2014年7月13日


「その母親を見てかわいそうに思い」
ルカによる福音書7章11〜17節
1.「はじめに」
 イエスと弟子達は、ナインという町を訪れます。カペナウムから南西に20マイルですから、だいたい34kmのところにある町になります。イエスの周りにはいつでも大勢の人が集まって来て、行くところについていきました(11節)。このナインへの道も大勢の人がついて行ったのですが、その町の入り口の門に入ろうと言うときの出来事です。

2.「一人息子を失ったやもめ」12節
「イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親に一人息子が、死んで担ぎ出されたところであった。町の人達が大勢その母親に付き添っていた。」
 やもめである一人の女性、その一人息子が死んで担ぎ出される光景に出くわしたのでした。彼女はやもめであり、一人息子を失ってしまいました。夫はすでにいません。死んでしまったのです。そのような中で一人息子と暮らしていました。二人だけの家族でした。母にとってはその子は唯一の家族であり、その子との生活とその子の存在は、まさに喜びであり楽しみであり望みでもあったのではないでしょうか?しかしその一人息子が死んだのです。彼女の悲しみと絶望感はいかほどのことでしょうか?第一列王記の17章では、預言者エリヤとエリヤを助けるやもめのことが書かれています。神がエリヤに行くべきところを示して、そこで一人のやもめがあなたを助けるといって示したやもめでした。その主が示したとおりに、彼女はその場所にいて、彼女は本当に預言者エリヤのために尽くしました。しかし彼女の大事な一人息子が死ぬのです。その時、彼女はエリヤに対して嘆いて叫びました。第一列王記17章16節
「彼女はエリヤに言った。「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」
 唯一の家族であり、ただ一人の愛する息子を亡くすと言うことの、やもめの苦しみ、絶望、主への嘆きがよく表われているのではないでしょうか。本当にそれは深い悲しみです。そして主に叫び嘆きたくなるほどのものになるのです。このナインのやもめも同じでしょう。そんな息子の葬儀、しかももう埋葬の直前に、イエス様は遭遇するのです。

3.「イエスはかわいそうにおもい」13節
「主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた。」
 主イエスは、その母親を見て「かわいそうに思い」「泣かなくてもよい」と言われました。何という幸いな事実がここから私達に伝えられているでしょうか?それは、神であるイエスはその母の思いに目を留められ「かわいそうに思った」のです。この「かわいそうに思う」と日本語にはありますが、英語訳ですと「compassion」(ESV)とあります。つまり「同情する」という意味です。そしてさらにギリシャ語ですと、「splagchnizomai」と言うことばで、それは「内蔵、はらわたが動かされる」と言うような表現。つまりそれはあまりにも悲しい状況で経験するような、内蔵がかき回されるような痛みのあるような深い悲しみです。私達は本当に深い悲しみ、心の痛みを覚える時、まさにそのような「悲しみの痛み」を経験するのではないでしょうか。大事な人を失った時、事故で、子をなくした親の悲痛な叫びと思いには、その「悲しみの痛み」が伝わってきました。それは震災のときもそうであったでしょう。そしてエリヤを助けたやもめも、子供を失った時、そうでした。悲しみの痛みです。イエスはその悲しみの痛みをまさに理解されたということを、この「かわいそうに思って」ということばは伝えています。主イエスは、天から世に来られ人となられた神です。しかしなんとその神である方が、この地上の一人のやもめの悲しみに、その痛みに目を留められた、そして「かわいそうに思われた」、イエスはその内蔵がよじれる程の深い悲しみの痛みを知って、受け止めて、まさにご自身がそれを経験しているかのように、同情されたのです。イエス、聖書が私達に伝える私達の救い主はそのようなお方なのです。エリヤのときも同じでした。エリヤに尽くしたやもめの大事な一人息子が死んだ時、エリヤ自身も「どうしてこのような悲しいことに」という叫びを神にぶつけて叫びました。「私の神、主よ。私を世話をしてくれたこのやもめにさえも災いを下して、彼女の子を死なせるのですか。」「この女に、子供を返してください」と(第一列王記17章20〜21節)。それに対して、主なる神は同じようにそのやもめを憐れまれ、その子を生き返らせ、お母さんに返したのでした。

