2016年7月31日


「求める幸い、目が開かれる恵み」
ルカによる福音書 18章35〜43節

1.「はじめに:18章をふりかえり」
 18章ではイエスは、不正な裁判官の例えから、祈ること、求めることの幸いを教えてきました。しかもその祈りへの招きは「自分が何ができるから、何をするから祈りにふさわしい、神の国にふさわしい」ということではなく、むしろあの罪深い取税人の神の憐れみにすがる祈りのように、あるいは、無力な幼子(17節)が母にすがるように、自分が神の前にあって、どこまでも小さな、無力で、不完全な存在であることを認め、そのまま神にすがることこそを神は求めておられるのだということを教えてきました。18章の終わりでもそのことが一貫していて「祈りなさい、求めなさい」の初めの部分が重なって見えるところでもあります。こう始まっています。

2.「憐れんでください」
「イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道端に座り、物乞いをしていた。」
 エリコはエルサレムに行く途中にある街。そのエリコに入る前の町外れでのことです。一人の盲人が道端で物乞いをしていたのでした。町外れの道端で、盲人が物乞いをしている、それは彼が蔑まれ、見捨てられたような、孤独で望みのない、実に小さな存在であることがまず示されています。しかも当時の社会は、このような人たちには差別的な社会で、間違った偏見なのですが、彼らがそのようになったのは、何か彼か、彼の家族や祖先が大きな罪を犯したからだと、それゆえ彼らは罪人というレッテルも貼られ、社会から疎外されるような存在でもありました。そんな彼らの前を群衆が通るのです。彼は「これはいったい何事ですか」と尋ねるのです(36節)。するとナザレのイエスがお通りになるのだと、知ることができたのでした。その時です。
「彼は大声で、「ダビデの子のイエス様。私を憐れんでください」と言った。38節
 彼はイエスのことを知っていました。「ダビデの子」と呼んでいます。約束のメシアの呼び名です。この盲人は、イエスが約束のメシアであると信じているのです。そして叫びます。「わたしを憐れんでください」と。「憐れんでください」という言葉。これは「罪人への憐れみ」をおもに意味しています。これは18章の中でも思い出すことができる言葉です。あの取税人の祈りの言葉でした。取税人は祈りました。「神様、こんな罪深いわたしを憐れんでください。」と。つまり、ここでその盲人が自分を「憐れんでください」と叫んでいること、しかも約束のメシアと信じて、つまり神の前にあると自覚して叫んでいるというのは、それは、彼が自分がいかに罪深く、汚れたものであるのかを知って、告白している」ということを意味しています。もちろん周りからそう言われているからもあったことでしょうが、彼自身、その自覚があるのです。その自覚の詳しい心の内はわかりません。もちろん病気や貧困が罪のせいであることもここでは書かれていません。しかし盲人であるとか貧しさとかに関係なく、彼ももちろん神の前では「一人の罪人」であることには変わりありません。彼はその自分の目のことや貧しさのことももちろんわかっていて、そしてその目を治して欲しいのです。しかし「目を治してください」より先に、彼は今やメシア、神の前にあって「憐れんでください」と自分の汚れ、罪深さこそを認め、叫んでいることがこの言葉の意味することなのです。しかしです。

3.「周りの人々」
「彼は黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私を憐れんでください」と叫び続けた。」39節
 先頭にいた人々が、群衆の一人であったのか、弟子達であったのかわかりませんが、周りの人々は、その盲人を遮ろう、黙らせようとします。先頭にいた人々や周りにいる人々にとっては、こんな罪深い罪人の物乞いの盲人が、神の国に、メシアの前にふわ強いはずがないと思われたのかもしれません。
 このところは、この18章のまとめであるかのように重なっています。このところの盲人を避けようとした先頭の人々や周りの人は、「子供たちを連れてくるのをやめさせた弟子達」あるいは「何をしたか、何をしたら」に価値観や、救いや神の国のふさわしさの基準を置いている、パリサイ人の祈りや役人の質問に重なります。彼らの基準で言うなら、この物乞いの盲人は、罪人、社会の敗者、貧しく汚い、何も功績もなければ、何も貢献しない、何もできない、それは世の彼らの秤で見るなら、メシアの前にふさわしくないわけです。事実、これまで多くの人がイエスに会いに来たり、尋ねて来たりしていますが、その中でパリサイ人、役人、会堂管理者、町の有力者、そのような人々がイエスに尋ねる場面は沢山あります。そんな時に、弟子たちによって彼らが止められ叱られたとか、黙らせようとされたとか、たしなめられたりなどは全くなかったわけです。そのような場面はありません。そのように見るときに、いかに周りの人々が、勝手に、その自分たちの価値観で、イエスにどのような人が近づいてよく、ふさわしく、どのような人がそうでないかを決めて動いているのだということがわかります。そこにはまさに彼らの的外れというか間違った、救いの基準、神の国の基準があるのです。それがまさにパリサイ人の祈りや、役人の質問に現れているということなのです。「どれだけのことをしたか」あるいは「何をすれば」と。その秤で見るなら、周りの人々によっては、その盲人は脇に退けられて当たり前なのです。しかしです。

