2017年1月15日


「過越の祭りが近づいて」
ルカによる福音書 22章1〜13節
1.「過越の祭」
「さて、過越の祭りと言われる。種なしパンの祝いが近づいていた。」
 過越の祭りは、出エジプトに由来するもので、神がイスラエルの民を解放したことを記念するものです。神はモーセを通してエジプトの王に、イスラエルを解放し行かせるように言うのです。しかし王は神の前に心を頑なにして、イスラエルを解放しようとしません。神はそれに対してエジプトに幾つもの災いを起こすのですが、それでも王は心を頑なにします。そして最後のしるしとして神はエジプト中の長男に死ぬことを伝えます。しかしイスラエルの民には、羊の血を入り口の門柱に塗ったその家は、その死が過ぎ去っていくと約束したのでした。その通りにイスラエルの民は行い、神が約束したその通りに死はエジプトの長男を襲うのですが、羊の血を塗っていたイスラエルの家の前は死は過ぎ去ったのでした。この災いによって、王の長男も亡くなり、王はついにイスラエルを去らせることにしたのでした。このように神の不思議な御業と導きによってイスラエルは解放されました。過越の祭りは、何よりも神の恵みによって救われたことの祝いなのです。

2.「祭が近づいて」
 この祭りが「近づいていた」と22章は始まっています。後半部分はその祭りの準備が書かれていて、イエスが告げる通りにその食事が準備されていることが書かれています。そのような過越の食事です。さらに15節を見ますと、イエスは「わたしは苦しみを受けるまえに、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたこととか」と言っています。このようにイエスにとってとても重要な祭りであり、食事であることがわかるのです。イエスは、まっすぐとエルサレムに目を向けて歩んできました(9章)。それはご自身が十字架にかかって死ぬことをまっすぐに見ていました。ここでも「わたしは苦しみを受けるまえに」と言っているように、ご自身が逮捕され、十字架にかけられることを知っています。ですからこれは、その「十字架の前の「過越の祭の食事」」であり、とても重要な意味をイエスは見ているのです。一つは、十字架の時が近いこと、そしてもうすぐイエスが弟子たちの前からいなくなる時はまさに迫っているということです。このところはそのことが示されています。イエスを殺そうとする人々がサタンの手によって動き出すのです。

3.「イエスを殺すため良い方法を捜すもの」
「祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。と言うのは、彼らは民衆を恐れていたからである。」2節
 祭司長、律法学者たちがイエスを殺すための良い方法を探していた。「祭司長たち」と言うのは、サドカイ派、議会派との繋がりが強い人々です。一方で「律法学者たち」と言うのは、パリサイ派との繋がりが強い人々です。サドカイ派とパリサイ派は、死者の復活を信じるか信じないかで全く正反対で、反目し合う事もあります。しかし、このところは、今や、彼らは互いに、共通の目的で一致、結託していることはがわかります。それは「イエスを殺すために」です。しかしここで不思議なのは、彼らは信仰心の厚いユダヤ人社会において宗教の上に立つ指導者たちです。律法、聖書に精通し、学識もあり、知恵に優れた人々でした。行いも立派で敬虔であると見られている人々です。しかしこの神の恵みを祝うべき過越の祭を前にして、彼らは神の恵みを祝うために準備するどころか、待ち望んでいたはずの、約束の「神の子、救い主」を殺すための良い方法を探していたというのは、なんという矛盾であり皮肉でしょうか。
 「彼らは民衆を恐れていたから」と書かれていることも意味深いです。つまり民衆に悟られないようにイエスをおとしめる良い方法を探していたということです。このことはつまり彼らには、自分たちがしようとしていることが民衆の支持を無くし暴動でも起きるようなことをしようとしているという自覚が、意識的にせよ無意識にせよあったということです。何度も見てきましたように、初めは妬みやプライドから全てが始まっているイエスへの対抗意識でした。しかし今やそれは殺意にまでエスカレートしています。

