2016年9月11日


「神のぶどう園のたとえ」
ルカによる福音書 20章9〜18節

1.「はじめに」
 前回までの祭司長たちの動機を知って、イエスはぶどう園の話を始めるのです。内容はとても厳しいたとえ話ですが、これまでのイエスがエルサレムを見て泣くその嘆き、エルサレムの現実、そしてエルサレムでこれから起こる十字架と復活を踏まえた「たとえ話」と言えます。

2.「ぶどう園と農夫たち」
「また、イエスは、民衆にこのようなたとえ話をされた。「ある人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い旅に出た。そして季節になったので、ぶどう園を収穫のわけまえをもらうために、農夫たちのところへ一人のしもべを遣わした。ところが、農夫たちは、そのしもべを袋叩きにし、何も持たせないで送り帰した。」9〜10節
 まずこのたとえ話、登場人物が誰を指しているでしょう。このぶどう園のオーナーは神です。ぶどう園はイスラエル。そして農夫たちは宗教指導者たちを指しています。さらに主人が遣わす3人のしもべは、旧約聖書からバプテスマのヨハネに至るまでの預言者たちを表しています。最後の愛する子は、神の御子イエスを表しているのです。
A, 「主人のしもべを退ける農夫たち」
 農夫たちは主人からぶどう園を借りてぶどうを栽培し、収穫しているのです。けれども彼らは、「わけまえ」をもらうために遣わした主人のしもべを袋叩きにして送り返すのです。しかも一人だけではありません。この後、主人は3人しもべを送っています。このしもべはバプテスマのヨハネだけを指しているのではありません。旧約聖書に置いて、イスラエルは特に、北と南の分裂後、王や民は、神が遣わした預言者たちを拒み、ある時には殺してきた歴史があリマす。エリヤの嘆きは有名です。北のイスラエルの王アハブの時代です。アハブは、自分に良いことをいってくれる預言者ばかりを集めて、逆に神の言葉をまっすぐに伝える預言者たちは、都合が悪い、聞きたくないからと、その妻イゼベルとともに多くの預言者たちを迫害し殺してきました。そこでエリヤが主の言葉を伝えるために遣わされるのですが、エリヤも他の忠実な預言者たち同様に、主の言葉に忠実に、王と民に神からの悔い改めの言葉を伝えるのです。けれどもエリヤも殺されそうになるのです。その時にエリヤは「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください」と叫ぶのです(第一列王記19章)。この例えはその預言者たちの苦難の歴史をも表しています。
B, 「ぶどう園を託されたものの目的」
 イスラエルは、事実、多くの主の恵みを受けていました。いや、彼らは主の約束を託された選びの民、祝福の民でした。けれどもその選びの民の大前提は、それは「主の」民であり、「主の」国であり、「主の」恵みであったということでした。ぶどう園は、「農夫たちの」ぶどう園ではなく、「主の」ぶどう園とあります。ですから当然、その収穫も主人のものです。しかし主人は、その主人自身の収穫を、「自分はわけまえをもらうのだ」といって遣わしています。農夫たちは、「主人の」収穫のぶどうを主人から全部取られるのではなく、自分たちも受けることができることを示しています。つまりそれは本来はすべて主のものなのに受けることができるわけですから、主の恵みによる営みを表しているわけです。
 「選びの民」の目的は、「主の祝福の約束を受け、子孫に取り次いでいく」ということにあるわけです。アブラハムとの契約、祝福の約束は、星の数ほどのその子孫にまで向けられていたでしょう。申命記などには、その主の恵みと祝福を子供達に伝え受け継いでいくことが書かれていました。そしてそれは子孫、子供達だけではありません。イスラエルが選びの民であり祝福の民であるのは、それは自分たちだけという特権意識を養わせるためではなく、むしろ神の祝福と恵みを、世界に証し、取り次いでいくための民でもあったのです。それが本来の「主のぶどう園」でした。「主の実りであり収穫」であったはずなのです。
C, 「主人のものを自分のものとする農夫」
 けれども、農夫はその主人のぶどう園と収穫を自分のものとしてしまうのです。主人が遣わす僕を迫害します。つまり、主が遣わした預言者たちを拒み、迫害してきたことに重なります。このような、本来は、神のものであり、神からの恵みであるのに、それをあたかも主がいないかのように、主が邪魔で不都合であるかのように、そして恵みではなくすべて自分たちのわざや誇りや功績であるかのようにしやすいというのは、まさに「人間の罪の性質」を実によく表していますね。最初の人、アダムとエバの原罪の性質は、神のようになれるという誘惑に負けて、神と神の言葉を退けたというところにありました。その罪の初めが、すべての人に及び、それは選びの民も決して例外ではないことを示しています。いや、むしろ旧約聖書の人間の記録は、選びの民の姿を通して、人間はどこまでも神に背く罪深いものであることを伝えているとも言えるでしょう。人間、誰でも陥りやすい、罪の性質をこのところは気づかせてくれるところですが、私自身、良いこともそうでないことも神の恵みであるのに、神のものを受けているのにその神がいないかような、神が働いていないかのような態度や思いに陥りやすいことを気づかされるところでもあります。農夫は私自身でもあります。