4.「「求める」ことを求めるイエス」
「イエスは立ち止まって、彼をそばに連れてくるように言いつけられた。」40節
 ここも幼子の場面(16節)と全く重なります。どちらも周りは小さな存在を遮っています。しかしイエスは幼子の場面のように、この小さな存在である物乞いの盲人を「そばに連れてくる」ように言われています。そのようにして彼はイエスに近づくことができたのでした。しかしここでイエスは彼に尋ねるのです。
「彼が近寄ってきたので、「わたしに何をして欲しいのか」と尋ねられると。彼は「主よ。見えるようになることです」と言った。」41節
 イエスは「わたしに何をして欲しいのか」と彼に聞いています。この意味は何でしょう。イエスは彼を見ただけで、彼の状態が盲目であることをよくわかったはずです。そして彼が目を治して欲しいこともイエスは知っていたことでしょう。そして聞かなくても治すことができますし、治してあげたことでしょう。しかしここであえて「わたしに何をして欲しいのか」と尋ねるその言葉の意味がわかるでしょうか。まさにこれは18章の始めのところから一貫しているイエスの招きであることに気づくのではないでしょうか。18章1節になんとあったでしょうか。
「いつでも祈りべきであり、失望してはならないことを教えるために」
 とありました。そしてそのために語った不正な裁判官の例えの結論は、「あくまでも頼み続けるなら」ということであったでしょう。そして18章6?7節
「まして、神は、夜昼神を呼び求めている選民のために裁きをつけないで、いつまでもそのことを放って置かれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は速やかに彼のために正しい裁きをしてくださいます。」
 つまり不正の裁判官であっても、あくまでも求め続けられるならそうするのだから、まして愛の神は、求めるものの声を聞かないことがあろうか、答えてくださらないことがあろうか、そのような教えであったではありませんか。そのように「祈りなさい」ということは「求めなさい」ということであり、神に求めることの何よりの大事さを、イエスは教えてきたでしょう。そのことがこの盲人への質問には現れているでしょう。「わたしに何をして欲しいのか」と。何を求めるのか。まさに「求めなさい」ということを強調されている質問であることを分かると思います。
 この盲人はまさに神に求めました。「憐れんでください」と。そして「目が見えるようになることです」と。そして

