2016年8月21日


「イエスはエルサレムに向かって」
ルカによる福音書 19章28〜40節

1.「はじめに」
 イエスはいよいよそのエルサレムに上っていきます。
「オリーブという山の麓のベタパゲとベタニヤに近づかれた時、イエスは二人の弟子を使いに出して、言われた。「向こうの村に行きなさい。そこに入ると、まだ誰も乗ったことのない、ろばの子がつないであるのに気がつくでしょう。それを解いて連れてきなさい。もし、『なぜ、ほどくのか』と尋ねる人があったら、こう言いなさい。『主がお入用なのです。』」(29〜31節)
 オリーブ山はエルサレム郊外の東側の丘ですが、ベテパゲはエルサレム神殿から1.5キロ、ベタニヤは3キロほどにある村です。そこでイエスは二人の弟子を村に使いに出すのです。誰も乗ったことのないロバがつないであるから解いて連れてくるように言うのです。さらに、そこには「なぜ解くのか」と尋ねる者がいて、その人に「主がお入用なのだから」と答えるようにとイエスの指示はとても具体的です。そのすぐ未来の状況をすでにわかっているように話しています。イエスのこの行動は何を意味しているでしょう。ただの偶然でしょうか?特に意味のない些細な出来事なのでしょうか?

2.「神の約束(ことば)を見ている」
 イエスはここで「聖書(旧約)の預言の約束」を見ているのです。それは新しい救い主、王としてこられる救い主の預言の約束ですがこのような言葉が与えられていました。
「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところにこられる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる、それも雌ろばの子ろばに。」ゼカリヤ書9章9節
 このようにイエスはご自身のエルサレムへの入城を、この約束された救い主が王としてやってくる預言に重ねています。そしてその預言を意図的に成し遂げようとしていることが分かるのです。
 まずこのところからの大事なポイントですが、第一にイエスは、どこまでも神の言葉を見、神の言葉を拠り所としているという点です。エリコでも群衆の歓迎を受け、大勢の人が周りに集まりました。多くの人々がイエスに期待していました。どのような期待であったでしょう。それはすぐにでもイスラエルがローマから独立して、政治的、経済的、宗教的な復興が始まるんだ。あるいは、あのダビデとソロモンの繁栄の時代が再び実現するんだと人々は待ち望んでいたのです。その期待をイエスは一身に背負っていました。しかし反面、人々は、イエスが罪人であるザアカイを受け入れ食事をするのを軽蔑し、躓きました。イエスは、「神の国は十字架と復活にこそある」と示しても、弟子たちでさえもそれを全く理解できなかったということもありました。そのように人々や弟子たちも含めて、彼らの思いや期待と、イエスが見ていることの違いがあったことを繰り返し見てきているのですが、そのイエスが見てきているところはどこであるのかが、このところに現れているのです。それは、イエスは神の言葉を見ているということです。つまり人々が期待し、好み、イメージするのに答えるためにエルサレムに上られるのではなく、イエスは、神の言葉、神の約束をどこまでも真っ直ぐ見ていて、それを行動の拠り所、動機、目的として、そして、今その神の約束を成し遂げるためにエルサレムに入られようとしているのです。
 そこにはイエスの「神の言葉は真実である」という確信も現れているでしょう。ご自身のエルサレムへ入ることは、それは神が定めていることとして約束されているからと、それは必ずその通りである、その通りに起こるという言い方をしているでしょう。王は雌のころばに乗ってはいるのだから、それが必ず備えられている。そのような言葉です。イエスにとっては、神の言葉、約束は、真実なのです。揺るぎない確信であり、その通りに起こることなのです。その神の言葉こそをイエスはどこまでも見ていて、成し遂げようとしているその証をここに見るのです。

