2017年5月21日


「キリストは喜びを与えるために」
ルカによる福音書 24章50〜53節

1.「伝えたい大事なこと」
 ルカによる福音書の一番「最後」のところです。私たちが読む小説でもエッセーでも学問書でも、本は最初の序論と、最後の結論に、筆者の一番伝えたいことが書かれています。この「ルカによる福音書」もそうです。ではこの終わりのところ、ルカはどのように福音書を結んでいるでしょうか。それは「喜び」と「賛美」です。

2.「喜びで始まり喜びで結ばれる」
「彼らは、非常な喜びを抱いてエルサレムに帰り、いつも宮にて神をほめたたえていた」
 「喜び」です。しかも「非常な喜び」です。そして「ほめたたえる」、「賛美」とあるのです。ではこの福音書の「はじめ」はどうでしょう。それはバプテスマのヨハネとイエスの誕生から始まっています。もちろんそこにはヨハネのお父さん、ザカリアとエリサベツ、イエスの母、マリアが戸惑っている場面も確かにあります。しかし人はそうであっても、神の側ではどうでしょう。ザカリアに対して天の御使いが年老いたザカリアとエリサベツに子供が与えられることを告げる時に、天使はこう言っています。ルカ1章14節
「その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。」
 「喜び」と二回出てきます。「喜び」の知らせを伝えています。19節でもこうあります
「御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。」
 天の使い自身が自分は「喜びのおとずれ」を伝えるためにと言っています。クリスマスのマリアの場面はどうでしょうか?マリアにも天の御使いが現れますが、御使いの最初の挨拶の言葉は、何であったでしょうか?1章28節です
「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
 「おめでとう」という言葉です。おめでとう。どんな時に使いますか?悲しい時でしょうか?憎い時でしょうか?怒りの時でしょうか?文字通り「めでたい時」です。「喜びの時」です。そしてこのエリサベツとマリヤが会う場面でもこうあります。それは二人が会った時にエリサベツのお腹の中の子供が踊ったという出来事についてエリサベツが言っていますがこうあります。
「ほんとうに、あなたの挨拶の声が私の耳に入った時に、私の胎内で子供が喜んで踊りました。」1章44節
 やはり「喜び」です。それに対する有名な「マリヤの賛美」にもこう続きます。
「マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」1章46?47節
 と。みなさん、このようにこの福音書の序論、1章も、「喜びと賛美」の知らせであることがわかるのではないでしょうか。そして、このマリアの賛美と重なるように、弟子たちの喜び、非常な喜びと賛美で、この福音書は結ばれているのがわかります。これまでこの福音書をずっと見てきて、この福音書が伝えたいことはもちろん他にも沢山ありました。神のみことばの大切さ。神の言葉はその通りになるということも大事なことでした。罪人や世の中で虐げられている人、悲しみの中にある人のところにこそイエスは来られ、愛され友となられたということも大事なメッセージです。そしてもちろん私たちのための十字架の死や復活も大事なメッセージです。さらには先週も見ました、「いつでも「イエスから」」の恵みの原則もすばらしいメッセージでした。しかしそれら全てはまさに私のための「喜び」の知らせでしょう。
 この福音書は何よりも伝えたいのです。イエスが来られたのは、それは私たちの喜びとなるため、喜びを与えるためだと。イエスがしたこと、これからすることも、それは全て私たちに喜びを与えるため、私たちの口に賛美を与えるためだと。