5.「イエスが目を開いてくださる」
「イエスが彼に「見えるようになれ、あなたの信仰があなたを直したのです」と言われると、彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。」
A, 「神は憐れんでくださる」
 イエスはまさにそのお言葉一つで、その盲人の目を癒したのでした。このところも一貫した変わらないメッセージです。世にあっては蔑まれ、神の国にふさわしくないような罪人であっても、神は見捨てない、いやそれどころか、憐れみを願い、そして求めたその求めを、イエスはしっかりと受け止めて下さり答えてくださった。その通りに癒しを与えてくださった。このようにイエスにあっては、何をしたかは重要なことではない。どんなに小さな存在で罪深くとも、どんなにそれを受けるに値しないと自分で認めるような絶望の存在であっても、そのまま認め、そのまま神に、神の約束に信頼し、神にすがるなら、求めるなら、その祈りは神の前に受け入れられる、取税人の祈りのように神の前にその祈りは義と認められる。そしてそのように求めるなら失望することはない。イエスのメッセージはずっと一貫していることがわかるのです。
 実に感謝なことです。神は、イエスはいつでもそのようなお方なのです。いつでもそのように私たちの間にあって、働いておられ、語りかけておられ、私たちを恵みと愛に招いている。いつも「求めなさい。祈りなさい。失望することはない」と語り招いているのです。それが聖書の神、イエス、私たちの救い主なのです。ですから、私たちも本当にその約束の通り、何ができるから、できなかったからではなくて、本当にそのままの罪深い自分を神の前に認めて、告白を持って「神様、憐れんでください」と叫ぶ時、そして求める時、イエスは必ず聞いてくださり、憐れんでくださり、罪を赦してくださり、そして求めに応えてくださるのだということを、このところを通してイエスは今日も私たちも約束し招いておられます。幸いではありませんか。私たちは神の前で、何も自分を誇らなくていい、神の前で装う必要も一切ありません。私たちは皆神の前に罪深い一人ですが、その罪からの救いのために、罪の赦しを与え、新しい歩みといのちを与えるためにこそ、神が世に与えてくださった救い主イエスなのですから、私たちも日々、悔い改めを持って、「神様、憐れんでください」と叫び、そして全ての苦しみを担ってくださるイエスに「求めて」いくことこそ、最高の応答であり祝福に他ならないのです。
B, 「神が目を開いてくださる」
 そして最後に、ここにはもう一つのことを触れることができます。彼が盲人であるということ、その目が開かれるということは、それは前回のところとつながる一つのメッセージがあることに気づくのではないでしょうか。
 イエスは、ご自分の十字架と復活のことを公にしました。しかし弟子たちには隠されて何もわからなかったとあったでしょう(34節)。彼らは「目が閉ざされて」いたのです。そこには、だからこそ神であるイエスこそが、救いを成し遂げて与えてくださるということの確かさがあるのだと見たのですが、ここからもわかるように、目を開いてくださるのも、神でありイエスであり、そのみことばであるのだということがわかるのです。弟子たちはわかりませんでしたが、やがて目が開かれます。有名な場面は、エマオの途上の出来事がありますが、そこでも弟子たちが自ら悟ったとか、わかったとかではなく、復活ののちにまさにイエスの言葉によって彼らは目が開かれ、復活の事実が分かり、その疑っていて全く信じていなかった彼らに、「イエスはよみがえった」という信仰がイエスによって与えられたことが書かれてあるでしょう。そしてやがて聖霊が与えられた時に、イエスが最後の晩餐で約束したように、聖霊が、イエスの語ったことを明らかにして、つまり目を開いて、彼らは十字架の復活の福音を、聖霊によって語り始めたわけです。目を開いたのは、弟子達ではなく、どこまでも神であるイエスだったという事実なのです。しかもそのみことばと聖霊によってです。

6.「終わりに」
 私たちは聖書や信仰のことでなおもわからないことは沢山あります。私もそうです。しかし皆さん、私たちが自分で目を開く必要はありません。いや出来ません。目を開くのは神です。みことばと聖霊です。それはイエスが約束している通りです。ですから「どれだけ、わかる、わからない」と知識の量が、クリスチャンにふさわしいとか、何かを左右するのではありません。ですからわからないことを卑下したり、わからないから救われないとか、クリスチャンにふさわしくないとか考えるのも間違いだということです。目を開くのは神です。みことばと聖霊によってです。ですから私たちにとって大事なことは、みことばと恵みですから、みことばを喜んで聞くことです。まさにイエスがマルタに言われたように、「どうしても必要なことは一つだけ、マリヤはその良い方を選んだ」という、そのこと、イエスのみことばを聞くこと、受け取ることです。そうするならみことばが正しく解き明かされるところには聖霊が必ず働いているのですから、イエスがちょうど良い時に、必ず目を開いてくださるのです。いや、クリスチャンが、救われた事実、あるいはイエスは主であると、今、告白できるという事実は、すでに目が開かれているということでもあるでしょう。それは最も大事なことです。今私たちに「主イエスは救い主」と賛美できる信仰があって、それゆえに洗礼に与ったという事実は、まさに神が私たちに働いてくださっているという現在進行形の恵みの証拠です。ぜひ私たちはその事実に確信を持ちましょう。そして救われているという確信があるからこそ、平安は尽きることがありません。ぜひ今日も、神の憐れみが今ここに実現しているその恵みを感謝して、罪赦された確信を持って、安心して、平安のうちにここから出て行き、神を愛し、隣人を愛していこうではありませんか。