:2017年4月2日


「ついにその声が勝った」
ルカによる福音書 23章1〜25節

1.「偽りの証言」
 ピラトはローマの皇帝カイザルから任命され派遣されているているこの地域の総督で、このパレスチナ地域の実質的な支配者です。大祭司、議会と前に立たされ、今度はこのローマという世界の統治者の前にイエスは立たされるのです。
「そしてイエスについて訴え始めた。彼らは言った。「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」まず、議員たちのこの訴えです。議員たちは「あなたがキリストならそうだと言いなさい」あるいは「あなたは神の子か」と尋ね、イエスは確かに「わたしはそれだ」と答えています(23:67〜70)。それを受けて、彼らはこのピラトの前に来ているのですが、その訴えの理由はかなり真実でないものがあることがわかります。確かにイエスの教えた「神の国」の教えは、当時のユダヤ教徒には新しいものに感じられたかもしれません。ですので全く誰も惑わされる人がいなかったということではないかもしれません。しかし四つの福音書が記す限りにおいては多くの人はその教えを喜びました。そしてイエスのしたことは、あえて罪人のところに行って、裁くのではなくむしろ受け入れて共に食事をし友になり罪の赦しを伝えることに一貫していたでしょう。それによって、人々はそれを見て喜び安心を得た場面がいくつもあります。確かに多くの人々はイエスに「政治的な」解放や革命としてのメシアを望んではいました。けれどもイエスは、そのような政治的扇動や社会を混乱させたり不安にさせたりするということは全くなかったのです。なぜならイエスの与える神の国は地上の政治的なものではなく十字架の死と罪の贖いによって開かれるものであったからです。決して国民を惑わしていませんでした。
 そして「カイザルの税金」については見て来た通りです。パリサイ人たちはそれこそ以前、イエスをローマに訴えるために質問したわけです。「カイザルに税金を支払うことは良いことか」と。もし良いことだと言えば、ユダヤ人たちの支持を失い、逆に悪いことだと言えば、ローマに訴える口実ができる、そのような罠としての質問でした。けれどもイエスはその質問に対して、デナリ銀貨にカイザルの肖像があるのだから、カイザルのものはカイザルに返しなさいと答えたのでした。それはイエスはカイザルに税金を収めることを禁じてはいないことがわかります。ですから今日のところの彼らの訴えは、イエスが「自分はキリストだ」と言ったこと以外は、虚偽の証言であることがわかるのです。そのことはむしろ皮肉なことに、十戒には「隣人について偽りの証言をしてはいけない」とあるのですが、その神の律法に、イエスを告発している議員や祭司たちが反する罪を犯してしまっているのです。けれどもそんなことはお構いなしなのか気づかないでいるのか彼らは告発するのです。偽りの証言をするほどに、彼らのイエスへの妬み、憎しみ、有罪にして殺したいという思いが強いのです。

2.「ピラトの判断」
 しかしその訴えに対するピラトです。
「すると、ピラトはイエスに、「あなたは、ユダヤ人の王ですか」と尋ねた。イエスは答えて、「そのとおりです」と言われた。」3節
ピラトは祭司長たちや群衆に、「この人には何の罪も見つからない」と言った。」4節
 ピラトは、ユダヤ人たちの「国民を惑わした」という訴え、「カイザルに税金を納めることを禁じた」という訴えについては触れません。なぜかというと、マタイの福音書にあるように、そもそもピラトはユダヤ人たちの訴えが妬みから出ていることも知っていたからです(マタイ27:18)。さらにはピラトの奥さんが「イエスは正しい人だから関わらないでほしい。自分は悪い夢を見たから」とまで言っていることもマタイの福音書には書かれています。他の福音書でも、ピラトはイエスに彼らの訴えに当たるようなことは認められなかったとも記録しています。ですからピラトははっきりと言うのです。「この人に何の罪も見つからない」と。しかし彼らはそれに返します。イエスの宣教は「民の扇動なんだ」と。
 ピラトはその後、8節以下になりますが、今度はヘロデのところにイエスを送り返します。しかしヘロデは自分の感情のままに対応するだけです。「奇跡を見たいから会いたかった」と最初は好意的ですが、思い通りにならないと今度は侮辱して再度、ピラトに送り返します。そもそもここにはピラトとヘロデがもともと仲が悪く「この時を境に仲良くなった」とあるわけですが、それ以上に議員や祭司たちユダヤ人の指導者たちとヘロデも仲が悪かったという背景もあるのです。そのようにしてピラトは再度いうわけですが、2回目のピラトの言葉にはヘロデの判断も書かれてます。