3.「3人のしもべと主人の息子」
 けれどもここで主人は僕を「1人」ではなく「3人」遣わしているということ。みなさん、どうでしょう。最初の一人目が袋叩きにあった時点で、主人は当然怒ってもいいでしょう。けれども、主人は、二人目を送ります。二人目も袋叩きにした上で、さらに辱めて送り返しています。だんだんエスカレートしています。けれどもそれでも3人目を送っています。神の忍耐と寛容を見ることができるわけです。1人ならず3人までも送ってくださる神、いや、実際は、3人以上の預言者が遣わされているわけです。しかし最後の3人目も傷を負わせられ送り返されます。ひどい仕打ちですね。主人にとっては本当に屈辱ですね。怒っても当然のことです。しかし3人で終わらないのです。何と書いてあるでしょうか。
「ぶどう園の主人は言った。『どうしたものか。よし、愛する息子を送ろう。彼らも、この子はたぶん敬ってくれるだろう。』」13節
 こんなひどい仕打ちを受けても、自分が遣わした使者が何人も袋叩きにあい送り返されても、主人はそれを忍耐し、それでも信じて愛する息子さえも送る思いがここにはあるのです。これは神が御子イエスを世に送ってくださった思いです。収穫を共に享受し喜ぶためにこそ使いのものは送られています。預言者を送ったのも、民が悔い改めて、主に立ち返り、主の恵みに立ち返り、主の祝福を賛美し喜び、喜びの交わりを回復するためでした。それが拒まれても、預言者が殺されても、それでも主は何度も彼らの罪を赦し、滅びを望みませんでした。祝福の約束を放棄して捨てたのは民の方ですが、けれども神は、民が何度、預言者を拒んで捨てても、神は民を捨てず、約束を放棄せずに、それでも預言者たちを送り続け、神の言葉、悔い改めて神の祝福に帰るようにと教えてきたことを私たちに伝えているのです。

4.「主人の息子を殺す農夫」
 しかしです。イエスはその最後の使者であることもこのところは同時に示しています。
「ところが、農夫たちはその息子を見て、議論しながら言った。『あれはあと取りだ。あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして彼をぶどう園の外に追い出して、殺してしまった。」14?15節
A, 「主人から全てを奪い取ろうとする」
 「議論していた」「殺そうと企てる」とあるのは、前回までの祭司長たちを表していますが、その通りに殺してしまうというのは、このエルサレムで起こることを伝えています。イエスはご自分の父のぶどう園にやってきた、そして収穫である祝福を、神の国の福音を共に喜ぶためにやってきました。それが貧しい人や病人に現された奇跡であり、取税人たちやザアカイに現されたことでもあったでしょう。けれども農夫たちはその主人の財産を、跡取りの命もろとも奪ってしまったのです。これも実に象徴的です。ぶどう園、つまり神の国は主のものであり、その実りも収穫も、主のもの、つまり祝福も約束も神のものを神から受ける神の恵みであるのに、まさに農夫たちは、自分たちの力で、ぶどう園、収穫を強奪した。それは、まさに神から神のものを受けるという神の国を否定し、むしろ自分たちの力とわざで、神の国と祝福を得ようとする姿を象徴しています。恵みとは逆です。イエスによって与えられる神の国と逆、福音とは逆の姿です。
B, 「与える神、しかし自分のわざで実現しようとする人々」
 そのことは大事な示唆を与えてくれています。聖書の伝える神はどこまでも与える神です。創造も命も楽園の生活もそうした。出エジプトも神が与えた救済であり恵みでした。十戒も神が与えたみ旨と祝福の約束です。約束の地の約束も神からの恵みでした。そして、神殿も預言も神から、ダビデにせよ、ヒゼキヤにせよ、その子マナセにせよ、その罪からの悔い改めさえも神から導かれたからこそでした。人には神や神の国のためには何もできません。しかしそれに対して神はどこまでも与える恵みの神であることこそ聖書は伝えてきました。そして、イエスも「天から」世に来られ、福音を伝えるためにきました。まさにその「福音」というのは、それは「神が私たちのためにしてくださったこと」という意味です。イエスは与えるためにこそこられたのです。「神の国」という時も、それは「神の」国ですから、つまり神のものであるのですから、私たちは自らそれを得たり、至ったり、掴んだりはできないものでしょう。ですから、これまでも見てきましたように、自分は正しいんだとか、自分はこれだけのことをしてきたしできるという人には神の国は理解できず、逆に自分の罪深さや無力さを認め、何も持っておらず受けることしかできない人々は、与えらえる神の国の福音をそのまま受け取りっています。このように「自分がどうか」「自分が成し遂げる神の国」ではなく、「イエスが与える」神の国であるからこそ、神が与えるものをそのまま受け取ることの幸いを、福音書は伝えているのです。けれども、逆に自らのわざで律法的に神の国を実現しようとすることは、まさにこの農夫のように、罪の思いに任せ神の国を強奪することになってしまうのです。
 私たちはぶどう園は「神のもの」、その収穫も「神のもの」であり、それを恵みとして受けるだけであること、そしてその収穫を共に喜び、喜びを持って応答することこそ、神の国の素晴らしさであることをぜひ覚えたいのです。