3.「イエス、聖書、使徒たちのメッセージと招き」
 初めての方は、聖書ってなんなのだろう。イエス・キリストって何なのだろう。聖書が伝える神って何なのだろう。最初にそう思います。ある人は良いイメージも持ちますが、一方で恐れや疑い、不安を抱くかもしれません。ある人々は「神」というから何か厳しい、あるいは、キリスト教というと、何か戒律があって、聖さを求められて、何か最初に高いハードルを課せられるのでは?何か重荷を負わされるのでは?そのように思う人も多いといいます。愛を伝えているというイメージを持つ人もいながら、世の中ではそうイメージしている人も多いともいいます。ペールマンというドイツの学者が書いた「イエスとは誰か?」という本があります。それは、世の中のクリスチャンだけでなく、クリスチャンではない、様々な科学者や哲学者や文学者、他の宗教家を一人一人を紹介して、彼らがイエスをどう見ていたのかということ書いてあるものです。それと読むと、クリスチャンではない哲学者や文学者、他の仏教やイスラムの宗教家、あのニーチェでさえも実は聖書を深く読んでいて、「イエス・キリスト」という人物その人には非常に良い評価を持っているのです。けれども彼らの多くの共通点として気付かされるのが、やがてイエスの福音からずれて律法的になったり、政治と癒着するようになっていって、イエスと矛盾していく教会やクリスチャンにつまづいて、彼らはキリストというよりキリスト「教」や教会を否定していっていることです。それは私自身クリスチャンとして考えさせられ反省させられたところではあるのですが、世の人々が、聖書やキリスト教に、愛というイメージと、同時に「重荷を課せられる」という矛盾を見ていることに重なるところがあります。
 そのような疑問を持っている方に、このところは助けになるのです。聖書、キリストは、そして使徒たちやこのルカは、イエスが来られたのは何のためであるのか、私たちにとってどんな意味があるのか、聖書は何を私たちに伝えていると語っているのかをここから知って欲しいとしてこう結んでいるということです。それは、神は、裁きではありません、責めるのでもありません。重荷を負わせるのでもありません。そうではありません。イエス・キリストは、私たちに喜びを与えるために来られたのです。イエス・キリストは、どこまでも喜びの知らせ、喜びの訪れなのです。

4.「この後の使徒たちも喜びを」
 そしてこの後、まさに使徒たちや弟子たちは、そのことこそ伝えていったのです。ここで彼らが非常な喜びを抱いて神をほめたたえていたと終わっていることは大事な意味があります。それはそれが宣教の動機になっているし、その喜びこそを彼らは伝えていったということを意味しているからです。この弟子たちの姿は、まさにルカ自身の書いている動機にも重なっていて、彼は「イエスが来られたのは喜びである」という主題で、この福音書を書いているとも言えます。どうしてこの姿、この結びから、「この後、弟子たちは裁きや重荷を伝えていった」にはどうしてもならないでしょう。それだとこの結びと繋がらず矛盾します。このルカの福音書の続きが使徒の働きになるのですが、使徒たち弟子たちは、この宮で喜びと賛美をし続けて、その喜びのうちに彼らは宣教をしていったことが書かれています。迫害されても、鞭打たれ牢に入れらても、彼らは宮に集まり神をほめたたえ賛美をしていたともあります。それは、イエスが喜びであることを知っているがゆえでしょう。イエスが喜びを与えるために来た、そして事実、イエスは喜びを与えてくれることを実感しているからこそです。
 聖書が皆さんに伝えたいこと、聖書が何のためにあり、何を伝え、イエスは誰であり、何のために来られたのか、それは、今日のところにある通りです。喜びのため、私たちに喜びを与えるためにこそ、イエスは来られたのです。福音書も聖書全体もその知らせです。喜びの知らせであり、私たちに重荷を負わせ、苦しめるためではない、裁いて責めるためでもない、むしろこの世にあって悲しみ、痛み、重荷に苦しみ疲れ果てる私たちを、慰めるため、安心させるため、そして喜びを与えるためなのです。
 事実イエスはこのように私たちを招いています。慰めを与えてくれる言葉です。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11:28
 と。そのようなイエスの言葉を聞いていた弟子の一人ペテロも苦しみの中にあるクリスチャンたちにこう言って慰めています。
「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神がちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神に委ねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」第一ペテロ5章6〜7節