「ピラトは祭司長たちと指導者たちと民衆を呼び集め、こう言った。「あなたがたは、この人を、民衆を惑わす者として、私のところに連れてきたけれども、私があなたがたの前で取り調べたところ、あなたがたが訴えているような罪は別に何も見つかりません。ヘロデとても同じです。彼は私たちにこの人を送り返しました。見なさい。この人は、死罪に当たることは何一つしていません。」13〜14節
 ピラトは再度言います。取り調べた上で、この人にその訴えに当たるような罪は何の罪も見つからないと。そしてはっきりと言っています。「死罪に当たることは何一つしていない」と。「死罪」と言ってますが、それはつまりユダヤ人たちの訴えが、イエスの死刑にしてほしいことも知っています。そのような罪は全くないとピラトは断言します。しかしです。
「しかし彼らは、声をそろえて叫んだ。「この人を除け。バラバを釈放しろ。」バラバとは、都に起こった暴動と人殺しのかどで、牢に入っていた者である。ピラトは、イエスを釈放しようと思って、彼らにもう一度呼びかけた。」15節
 他の福音書を見るとわかりますが、バラバはピラトがイエスを釈放するために身代わりとして連れてきた人物です。つまりピラトにとってはバラバこそ「死罪に値する人物」だったのです。もはや誰が見ても判断しても明らかな人物を連れてきてイエスと比べさせるのです。しかしそれさえも祭司長たち律法学者たちは覆していいます。「この人を除け、バラバを釈放しろと。」
 もうユダヤ人たちの側には理性とか法とかはありません。彼らの妬み、そして「除け」という感情がいかにまさっていて、もはや歯止めが効いていないのです。それでも訴えるピラトに対して彼らは叫びます、21節ですが、
「十字架につけろ。十字架につけろ」
 と。それでもピラトは3度目、言います。
「しかしピラトは三度目に彼らにこう言った。「あの人がどんなに悪いことをしたというのか。あの人には、死に当たる罪は何も見つかりません。だから私は、懲らしめる上で釈放します。」22節
 ピラトは一度だけではなく、「三度」、イエスに罪は認められない、何の悪いこともしていない。死罪には当たらないと断言するのです。

3.「ついにその声が勝った」
 このことは何を伝えているでしょう。イエスは「神の御子」である方が聖霊によって人となられた福音書の最初にあります。そしてイエスの洗礼の時の「天からの声」にあるように、「神の前にあって」は「正しい聖なる方、神の喜び」です。全く罪のないお方です。しかしそれだけでなくて、当時の地上の最高権力のローマの総督が正しく裁判をして「この人には何の罪も認められない」と宣言しています。そのようにイエスは天においてはもちろん地においても正しいお方であったということが宣言されていると意味していると言えるでしょう。しかしそれとともに大事なことは、イエスには「死罪に当たる罪が何も見つからない」と繰り返されています。つまりイエスは「十字架の刑に値する方ではない」という宣言が地上の最高権力によって宣言されているという事実もここにはあるのです。しかしそれにもかかわらず、イエスは十字架にかけられるのです。
「ところが、彼らはあくまでも主張し続け、十字架につけるよう大声で要求した。そしてついにその声が勝った。ピラトは、彼らの要求通りにすることを宣告した。すなわち、暴動と人殺しのかどで牢に入っていた男を願い通りに釈放し、イエスを彼らに引き渡して好きなようにさせた。」
A, 「人の罪がイエスを十字架につける」
 この「ついにその声が勝った」という言葉は実に意味深いです。その声とは「ピラトの声」ではありません。「地上の最高権力の正義の声」ではありません。そうではなく「妬みと憎しみにかられ、理性を失い感情的になったその声」が勝ったのです。ピラトは何とか釈放しようとしました。しかしマタイの福音書では、その群衆の勢いに押され、群衆をコントロールができなくなり暴動になりそうになるのを恐れたとも書いていますし、マルコの福音書では群衆の機嫌を取ろうとしたとも書いている通りに、結局は、ピラトは公の正義よりも自分だったのです。