3.「イエスが神のことばを見ていることの意味」
 皆さんは、このイエスをどう思うでしょうか。周りの人ではなく神を見ているから、あるいは、周りの期待や好みではなく神の御心を見ているからと、人類が神によって突き放されたように感じるでしょうか。そうではないのです。なぜなら、神のその言葉、約束は「イエスのための」言葉、約束ではないでしょう。その救い主の約束は、王の約束は「人類のため」「私たちのため」ではありませんか。神の思いはどこまでも人類に、私たちに向けられています。そしてその神の愛と思いは、私たち人類にとって何が救いであり、何が本当の幸福と祝福であり、何が本当の平安と喜びであるのかをはっきりと見てのことであるでしょう。
 私たち人間の自分たちの思いや未来を見据える目、それは不完全でどこまでも罪深いものです。独りよがりで自分勝手なものです。その期待や好みも、本当に自分や隣人や、世界を平和に平安にするものとなるとは限りません。むしろ個々の期待や好みや価値観はぶつかり合います。激しくもなります。それが小さい差別やいざこざや争いから、殺人や戦争にもつながっているでしょう。それは人間の歴史が物語っていることです。それは国家同士のことだけでなく、身近な人間関係においてもそうではないでしょうか。人の期待や好みは人の罪深さとその結果を伴わざるをえないものです。
 けれども神は、そのような私たちに、神の前にあって本当に大事な、本当に必要な、本当の救いと安心、平和と自由こそをそのご自身の言葉に約束して与えようとしてくださっているのが、まさに神のことば、預言、約束の意味ではありませんか。何より神がイエスを送ってくださったのも、そしてその十字架の死にまで従わせようとしているのも、それは「イエスのため」ではないでしょう。「私たちのため」ではありませんか。
「神は実にその一人子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16
 とあるでしょう。そのための預言であり神の言葉でしょう。「私たちのため」の言葉でしょう。まさに十字架は私たちのためであるでしょう。そこに罪の赦しが与えられ、イエスが「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」とみ言葉で言ってくださっているからこそ、私たちは神の前に罪赦されていることを確信して安心していくことがでできるでしょう。それがこの罪の世にあって、様々な問題や困難があるこの人生において、どれだけの希望を与えるでしょうか。その神からの罪の赦しによって、日々新しい復活のイエスのいのちに生かされているからこそ、私たちは苦難の世のあっても、忍耐が希望を生み出すこと、信仰が私たちを自由にすること、真実な神のみ言葉と聖霊が全てのことに働いて神は益としてくださることを私たちは知っているのではないでしょうか。イエスは決して「一時の繁栄や成功」という地上の人間でも果たせるようなちっぽけなものを与えるために来たのではないのです。本当に必要なもの、それは罪の世の現実と私たちの罪深い性質は変わらず、それは深く、自分ではどうすることもできなくとも、しかしその現実の中にあって、つまり苦しみのただ中にあったとしても、私たちの思いを超えた、素晴らしい希望の光と、世が与えることができない平安と喜びを与えるためにこそイエスは来られたのです。それを実現するためにこそ、今イエスは神のみ言葉を見ている、神の約束を成し遂げようとしている。十字架にかかって死のうとしているのです。そしてそれは人類のため、私たちのためなのです。このところは無意味な、ただ偶然のろばの出来事では決してない、実に、幸いな神の救いの出来事がこのところからも見ることができるのです。
 二人の弟子は、言われた通りに、村に行くと、そのイエスが言ったとおりのことがあります。ろばの子がいました。それをほどいているとイエスが言われた通りに、持ち主が「なぜ、ろばの子をほどくのか」と尋ねます。弟子たちは、イエスに言われた通りに答えます。「主がお入用なのです」と。イエスの言われた通りにすべてが起こるのでした。しかしそれは預言の成就でもあるのです。実にイエスの言葉は真実です。決して偽らない。約束はその通りに必ず果たされる。その神の言葉を私たちも今このように与えられていて、毎週、語られ与えられているということ、私たちもこの真実なみ言葉に立つことができるということはとても素晴らしい恵みでありこれこそ祝福なのです。