4.「示される事実」
 このように彼らの殺意を伝えるこの記事は、私たちに、人間の罪は、最初は小さなパン種であったとしてもそれは膨らんで大きくなっていくことを示している見事な実例です。さらに、その罪は、最初のアダムとエバから変わることなく、人を神に背を向けさせ、神がしてくださったこと、なそうとすることを全て見えなくするものでもあることがわかります。過越の祝いの祭に、罪のない、愛を表してきた人を、ただ妬みにかられて殺そうとしているのですから。聖書に一番精通しているはずの彼らが盲目なのです。
 この所の伝えることはなんでしょうか。それは人間は誰も例外なく罪人であり、その罪の影響の大きさや恐ろしさも、偉大な宗教指導者、敬虔と評価される人でさえも例外ではないということです。人は神の前にあってどこまでも罪深い存在です。祭司長、律法学者たちは、人の前、目に見えるところ、表向きは、社会で最も敬虔だとされ尊敬された人々でした。天国に一番近いと社会からは見られていた人々です。しかしその彼らが、イエスを十字架につける。そこにあるメッセージがわかるでしょう。人は皆誰もどこまでも罪びとであると。このところは示す通りです。このように私たちには自分で自分を救う力は何もありません。私たち自分たちの行いでどれだけ頑張って敬虔に生きることができるとしても、それでも私たちは決して十字架を負えない。いやむしろ私たち人間の側の最高の敬虔とみなされるものが救い主を殺すのです。十字架につけるのです。それが福音書が伝える人間の事実なのです。そしてそこにはサタンの強力な誘惑があることも書かれています。

5.「サタンの誘惑はキリストの弟子にまで」
「さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテのユダと呼ばれるユダに、サタンが入った。ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。ユダは承知した。」3〜6節はじめまで
 なんということでしょう。その罪の影響は、行いにおいて敬虔な宗教指導者たちだけではありません。なんと信仰者でありイエスの側にいた十二弟子さえも例外ではないことがわかるでしょう。誘惑や罪はイエスの弟子であるクリスチャンには関係ないなんてとんでもありません。弟子も例外では決してないのです。イスカリオテのユダはその一人です。イスカリオテのユダですが、彼に「サタンが入った」とあります。これはサタンがユダだけに入ったということではありません。サタンはここで祭司長たちも含めて人々の心を誘い、罪に巧みに働きかけ、その祭司長たちの殺意をエスカレートさせ、彼らが良い方法をまさに探しているところに、さらにユダを誘惑し働いたということです。そのユダの陥った誘惑は、ここにある通り「お金」でした。彼は何のためにイエスを売るのでしょう。お金が欲しかったのです。そのお金のために、イエスを祭司長たちに引き渡すことと引き換えにお金を得ることを彼は思いついたのでした。これまで一緒に旅をし、共に食事をしてきたイエスを彼は売ってお金を得ることを選んだのです。お金は必要なものであるのですが、しかし誰もが心奪われやすい、サタンの用いる誘惑の横綱とも言えます。イエスを信じて付いてきたはずの一人の弟子のその心を見事に奪い取ったのでした。しかしそれはユダだけが弱かったというよりも、人が誰でも陥りうるところを伝えているともいえるでしょう。
 そして、もちろんこのところではありませんが、イエスを裏切るのはユダだけではないわけです。この十字架を前に、ユダ以外の弟子は皆、その忠誠を全うしたということにはなりません。皆が裏切って行くでしょう。このところはまさにその序章とも言えます。

