与えられている現実に他なりません。

6.「おわりに」
 説教は、このように、神と私たち人間の現実を伝え、何よりも救いと平安を約束し与えようとする神様の言葉であり、招きです。しかもすべての人へです。幼子も老人も、健康な人も病いにある人も、富める者も貧しい者も、どこの国、どこの民族、どの宗教の人であってもです。ぜひ今日も、罪赦され、平安を得ましょう。そして安心してここから出て生き、この世にあって神を愛し、隣人を愛していこうではありませんか。