2016年9月4日


「祭司長たちの質問」
ルカによる福音書 20章1〜8節

1.「宮で福音を宣べ伝え続けるイエス」
 イエスを殺そうと思っていましたが、どうしたら良いかわからない祭司長達がイエスのところに来きます。
「イエスは宮で民衆を教え、福音を宣べ伝えておられたが、ある日、祭司長、律法学者たちが、長老たちと一緒にイエスに立ち向かって、」1節
 イエスにとっては「嘆きのエルサレム」であり、「捕えられ殺される十字架のエルサレム」であったのですが、しかし、このエルサレムでもイエスの使命は一貫しています。神の国の福音を伝えることです。しかしその福音はこれまで見てきましたように、群衆の期待する繁栄のエルサレムではなく、取税人などの罪人に現された悔い改めと罪赦しの福音であり、今まさに起ころうとしている十字架と復活を前に見ての神の国の到来の知らせに他なりません。それは弟子達も理解できませんでした。熱心に聞いている人々もその福音の本当の意味をわからなかったでしょう。イエスは一人、エルサレムで殺されなければならないというその困難な現状を受け止めています。けれどもそれでもイエスはその人々のために、その福音を語ることをやめなかったのでした。しかもその堕落していた宮の中です。しかしイエスは、堕落しているから避けるので見捨てるのでもなく、その神の神殿が堕落しているからこそ真実の神の国を語っていたとも言えるでしょう。パウロはテモテへの手紙で「時がよくても悪くとも福音を語り続ける」よう励ましていましたが、けれどもそのパウロの模範となったのはまさにイエスであり、イエスこそ時が良くても悪くても、それが十字架の直前の苦しみであっても、福音を語り続けたことがここにわかります。

2.「祭司長たちの質問」
 しかしです。そこにやってきた祭司長、律法学者たち、長老です。それは前回の19章47節に登場していました。イエスを殺そうとしていた人々です。彼らはイエスに向かって言うのです。
「イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。あなたにその権威を授けたのは誰ですか。それを言ってください。」2節
 彼らは問います。「何の権威によって、宮で語っているのか」と。彼らがこだわる特権は、権威です。彼らはこの宮で働く人々ですが、まさに彼らはその「権威」を持っている人々でした。祭司長たちとレビ人たちのその権威は、旧約聖書にその拠り所がありました。レビ記8章には詳しく書かれていますが、アロンの子孫が祭司としての職を受け継いでいき、民数記1章47節以下を見ると、聖なる神殿儀式に祭司と一緒に仕えることができるのは、レビ人たちだけであると神は律法を与えていたのです。まさに権威がありました。律法学者やパリサイ人たちも律法を教える「権威」を持っている人々です。定期的に会堂の講壇に立って説教をしていたのでした。イエスもマタイ23章2節を見ると、「律法学者、パリサイ人たちは、モーセの座を占めています。」と言っており、彼らが律法のリーダーであることは、社会から認められ、イエス様も認めているところなのです。そして長老たちの権威ですが、出エジプト3章16節以下を見てもわかるのですが、彼らは民を指導したり、相談に乗ったりするためにモーセ以前から建てられていた一つの「権威」であったのでした。
 そんな彼らがイエスに言のです。「何の権威によってあなたは宮で語っているのか。誰があなたに権威を授けたのか」と。彼らの権威は神から来ており、代々受け継がれてきている伝統です。ですから自信を持って問えます。どこからあなたの権威はきているのかと。この質問自体は決しておかしなことではありません。けれども問題はその動機でした。質問は正当でも、その心はどうか?19章47節にそれははっきりと書かれていました。彼らはイエスを殺そうと思っていたのです。しかしどうしたら良いかわからなかったともありました。そこに今回の質問に至った経緯があるわけです。
 そのように確かに彼らには権威がありました。神からの権威でした。しかし、彼らはその神からの権威をかさに、その権威を殺しのためにむしろ利用しています。神からの権威あるものとしての行動や動機として全くそれにふさわしくない、それどころか、彼らは明らかに罪を犯してしまっています。いずれにしましても、彼らはイエスをどんどんおとしめようとしてこの質問をしているわけです。しかし表向きは正当な質問であるわけです。ここが誘惑の巧妙さでもあるわけですが、しかしイエス様はそのことを見抜いてこう答えるのです。