6.「この事実が現代の私たちに教えること〜福音へ」
 このところは何を伝えているのか。十字架を前にして明らかになっていくのは、何より人間の現実、人間の真のありのままであるということです。それは皆、誰もが自らでは、罪、サタンに対して無力であると。誰も神の前に義を全うすることなど決してできない。誰も十字架を追うことなどできない。どんなに行いで敬虔そうに見えても、どんなに「他の皆が裏切っても自分は裏切らない」と豪語しても、人の言葉、人の決意、人の自信、意思は、不完全で弱く、脆い。そして残酷で、盲目である。まさにそのことがここで示されているのではないでしょうか。
 しかし「だからこそ」なのです。そのように人間はどこまでも罪深い現実があるからこそ、それが明らかにされるからこそ、私たちにとって十字架とは何であるのか、救いとは何であるのかが、見えてくるのではないでしょうか。それはもう一つのまぎれもない事実の示すことです。イエスはエルサレムをまっすぐと見て歩んできたでしょう。この過越の祭り、そして弟子たちと共に過越の食事をすることを、そして十字架をずっと見て歩んできたでしょう。そして次回にみていきますが、その食事の席で、イエスの聖餐が配られます。そのイエスの体と血は、罪を赦すために流されるものだとイエスははっきりと言います。過越の食事をなぜ重要としていたのでしょう。それはご自身の十字架を示し、ご自身の死を示し、そこに救いと新しいいのち、神の国があること、つまり福音を弟子たちにはっきりと伝え与えるためです。そして人は殺意に燃え、弟子たちは逃げていく中で、イエスは一人まっすぐその通りに十字架を負っていくでしょう。しかもご自身のためではありません。それは、まさにサタンと罪の前になすすべもなく、神の子を十字架につける人々、罵る人々、鞭打つローマ人、逃げていった弟子たち、そして私たちのためにではありませんか。この箇所、そして、過越の備えの記録は、救いは、決して、人のわざでも意思でも決心でもない。どこまでも神の救いの計画が神によって、実行に移されていくその恵みを伝えているのです。その事実に沿うように、食事の準備も弟子たちはイエスが言われた通りにするだけで、イエスの思いと計画、言葉が先にあったことがわかります。食事は、弟子たちが計画し、意思し、イエスのために備えたのではありません。全く逆です。イエスが食事を計画し、準備し、イエスが与える食事なのです。そのように聖餐式もイエスがその言葉もって、イエスの手から弟子たちに与えられるでしょう。同じように、神の交わりも神の国も、そしてこの聖餐も、「人が神のために」ではなく、どこまでも「神が人のために」備え与えてくださる恵みであることがはっきりとわかるではありませんか。

7.「「人から神へ」ではなく「神から人へ」」
 皆さん、救い、神の国は「人から神へ」では決してなく、どこまでも神から私たちへ圧倒的な恵みであることを覚え賛美しましょう。そうです。今日の祭司長たち、イスカリオテのユダ、他の弟子たちが示すように、人間は神の前にどこまでも罪深く、義であることができないものです。むしろその自らの敬虔さも、自信や決意も意思も、神の前に虚しいものでしかありません。けれども、その私たちのために、神はこの御子イエスこそを、私たちの罪のための、罪を赦し、滅びを過ぎ去らせるための、真の過越の子羊とされるでしょう。私たちの行いでも、血や肉でもなく、イエスに行わせ、この御子イエスの、血を流し、肉を引き裂いて、贖いの犠牲とされるでしょう。そのイエスの十字架の死があるからこそ、私たちはなおも罪あるものなのに、罪赦されたものとされて、イエスが「あなたの罪は赦された。安心していきなさい」と宣言してくださるから、神の前に「恐れ」ではなく、神の前にあって「安心」していくことができるのではありませんか。「人から神へ」ではない。「人が神のために」でもない。全ては「神から人へ」です。神がそのことを計画し、約束してくださり、イエスを遣わしてくださったからです。イエスこそがまっすぐとエルサレム、十字架に目を向けて歩んできて、過越の祭りに私たちを解放するための罪の贖いの子羊となられるのです。ぜひ今日もその「あなたの罪は赦されている」という神の御子イエスに表された救いの確かさ、新しいのちの平安を今日も受け、喜びと平安に満たされて、安心してここからでて行き、神を愛し、隣人を愛して行きましょう。