4.「賛美と告白は主の賜物である信仰から」
 さてそのようにして、ロバに乗ってイエスはオリーブ山を下り、エルサレムに向かいます。
「イエスがすでにオリーブ山のふもとに近づかれた時、弟子達の群れみな、自分たちの見たすべての力あるわざのことで、喜んで大声に神を賛美し始め、こう言った。「祝福あれ。主の御名によってこられる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」37〜38節
 18章で、弟子達の理解は不十分であったとありました。十字架と復活のことも全く理解できなかったとありました。そしてこの後、十字架の前では、皆、躓いて逃げて行き、裏切ります。それは弟子たちも罪深い一人一人であり、まさに彼らが神の国を実現するのではなかったことを教えてくれています。けれども彼らは罪深く不十分であっても、神のみ業、救い主が来られたことのの証人、賛美者として、その口に証と賛美が与えられ、用いられているのをここでは見ることができます。彼らは盲人の癒しも見てきました。あるいは、ヨハネ11章にあるラザロの復活も弟子たちは見てきました。それら神の力強い業がイエスによって現されたの彼らは見せられ、イエスはまことに神であり約束の救い主なんだと彼らは賛美せずにはいられないのです。その賛美は、預言の成就であるエルサレム入城の大事な賛美として用いられているのです。ですからこの「祝福あれ。主の御名によってこられる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」という賛美も、まさに神が、彼らの口にこの賛美を備えてくださり、「シオンの娘の喜びと叫び」の成就として用いられているのです。
 これも幸いなことです。信仰も賛美も「私たちの」応答ではありますが、しかしそれは「私たちの力や業」とは異なるものであり、むしろ聖書に従って言うなら、それは神から賜物です。なぜなら罪深い存在が、その罪の性質のままでは、自ら神を信じることも賛美することもできません。もちろん描かれている歌詞をメロディーラインに沿って歌うことは信仰がなくてもできます。しかし賛美というのは「告白」と同じであり、信仰とその喜びを伴ってこそ真の賛美です。そして信仰と告白は、まさにみ言葉を聞くことに始まり、神が聖霊とみ言葉を通して与えてくださる賜物であることをパウロは言っています。ですから「応答」というのは、それは私たち自身のわざだと思うなら間違いなのです。応答は神がみ言葉と聖霊によって私たちに与えてくださる信仰の賜物なのです。だからこそ、応答は賛美はもちろん奉仕であっても献金であっても隣人愛であっても、必ず喜びを伴うものであり自由であり平安なものです。そのようにして私たちも信仰が与えられ、賛美と告白が私たちの口にも備えられているということ、恵みとして救いの喜びを賛美できるということ、これは感謝な神の恵みなのです。それはみ言葉と聖霊が確かに私たちに生きて働いていることの証明なのです。
 ですから、その告白と賛美がまさに恵みであるからこそイエスは最後に言います。39節ですが、パリサイ人たちは、弟子たちの賛美を不愉快に思いイエスにやめさせるように言います。しかしイエスはこう言うでしょう。
「イエスは答えて言われた。「私は、あなたがたに言います。もしこの人たちが黙れば、石が叫びます。」40節
 これは神が賛美と告白を与えていることのメッセージではありませんか。人から出たことであるなら、人は人を黙らせることができるかもしれません。しかしその賛美が神から出たものであるからこそ、黙らせることは決して来ない。石は意志も心も口もありません。しかしそれが叫ぶというのは神がそうさせることができるからこそのまさに一つのメッセージに他なりません。この弟子たちの賛美と告白はそうであることを示しているわけです。神の約束は必ず実現する。シオンの娘たちの喜びの賛美は、それは神の約束の成就として、神が備え、神が実現されるその出来事だと教えられるのです。その通りにイエスはエルサレムに入っていきます。十字架にかかるために、私たちの罪のために死ぬためにです。

5.「終わりに」
 どこまでも素晴らしい恵みがここにあることを賛美しましょう。私たちが救われたのは、イエスただ一人のみわざによるのだということ、そしてそのイエスのみわざ、十字架によって、本当にその約束の通りに、私たちは罪赦されていること、その信仰が与えられていること、それによって救われていること、そのことは真実であることをぜひ今日もみ言葉から確信し安心しましょう。そして復活によって、今日も新しくされ、今日も信仰と賛美、平安と希望が与えられていることを、ぜひ感謝して、喜びと平安のうちにここから遣わされ、神を愛し、隣人を愛していこうではありませんか。