 しかし人間はそれがむしろ当たり前であるのです。正義がないということではありません。総督、いや皇帝さえも不完全であるということであり、「人の正義」は決して完全ではないということです。この記事はそのことをまず私たちに気づかせてくれています。ですから「悪が正義のようになり、正義が悪のようになる」ということは、どこの社会でも、私たちの社会でも当然、起こることなのです。一部の人、あるいは多数派の思いや感情によって世の中が動かされていくことは今でもあります。しかしもちろんそれが正しいかどうかは別問題です。現代はそのような風潮としてポピュリズムという言葉もよく出てきます。決して新しいことではなく、いつの時代も人間は繰り返しています。この場面でもイエスが民を扇動したと彼らは訴えるのですが、実は民を扇動しているのはイエスではなく祭司長た律法学者たちであるということも皮肉なことです。彼らはそれに気づいていません。そしてピラトも時の権力者でありながらそのことに流され扇動されていっているのです。そのようにして死罪に当たる罪は全く見当たらないイエスが、十字架の刑の宣告を受けるのです。
 この出来事は、このように「罪の世」を明らかにしています。人は皆、これほどまでに罪深い。イエスを十字架につけたのは人なのです。人の妬み、人の憎しみ、人の偽りの証言、人の扇動、人の自己保身やプライド、正義よりも自分の立場、などなどが、イエスを十字架につけるのです。理性や良心、正義などもここでは打ち勝てませんでした。人間の罪の前に理性や良心はある程度は抵抗しても、しかしどこまでも不完全でしょう。そして「負けた時」には、このように理性も良心も罪の力に対してはもはや何もできません。十字架の前にそのことが実に鮮明に浮かび上がってきます。「ついにその声が勝った」というこの言葉は罪に対する人間の無力さです。しかしこのことは同時に人間が、そしてその罪深さこそがイエスを十字架につけるのだということ、イエスはまさにこの人々の罪をその身に一身に背負って黙って十字架にかけられるのです。
 みなさん、そのピラトの姿、人々の姿は、私たちを現しています。いや私自身です。祭司長、律法学者たちの姿、周りで十字架につけろと叫ぶ群衆の姿、正しいとわかっていながらも自分を守り、自分のプライドのために判断してしまうピラトの姿、それは私自身にもある罪そのものです。イエスを歓迎し支持していながら、イエスを信じていながら、イエスに従えない自分、背いてしまう自分、知らないという自分、裏切ってしまう自分、除いてしまう自分、そのようにして感情のままに行動してしまう自分、全て日々の生活を振り返る時に痛感する自分の姿です。イエスを十字架につけたのは私たち人間の罪なのです。私たち自身なのです。しかし福音の素晴らしさは、その罪を全てご存知で黙って身に負われ、イエスは十字架に従われるのだということです。
B, 「神のみ心がそこにあった」
 そして「ついにその声が勝った」という言葉。もう一つの大事なことを思い起こさせます。それはイエス様のゲッセマネの祈りです。「みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころの通りにしてください」と。みなさん、罪の力、罪の声が勝ったその時、神は沈黙されています。しかしそこに神の御心があるのです。神にとって不可能なことは何一つありません。神はその罪の声を覆し、ピラトの声を勝たせることもできますし、何度もいうように、天の軍勢を送り全てをそこで裁いて滅ぼすこともできます。しかし神は沈黙されるのです。その声が、罪の声が勝ったのです。それは神が沈黙されるからです。なぜなら、そこに神の御心があるからです。それはその声が勝ち、ピラトの声が負け、その人々の罪によってイエスが十字架にかけられること、その十字架で死ぬことこそ神の御心だということです。しかしそこにある私たちへの意味は、その十字架があるからこそ、イエスがその全ての罪を背負って十字架にかかられるからこそ、イエスがその罪をおって十字架で刑を受けるからこそ、私たちは神からその刑罰を課せられない。罪を課せられない。罪ある者とされない。このイエスの十字架のゆえにこそ私たちは罪赦され罪のない者とされる。イエスの打傷のゆえに、私たちは皆、癒され救われる。そのことがこの十字架のゆえに実現しているではありませんか。「ついにその声が勝った」その時の神の沈黙は、神は私たちを見ています。私たちの罪を赦すために、滅びから死から、裁きから救いたい、それほどまでに私たちを愛している。そのことがこのところからの変わることのない、私たちへの救いの答えに他なりません。