4.「憐れみ、心配し、担い、運ばれる私達の神」(聖書の他の箇所から)
 聖書の伝える私達の神、救い主はそのような方であることを、今日、私達に伝えてくれています。私達もこの世、罪の世にあって生きていく中で、この痛い程の、内蔵がよじれる程の痛い悲しみを経験する者です。しかしそのような時、たとえ誰がその苦しみや痛みが知らなくても、主なる神はしっかりと知ってくださっている。同情してくださる。かわいそうに思ってくださり、まさにその痛みを自分のものとして苦しんでくださるのです。イエスは私達にとってそのような方ではありませんか?
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところにきなさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 マタイ11章28節
 とイエスは言われました。弟子のペテロもこうイエス様を指し示していっています。
「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下に謙りなさい。神がちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるからです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神に委ねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」第一ペテロ5章6〜7節
 神が私達の思い煩いを心配し、それを担ってくださる。これがペテロの救い主イエスについての証しであり、私達への信ずるべきイエス様を指し示しています。旧約聖書のイザヤ書でもこのような幸いなことばがあります。
「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれるときから選ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうして来たのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って救い出そう。」 イザヤ46章3〜4節
 聖書の神は、背負ってくださる方、運んでくださる方。それは生まれる前から、胎内にいる時から、この罪深いイスラエルの民も、そして罪深い私達も、それでもなお、神は私達が生まれる前から私達を、そして私達の悲しみの痛みまでも、担い、背負い、運んで、救い出してくださるお方であると約束してくださっています。フットプリント「足跡」という有名な詩もまさにこのように聖書のみことばから来ている「神を証しする詩」であることがわかります。

5.「罪にさえも」
 最後にもう一カ所、幸いなことばがあります。
「さて、私達のためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私達の信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私達の大祭司は、私達の弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私達と同じように、試みに会われたのです。ですから、私達は、憐れみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」 ヘブル4章14〜16節
 私達の主なる神様は、私達の弱さに同情してくださる。しかも幸いではありませんか。それは私達の罪の試みに至るまでです。罪は犯さなかったけれども罪の苦しみこそをまさに十字架で、私達の代わりに受けて経験してくださいました。この十字架こそ、私達の刺し通す罪の苦しみを悲しみを、まさに同情されたその実現ではありませんか。私達は、神は私たちのこの罪まではしてくれないと思うものです。むしろ神はただ罪を裁かれるためだけに来たのだと。皆さんはそう思っていないでしょうか。世の人はそう思うのです。神は私たちをただ裁かれるために来るのだと。だからアダムとエバのように隠れようとします。罪がないかのように隠そうとするのです。しかしそうではありません。アダムとエバのときも、神は「あなたはどこにいるのか?」と彼らを捜したでしょうか?そして、その時、人の未来の運命を告げる中にも「女の子孫のかかとによって悪魔の頭は砕かれる」とその時に最初の福音、すでに救いの約束を伝えてもいました(創世記3章15節)。神はまさにそのための約束の成就としてイエスを確かに送るでしょう。人は「神は裁くためにのみ来られる」と見るものです。確かに神の裁きはあります。しかしそれ以上に、イエスを私達に与えて下さった目的は、まさにこの同情ではありませんか?痛みを担うためであったでしょう。裁き、痛み、死から救うための神なのです、イザヤ53章にあるとおりです。ヨハネ3章17節でも、
「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
 とも言っています。「世が救われるため」です。イエスは、まさにこの息子の埋葬のところに来られたように、私達の罪の道である死の道、私達がただ罪ゆえに死んでおり、滅びの場に運ばれていくようなそのところに来られたといえるでしょう。そこでイエ様がされたのは「死からいのち」です。息子をよみがらせたのです。イエスが来られたのは、そしてイエスが私達の痛みを負われるのはまさにこのためです。私達を裁くためではない、私達をその死から救い、新しく生かすためです。救うためです。イエスは今日も私達を同情してくださり、私達の痛みを、それが罪の痛みであっても全て担ってくださり、背負ってくださり、そして救いってくださるのです。「泣かなくてよい」といい。そして、「あなたの罪は赦されている。安心していきなさい」と宣言してです。主の同情、その思いの完全な現われである主の十字架はなんと幸いでしょうか。