3.「イエスからの質問」3〜4節
「そこで答えて言われた。「わたしも一言尋ねますから、それに答えなさい。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から来たのですか。」3〜4節
 イエスは尋ね返します。このような祭司長たちや律法学者たち、長老たちは、社会の尊敬の対象であり教師でもありますから、尋ねられたら答える義務がありました。むしろ律法の専門家などは、答えられないと恥ずかしいことでもありました。イエスは尋ねるのです。その質問は、
「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から来たのですか。」
 と。この宗教指導者たちにとってはタブーとも言える質問であったかもしれません。バプテスマのヨハネは旧約聖書で約束された、救い主の前に現れると言われた預言者でした。その通りに、ヨハネは成人すると悔い改めを解きました。そして多くの人々がヨハネのもとにやってきて悔い改めのバプテスマを受けたのです。民はもう彼は間違いなく預言者であると認めていたのでした。そしてヨハネは、イエスを前にして、この方こそ、自分の後に来る方で、自分は靴の紐を解く値打もないと言ったのはこの方だ。この方こそ約束の救い主だと指し示したこととも良く知られています。まさにヨハネも預言者としての権威があったわけです。それも正しく天からの権威であり、預言の約束に基づく権威でした。救い主を指し示し悔い改めの洗礼をする権威が、天からだけでなく人々からも認められていたのです。
 しかしです。彼らはイエスを否定したように、ヨハネをも否定し受け入れなかった、信じなかったわけです。そんな彼らに対して「バプテスマのヨハネをどう見るか」の質問は実に鋭いのです。むしろ彼らは心の中では信じておらず、ヨハネへの憎しみに満ちていたとしても、「答えられない質問」なのです。彼らは困り果てます。

4.「困った質問」5節
「すると彼らは、こう言って、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったのか、と言うだろう。」5節
 彼ら宗教指導者たちは質問に答えなければいけません。しかし答えられません。互いにどうしたらいいか相談するのです。なぜでしょう。まずここでの答えの選択肢は三つです。「天から」か、「人から」かです。屈辱の「わからない」という答えもあります。その「天から」か「人から」か。彼らはどちらかを答えた場合に何が起こるかを考えるわけです。まず「天から」と答える場合です。もしヨハネの権威が「天から」であると彼らが答えるなら、彼らは信じなかったわけですから、全く矛盾するわけです。「天からの権威」という存在を信じなかったわけですから。その「天からの権威」をイエスと同じように憎んだわけですから。これは彼らの、群衆の前でのメンツのためにも「天から」とは答えられないのです。
 では「人から」と答えた場合はどうでしょう。
「しかし、もし、人から、と言えば、民衆が皆で私たちを石で撃ち殺すだろう。ヨハネを預言者と信じているのだから。」6節
 人からと答えると、民衆から石で打たれる。どういうことでしょう。それは民がバプテスマのヨハネを預言者と信じていたということがカギです。「預言者」というのは、それは神の言葉を「預かって」民にその言葉の通りに伝える人々のことです。ですからその権威は明らかに神からの権威であり、特に預言者は神の言葉を扱うわけですから「神のしもべ」として非常に高い優位性がありました。預言者というのは非常に神聖な使命であったわけです。ですからその権威も神聖です。しかし預言者として認められ明らかな、ヨハネのその預言者としての権威を「人から」と言ってしまうと、神の任命、神の権威、神のことばへの、冒涜にもなるわけです。しかもそのような冒涜は石打ちに値する重罪です。それが宗教指導者たちであっても尊敬を失うことになり、石打さえ免れません。預言者にある神の権威を否定することは、まさにそれは信じている人の怒りを招くことであったのでした。彼らはそのことを察するわけです。彼らは信じていなかったわけですから、彼らの心の答えは、むしろ「人から」であったことでしょう。しかしそれを答えることができません。
 そのように彼らは事実、権威を託された存在であるのに、その権威を与えた方に従って行動するのではなく、むしろ与えられた権威を利用して、その彼自身の感情や心のままの憎しみと妬み、殺意に従って行動することによって矛盾が出始めるのです。彼らは結局、「天から」とも「人から」とも答えられず、こう答えるのです。
「そこで「どこからか知りません」と答えた。」7節
 これは祭司長、律法学者、長老たちにとっては大恥です。まさにメンツを潰されたのです。そしてイエスをおとしめようとした計画も失敗します。

