2013年3月30日


「よみがえられたのです」
<イースター記念礼拝>
ルカによる福音書24章1〜11節
1.「はじめに」

人間の常識にとって、「死からのよみがえり」というのは、あり得ない事で、信じがたいこと。確かに人間は、この科学が日々発展している現代においても、人を死からよみがえらせることは誰もできません。「死」は人の前に立ちはだかる圧倒的でどうする事もできない、勝つ事のできない現実です。誰もが迎えなければいけないことです。けれども神はイエスを死からよみがえらせました。神は死ではなく、むしろその死に打ち勝ち、生かす事がおできになるのです。イースターはその恵みを、私達に伝えています。

2.「誰もがイエスは死んだものと思っていた」(1節)

「週の初めの日の明け方早く、女達は、準備をしておいた香料をもって墓についた。」

イエスが十字架につけられて死んで三日目の日の朝、週の初め、日曜の朝の出来事。女達はイエスの墓に行きます。香料を持って。それはイエスの亡がらに塗るための香料。当然、女達は死からのよみがえりなど考えてもいませんでした。彼女達にとってイエスはもはや死んだ人です。彼女達だけではありません。イエスを取り巻く人々、イエスとともにいた人々にとっても、イエスがよみがえるなどと、微塵も、これっぽちも頭にはありませんでした。いやイエスは弟子達に前もって「よみがえります」のことを伝えていました(マルコ14:28)。しかしそれでも弟子達は、今日のところの11節にもありますように、信じてもいなかったのでした。女達はまさに死者の埋葬のための作業をするためにやって来たにすぎないのです。


3.「墓は空っぽだった」(2〜3節)

「見ると、石が墓からわきにころがしてあった。入って見ると、主イエスのからだはなかった。」(2〜3節)

「石が墓から転がしてあった。」ー お墓は横穴のお墓。その入り口には大きな石のふたがされました。他の福音書を見ますと、その大きなふたの石をどうしようかと悩んでいる女達のことばも記されていて、マルコ16章3節を見ますと「「墓の入り口からあの石を転がしてくれる人が、誰かいるでしょうか」とみなで話し合っていた。」ともあるのです。ですから女性数人でもなかなか動かす事が難しいような大きな重い石であったようです。しかもイエスを処刑した人々は、イエスの遺体が盗まれないように、番兵を置いていたこともマタイの福音書を見る時にわかるのです。しかしその石が脇に転がしてあった。入り口は開いていたのでした。その番兵が動かして開けたのでしょうか?マタイの福音書にこうあります。

「すると、大きな地震が起こった。それは主の使いが天から降りて来て、石を脇にころがして、その上に座ったからである。その顔は、いなずまのように輝き、その衣は雪のように白かった。番兵達は、御使いを見て、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」マタイ28章2〜4節

天の御使いが石を動かしました。入り口の所にいた番兵達はそれを見て恐ろしさのあまり、震え上がり死人のようになりました。番兵でもない、当然、女達でもない、天から使わされた神の使いが石を動かして開けたのです。実に不思議な出来事です。そして女達は墓が空いているのですから中に入りました。しかし、そこにはイエスのからだはもうなかったのでした。


4.「よみがえられたのです」(4〜7節)

「そのため女達が途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女達の近くに来た。」(4節)

女達は途方にくれるしかありませんでした。何が起こったのかわかりません。ヨハネの福音書をみると、女達は「誰かが主を取っていった」と言って嘆き悲しむことばも書かれています(ヨハネ20:2、13)。誰かに取られた。遺体の場所を移された。盗まれたと思ったのでした。しかしそこに輝く衣をきた2人の人、天の御使いが近づいてきました。女達は恐れおののき地面にふします。見た事もないような人達であり光景であったのでしょう。そんな女達に御使いはいうのです。

「恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人達はこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中に捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。」5〜6節

御使いは、伝えます。「イエスはよみがえられた」と。御使いはこうもいうでしょう。「なぜ生きている人を死人の中で捜すのですか?」と。人間にとって死人がよみがえるなど誰も思いません。女達も、イエスの亡がらに会いに来ました。しかし御使いは、死んだはずのイエスが、当然のように、生きているのだと話しているでしょう。それは死んだイエスの亡がらに会いに来たことがおかしいことのように。けれども、御使いはこう続けて言っています。6節後半から7節までですが、

「また、ガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人の手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならないと、言われたでしょう。」(6後半〜7節)

御使いはこういいたいでしょう。「それは驚くべきことではない。なぜなら、それは神の子イエスが十字架にかかる前にあなたがたに伝え約束していたことでしょう。神の言葉がその通りになったのですよ。神はその約束の通りに、御子イエスをよみがえらせたのですよ。」と。