5.「イエスに見る証」
 その言葉の通りイエスは、そのような疲れた人、重荷を負っている人を招いて一緒に食事をして友となっています。ルカの最初と最後の喜びであるなら、その真ん中にはどのようなことが書かれているかというと、15章です。そこには有名な「放蕩息子の話」があリマス。そのはじめは、世の中で忌み嫌われている罪人たちがイエスを求めてイエスの話を聞こうと近寄ってくるのです。イエスはそんな彼らを受け入れ一緒に食事をするのですが、周りの偉い宗教指導者たちをそれを見て、イエスはあんな罪人たちと一緒に食事をすると、蔑んで見るのです。そんな彼らに話したのが放蕩息子の例えなのです。そこでは父を捨てて家を出て放蕩の限りを尽くすその息子が悲しみと絶望の果てに父を思い出して帰って来ます。そんな息子を、お父さんは責めるのでも裁くのでもなく、遠くに息子が帰って来たのを見つけてお父さんは可哀想に思い、お父さんの方から走り寄って息子を抱きます。そしてお父さんは息子の帰宅を喜ぶわけです。しかしその息子の兄はお父さんに「なぜ放蕩を尽くしたこの弟にそんなことをするのか」と尋ねます。しかしそんな兄にお父さんはこう言っています
「だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから楽しんで喜ぶのは当然ではないか。」ルカ15章32節
 と。やはり喜びです。しかもお父さんも喜んでいます。子供の喜びはお父さんの喜びでもあることがわかるでしょう。このように神は私たちの悲しみを決して放っておきません。苦しみを放っておきません。罪人たちがその心で苦しみ、自分をどうすることもできず、苦しんでいるのをイエスは知っていました。苦しんでいるからこそ、彼らはイエスを求めてやって来たのを知っていました。世の偉い人は、彼らを見捨てます。蔑みます。しかし、イエスは決して見捨てない。受け入れてくださり、一緒に食事をしてくださり、話をしてくださいます。そしてその苦しみ、悲しみ、重荷を降ろしてくださるのです。喜びに変えるためにです。そしてイエスご自身も喜ぶためにです。
 イエスのこの十字架は、まさにその究極です。イエスは人類全ての罪を代わりに背負ってこの十字架にかかって死んだと聖書は伝えています。そしてそれによって私たちに罪の赦し、救いをもたらしたのだと。まさに罪人と食事をするイエスは、罪人をそのまま受け入れて、その罪びとの重荷を負ってくださった、それが十字架に他なりません。イエスと食事をして、イエスの話を聞いた罪びとたちは、罪赦され平安になって帰って行きます。喜んで帰って行きます。ザアカイという罪人はイエスによって罪赦された喜びのあまりに、これまで悪いことをした人に4倍のお詫びを返すとまで決心して実行しました。喜びの応答です。それもイエスは喜びをもたらすために来られたその証しの一つです。
 イエスはこの聖書を通して、私たちにも語っています。招いています。神が与える本当の喜びへです。私たちの重荷をも全てイエス様が負ってくださり、私たちを休ませ、平安を与え、喜びを与えてくださいます。それが聖書の本当のメッセージです。イエスが与えようとすることなのです。

6.「「既に」の「祝福」」
 最後に、今日の箇所にはもう一つ大事な言葉があります。それは「祝福」です。「イエスは祝福さた」「祝福しながら」とあります。これも聖書を特徴付ける大事な言葉です。聖書のはじめは神の世界と人類の祝福で始まっています。そしてイエスが来られたのは喜びを与えるためですが、それはイエスがどこまでも私たちを祝福してくださるからこそであるということがこのみ言葉が伝えることです。聖書の言葉は、呪いの言葉、裁きの言葉ではありません。イエスも、イエスの十字架も、それは私たちを祝福するため、世界を祝福するためです。だから喜びも来ると言えるでしょう。呪われ、裁かれ、責められ、喜びが出るでしょうか?弟子たちの喜びは、イエスの祝福のゆえでもあります。そうです。イエスは私たちを祝福してくださっています。既にです。十字架と復活、そしてみ言葉を通してイエス様は既に私たちを祝福しているのです。そして祝福されているからこそ喜びが来るということです。ですから神の祝福が先です。「私たちが何かをするから祝福される」「私たちがまず頑張って喜んで生きるから祝福される」というのは実は聖書的ではありません。まず神、イエスが祝福してくださっている、そのように祝福されていると信じるからこそ安心できます。喜びがあふれ出ます。その安心と喜びがあるからこそ本当の賛美が湧き出ます。その安心と喜びと賛美があってこそ、弟子たちは喜んで証ししていきました。証とはそのようなものでしょう。神の恵み、喜びと安心を伝えるものです。それは喜びと安心がなければ語れないものです。宣教の動機は、それは「祝福されるために」という律法ではありません。「イエスがすでに祝福してくださっているから、だから」の福音なのです。それでこそ神の恵み、福音の喜びは、人々に本物として伝わっていくことでしょう。ですから、私たちは「もう既に祝福されている」とみ言葉から教えられることは大事です。それがどんな逆境や苦難にあっても、イエスは既に祝福してくださっています。そのことをぜひそのまま受けましょう。そこに平安、喜びが湧き出てきます。そこに本当の派遣、隣人愛と宣教も、湧き出て来るのです。