5.「家を建てる者たちの捨てた石」 
 16節以下ですが、その遣わされた御子がまさに最後の使者であることがわかります。この主人の子、つまり神の御子キリストを拒むことは、もはや猶予がないのです。そのような祭司長たちには、彼らは宗教指導たちたちであったとしても、神の怒りと裁きを免れないことが示唆されています。しかしそれに対して民衆は言います。16節の後半ですが、「そんなことがあってはなりません。」と。それに対してイエスは言うのです。
「イエスは彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石となった。』と書いてあるのは、何のことでしょう。この石の上に落ちれば、誰でも粉々に砕け、またこの石が人の上におちれば、その人を粉微塵に飛び散らしてしまうのです。」17〜18節
 イエスは詩篇118篇22節の言葉を引用しています。「家を建てる者」とは、神殿とみ言葉を司る祭司長、律法学者たちです。そして彼らの建てる石は「律法」でした。しかしその彼らが家を建てるに必要ないと見捨てた石があるのです。それはイエスであり福音です。彼らにとっては神殿と礼拝を立て上げていくためには、イエスとその福音は必要なかったのです。いやむしろ邪魔でもありました。19章でも見てきたように、動物売りのシステムや律法をかざしている方が、神殿の礼拝を秩序正しく、合理的で、安定させ、そして彼ら自身の名誉や誇りやプライドや願望を守るためには、好都合で重要であり、逆に罪人のための福音は彼らの秩序に当てはまらないように思えたわけです。商売人システムと律法による統制の方が、神殿の繁栄と安定のために計算できる見える事柄でもあったことでしょう。しかし彼らにとって福音は、見えない事柄であり、罪人を受けれたりなど、何か自分たちの権威や秩序を脅かす異世界のように見えたことでしょう。そのようにして彼らはイエスと福音を排除したのですが、しかし預言者もイエスも言うのです。「神の救い主の預言も約束も、神の国も、この彼らが捨てた石の上にこそ立つのだ」ということをです。
 ここに「私たちの礎」はどこにあるのか、どこに私たちは立ち、私たちの信仰は立ち、私たちの教会は立つのか、そのことがイエスに問われています。私たちの信仰も教会も、家を建てる者たちの大事にする立派な石の上、律法の石ではありません。この見捨てられた石、そのキリストと福音の上に神の国は立っている、教会は立っているのだということなのです。私たちの信仰の礎は、このキリストとをの福音であり、その上にこそ神の国、教会、そして私たちも立つのです。これは私たちにとっての何よりの核心部分に他なりません。

6.「終わりに」
 私たちは何によって救われ、今新しく生かされているでしょう。私たちは、キリストとその福音によって救われました。私たちはキリストと福音に生かされているものです。それは十字架の福音であり、イエスの死に与って私たちも古い自分に死に、イエスの復活に与って私たちも新しく生かされること、そこに私たちの救いの核心、喜びと平安、希望と自由があります。ぜひ受けましょう。いのちの福音を。そしてその喜びと平安に満たされ、世に遣わされ、その喜びと平安に答え、神を愛し隣人を愛していこうではありませんか。