5.「権威を与えた神への忠実さ」
 イエスが宮で語る権威は、「天から」です。しかもイエスはその権威に、そして権威を与えた神に忠実に、天からの御心、まことの神の国の福音を語ってきています。それは周りの人から理解されなくても、受け入れらる人がわずかであっても、神が与えようとしている本当の神の国を語り続けました。それが周りの人々の期待する神の国と違って、むしろ周りの人々が忌み嫌う、罪人のとの和解や食事、罪人を赦すこと、受け入れることであったとしても、それが本当の神の国であり、それこそ本当に人々を平安にするものであるとイエスは語り続けました。実に権威に、そして権威を与えてくださった神に忠実でした。どこまでも神のみことば、神の約束を見ていたともありました。祭司長たちに弁明しなくても、それは明らかなことでした。天からの権威であるとしてイエスが語り行っていることが、周りから見ても明らかであるからこそ、祭司長たちは、この質問をしたとも言えるでしょう。それは確かに地上の権威から任命されていない、ナザレの大工の子イエスが、「天から」と言った時に、それは神殿への冒涜だと断罪することにあったことでしょう。しかし権威を与えた神に不忠実な彼らのその人間的な企みは崩れ去り、逆に神の約束に忠実なイエスの権威はこれまでの福音と奇跡のわざのすべてが真実であると証しし続けているのです。

6.「人の言葉よりも真実な神の言葉」
 みなさん、この出来事から何を学ぶことができるでしょうか。それは人の言葉よりも、神の言葉とその真実は永久に立つということではないでしょうか。本当に祭司長たち、律法学者、パリサイ人たち、長老たちは、社会や宗教界の地位においても権力や権威においてもトップであり、尊敬も高く、その言葉には皆従いました。教えにも従いました。しかし彼らの権威は天からのものであるなら、神に従わなければならないはずなのに、彼らは自分の心の負の感情のままに行動し、そのために権威を利用しているでしょう。いや世にあっては、いつの時代も、どの社会でも、そのようなことはたくさんあり、そのようなことをする人が強かったり、上手くいったり、自分の思うように進めていくことも多いかもしれません。政治の世界などもそうですし、どの世界でも、力のある人たちというのはそういうところがあるものです。そのような世にあって、私たちは矛盾や理不尽さや苦しみを感じたり、どうしたらいいかわからなくなったり、諦めてしまったりすることもあるでしょう。
 しかし、ここで証しされている通り、それらはどんなに強そうであっても、圧倒的に見えても、どこまでも人のわざであるということを越えるものではないということです。神の知恵の前には脆いのです。神の愚かさは、人間の最高の叡智よりもはるかに優れています。そして神の言葉は真実であり永遠でもあります。ですから私たちが主キリストのいのちのことば、救いのことば、十字架のことばをしっかりと握っているなら、私たちは何も恐れる必要はないのです。決して揺るがされることがありません。希望を失うことはありません。なぜなら、神の愚かさは、人間の最高の叡智や権威よりもはるかに優れて強く真実だからでです。そうであるなら神の知恵や賢さは計り知れないでしょう。そのように神は、私たちの思いや予想をはるかに超えた真実を持っておられ、その愛の御心を必ず果たされるからこそ、信じる私たちは恐れる必要も失望する必要もありません。そして、それはどこまでも私たちのためにです。私たちはその希望に生きることができるというのはなんと幸いでしょうか。

7.「十字架と復活」
 まさにこの後、約束の通り、果たされる出来事が起こります。十字架と復活です。しかしそれは神の私たちへの救いの約束、神のことばの完全な成就です。その神が私たちに与えたイエスの十字架によって私たちの罪は赦されて、義と認められました。罪深い古い自分はこの十字架で死ぬことができ、いつでもイエスと同じように、新しく生まれることができます。私たちはそのイエス・キリストの故に、信仰によって、日々新しいということができます。そしてそう信じることこそ、私たちを確信と平安で満たします。みなさん、この真実で救いのみことばを私たちは今日もいただいている。持っている。聞くことができる。与えられ信じることができる、信頼できる、拠り所とできる。このことは私たちがイエスと交わっている証であり私たちに与えられている最高の宝です。ぜひ今日もこの確信と希望と平安のうちにここから遣わされていきましょう。そしてキリストの平安と喜びに満たされ、神と隣人を愛していこうではありませんか。