5.「イースターの伝える恵み@:神のことばは真実である」

イースターは、ただ「イエスがよみがえった」、それだけではないのです。神がその言葉の通りになさった。神の言葉はどこまでも真実であり、その通りになった出来事であるということを、御使いは女達に示していることがわかるのです。誰も信じていませんでした。いやイエスのことば、神の言葉を、忘れてしまっていました。そして「人の言葉」はその通りにはなりません。何度も見てきました。弟子達は、「他の誰かが裏切っても、私は裏切らない」と声を揃えていいました。しかし人の言葉はその通りにはなっていきませんでした。人の言葉も、人の業も、神のなさろうとすることの前にはあまりにも無力であったことを見てきました。その人の業、人の言葉と、実に対照的に、この御使いの言葉は私達に示しているでしょう。それは、神のことば、イエスのことばはその通りになった。神の言葉、イエスのことばは真実であると。復活のイエス、イースターは「神のことばの真実さ」を、私達に証ししています。私達は何を信じますか?何を拠り所としますか?目の前には確かなように思える物や言葉が沢山あります。しかしそれは確かでしょうか?人の言葉は確かでしょうか?聖書は弟子達のことばだけではありません。その社会では、表向き立派で信仰的な言葉をはっするパリサイ人や、律法学者の声が何度もありました。それは表向きは立派で信仰的でしたが、しかし、それは自分を示すための言葉であり、その同じ彼らが、妬みのゆえに、偽りの言葉で証言して、罪のないイエスを十字架にもつけました。人の確かさ、そのことばの確かさも、決して真実とはいえないものです。もちろん時に真実なときもあります。しかし決して完全ではない。いやむしろ、私達は表の部分しか見えないものです。その確かさは曖昧であり、確かではないでしょう。それは果てしなく厚い雲が広がる曇り空のようです。晴れるのか雨が降るのかわかりません。突然の雷になることもあります。それは、何かを拠り所としても、心の中は果てしない曇り空の心ですから、それは不安な心ではありませんか。しかし神は、「わたしのことばは真実である。そのとおりになる。力がある。死人さえもよみがえらせる事ができる。決して裏切らない。見捨てない。」と私達に示すのです。その一つの証しが、まさにこの御使いの言葉にあり、そしてこのイースターそのものにある恵みなのです。その真実なことばが私達に、すべての人に与えられている。それはこの聖書にほかなりません。イースターは、私達に、この真実な神のことばにいつでも聞くように、拠り所とするように、このことばに聞き、曇り空の上に晴れ渡る青空と太陽を見て、平安を得るように、私達を招いている恵みの時でもあるのです。


6.「イースターの伝える恵みA:イエスは今も生きている」

そして御使いの最初の言葉、「あなたがたは、なぜ生きている人を死人の中で捜すのですか?」。このことばはイースターのはっきりとした事実を私達に伝えています。それはイエスは生きているということです。このイースター、私達は死人や過去の人を記念し、信じ、祝うのではないのです。生きている人を、つまり、今も生きて存在され、そのみことばをもって働いてくださっているイエスを記念し、信じ、賛美し、祝っているということです。イエスは決して過去の人ではありません。確かに聖書に書かれているストーリーは過去のことです。十字架の復活も、歴史に起こった過去のことでしょう。しかし私達に与えられているのはイエスのいのちです。それが死んだ過去の人のいのちであるなら、私達に何の意味があるでしょう。私達も死んだものです。信仰に意味がありません。祈りに意味がありません。そのような意味のないいのち、信仰を、神は私達に与えているのではないのです。神はイエスを死からよみがえらせました。イエスは今も、生きて、私達のために働いているのです。死んだ人ではないのです。だから御使いは今も私達にいっているでしょう。

「あなたがたは、なぜ生きている人を死人の中で捜すのですか?」と。私達は救い主をどこにみていますか?過去のものにしてはいないでしょうか?今生きて、今、私達に語り、今、今日も、明日も、永久までも、生きて働いてくださる救い主イエスをみているでしょうか?捜しているでしょうか?求めているでしょうか?神はこのイースターの恵みを通して「過去」ではない。「今を」示しています。ぜひ私達はイエスを死人の中で捜すのではなく、よみがえって生きているイエスを見、捜し、たたき、求めようではありませんか?イエスは生きていて、今日この時、この瞬間にも、私達にみことばを通して働いてくださるお方なのです。ですから、生きているイエスのことばですから、聖書とか説教というのは、過去の書物から私達に語りかけていることばでは決してありません。今、生きているイエスが、聖書を通して、牧師の口を通して、そして洗礼、聖餐を通して、イエスが私達に与えてくださる、語ってくださる、働いてくださっている。今日も明日も、今生きているイエスが、古いものを過ぎ去らせてくださり、日々新しくしてくださる、新しい誕生を与えてくださる、新しいいのちで満たしてくださる。それがこの良き日であるイースターに私達が立ち返らされる信仰であり恵みではないでしょうか。ぜひ生きているイエスを信じ、そのイエスの言葉に信じ、信頼し、イエスのいのちに生かされていきたいのです。


7.「「私達が」ではなく「神が」の福音に生きる」

最後、8節で、女達はイエスのみことばを思い出したとあります。そしてそのことを使徒達に伝えますが、11節、使徒達はそれを信じませんでした。この事は示しています。私達は不完全であることをです。私達自身は決して信じる事も、神のことばを実現する事もできないものです。信仰も弱く、不信仰なものであるといえるでしょう。それが私達であり、すべての人の現実です。私達は神の前に無力で、神のために何もできません。しかしその弟子達をやがて、宣教に遣わし、助け、力を与え、導いて、用いたのは、彼らに後に与えられた生きているキリストの霊である聖霊と、そして、その生きているイエスの生けるみことばでした。弟子達は「神が全てを行なったのでありこれからも神がすべてをおこなう」という福音を信じ、その「神が全てを行なう」という福音に信頼し従って、歩み、宣教をしていきました。そしてその実は、彼らではない、父と子と聖霊の神が、みことばを通して、弟子達に結んだ実であったといえるでしょう。このイースターの良き日も、これからの日々も、私達は、ただ父と、その生きているイエスと、聖霊への、信仰をもって、不完全さ、弱さ、罪深さを、すべてイエスに負っていただきたい。イエスにあって、日々、ともに死に、ともに生かされたい。そしてその生きているイエス様とともに、その恵みにしっかりと取り囲まれながら、祈りつつ歩んでいきたいのです。復活のイエスの恵みを喜び、感謝しましょう。