6.「権威あるみことばによって」
 最後に、幸いがあります。主イエスはその一人息子に手をおいて「青年よ。あなたに言う。起きなさい」と言われました。まさにこの福音書で一貫していること。権威あることばです。その権威あるイエス様のみことばは、その一人息子を確かに生き返らせ、口にことばを与え、立たせ、母親の元に帰したのでした。イエスの内蔵がよじれるほどのこの同情が、このようにイエス様はみことばをもって、この親子に幸いな事実をもたらしました。救いでありいのちであり喜びです。みことばが全てであることがやはり聖書の一貫して私達に伝えていることでしょう。みことばこそイエスの思いを私達に届け、実現する恵み手段であり、私達に与えられている、私達にとって最も大事なものです。イエスのあわれみも、愛も、同情も、救いも、イエスの思い約束のすべて、何よりこの十字架の罪の赦しも復活の新しいいのちも、このみことばをとおしてこそ、私達のところ届き私達のものとなることを見失ってはいけません。だからこそ、教会の中心、クリスチャンの中心、救いの生活、良い行い、奉仕も隣人愛も、すべてみことばの説教に聞くことであるのです。先週の箇所の隊長の「おことばをください」(ルカ7:7)そして、イエスがマリヤをさし「本当に必要な良いことを選んだ」(ルカ10:42)ということにあるとおりです。このようにみことばがイエスのいのちの恵みを私達に届け私たちはキリストのみことばのゆえに新しい歩みがあるのです。ですから、イエスが語ってくださるみことばの説教に聞き受けとることなしにして、そしてそこからくる救いの確信と平安と喜びと感謝から溢れ出て来る自由なくして、どんな奇麗事も、どんな熱狂的な伝道も、それは人の熱心、人のわざ、人の結ぶ実です。上手く行けば自己満足となり、上手く行かなければ裁き合いが必ず生まれて水を濁し終わりです。イエスのみことばこそ、その神の同情を私達に悟らせ、そしてその神の約束の実現もみことばをとおしてこそ私達に実現することを、ぜひ信じて、そこに立っていきましょう。今日もそのために集められ、イエスのみことばに聞くことができることは何と幸いでしょうか?この世には数多くのイエス以外の拠り所や同情のことばも溢れていますし、そちらの方が見るに慕わしい食べるのに良い木の実に見えるかもしれません。しかし今日も、イエスは、その生ける力あるみことばをとおしてご自身の愛と、その実現を私達に届けてくださっています。裁きではなく救いを「死から生」を与え、「棺の中の死んだような生き方から、みことばによって遣わされていく全く新しい生き方へ」と導くために、イエスが、みことばと聖霊によって、今週もかならず、そのことをなしてくださるのです。 

7.「むすび」
 ぜひその幸いを、感謝を、このみことばから確信し、イエスを讃美しようではありませんか。そして今週もどこまでもみことばが指し示す、十字架と復活のイエスをまっすぐと見上げて目を離さないで、私達がそれぞれ召されて使わされている、家庭、社会、教会の、それぞれの召しの場を覚え感謝して、イエスに祈りつつ、イエスを信じつつ、恵みの御座にあって、神を愛し、隣人を愛し、その与えられている召しに歩んでいこうではありませんか。