2014年8月31日


「良い地に落ちた種」
ルカによる福音書8章4〜18節
1.「イエスが説き明かすのでなければ」
 イエスは最初この喩えを群衆に話していましたが、その譬えの意味は弟子達に話しています(9節)。むしろ弟子達の方から「どういう意味ですか」と尋ねているのです。ここに第一のメッセージがあります。それは人、私達は、神の啓示、神のことば、福音を、自らでは決して理解することができないということです。イエスは「彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らない」(10)と言っています。これは弟子達も意味を尋ねているわけですから彼らも見えなかったし悟ることができなかったのです。それに対しイエスは「あなたがたには神の国の奥義を知ることが許されています」(10)と言ってその意味を語るので、弟子達は意味を知るのです。このように私達自身では解らない。理解できない。しかし御言葉の真理、意味は、神からの働きによって、神から与えられてこそ、そのみことば、福音の真理が分るのです。みことば、そしてそれを聞く、知る、分るということはそういうことです。イエスご自身と聖霊の説き明かしがあってこそ、御言葉、福音の意味がわかり、理解が与えられるのです。ですからそのためにイエスが教会の始めから定めておられた、この礼拝と説教の時は、説教者を用いてイエスが説き明かしている幸いな時であるのです。それに対して、現代の風潮として、各々が御言葉を読んで「感じるままでいい」というが大事なんというような勧めを聞くことがあります。けれどもそれは、ある意味、今日の所で言ったら、9〜18節までのイエスの説き明かしがすっぽりと抜けてしまっているようなものです。説き明かしがないのです。各々感じるままの理解や解釈で終わって満足してしまっているということです。これはどうでしょうか?これは結局そう「感じる自分」が中心となり解釈者となっていることになります。そうなるとその聖書の箇所にはイエスの一つの正しい真理があるのではなく、100人いれば100通りの解釈と真理があるということになります。これはまずいことです。それはまさに「見ていても見えず、聞いていても悟らない、分っているようで分っていない」そのような状態のままです。だからこそイエスからの説き明かしが必要であるということです。そして聖書が何を伝えているかをまっすぐを伝える、正しい説き明かしこそが礼拝にとって、私達にとってどれだけ重要なことなのか、さらには、その正しいみことばの説き明かしの育成のための神学校の働きも如何に重要なのかと教えられるのです。

2.「種は神のことば」
「この喩えの意味はこうです。種は神のことばです」(11)
 種は「神のことば」を指している。前提となるのは、落ちる場所が違いますがいずれも蒔く人は同じ人であり、種も皆同じ変わらないということです。つまり種が悪いから、あるいは蒔く人が悪いからという問題ではありません。人は蒔く人のせいにしたり、種のせいにしたりしやすいのですが、そうではありません。もちろん御言葉と言うなら語る人はそれぞれ違います。しかしイエスがその人を通して語っているのですから、やはりイエスが蒔いているわけです。何よりその蒔かれる種、御言葉は、変わることのない神のことばです。そして「蒔かれる」ということも大事です。それは蒔かれるのです。そしてそれはイエスから、つまり天から、神からです。しかもその種を、イエスは多くの実を結ぶものとして語っていることも重要です。御言葉が天から与えられ、それは必ず実を結ぶものであるということがこの譬えの中心であり約束です。こう見る時に、種そのものに問題があるのではない、むしろ天から私達に豊かな実りが必ずあるものを蒔かれ、与えられ、語られているということが分かります。しかし、その種が実を結んで行かない三つの場所をイエスは伝えます。イエスはこのこのことを通して、私達の人間の心のことを言っています。そしてこれは心理テストのように、自分はこのタイプでこれではないということを伝えているのではなく、誰もが「見ていても見えず、聞いていても聞こえない」のですから、誰もが神からの説き明かしがなければ、自ら御言葉に対して悟りがないものなのですから、いずれも誰にでも、どの信仰者にも起こることとしてイエスは語っているのです。

3.「道ばた、岩、荊」
A, 「道ばたに落ちた種」
 種は「道ばた」に落ちました(5)。しかしそれは人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまったというのです。これをイエスはこう説明します。
「道ばたに落ちるとは、こういう人達のことです。みことばは聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人達の心から、みことばを持ち去ってしまうのです。」(12節)
 「人が踏みつける」と言う言葉はルカだけの表現ですが、道は「人の流れ」です。聞きはするけれども、その人の営み、心、自我によって御言葉が無視され、拒絶されてしまう。つまり御言葉より、神が何を伝えているかよりも、人がどうだ、誰がどうだ、私はこうだによって、まさに「見ていても見ない。聞いていても聞かない」心です。私自身、経験あることですが、クリスチャン生活や教会生活で「あの人がどうだこうだ、あの人がこうだから、こうなった、こうなんだ、あるいは、この人が?をしてれる、してくれないのはどうしてなんだ」等等、そのような事に目、期待、裁きが向いていると、まず御言葉はそっちのけになってしまうことが実に多くなります。御言葉を聞いても、その思いの方が優先され、気になってしまうので、御言葉で語られたことも都合の悪いことは煙たくもなって、忘れたり、排除したりしてしまうのです。御言葉を聞いても、「そうは言っても、現実は?」、それが口癖になります。まさに人の自我によって踏みつけられている種です。それは実を結ぶはずがありません。そしてそれは悪魔の攻撃、誘惑、働きであるともイエスはいうのです。悪魔の働きは、御言葉を私達の心から持ち去ってしまうこと、あるいは、そのように私達の心に御言葉をそっちのけにさせて、人の流れに踏みつけられ実を結ばなくさせることです。御言葉がそっちのけになれば、信仰を生み、支え、強める御言葉がないのですから、まさにここにあるように信仰を失い救われなくなってしまうことになります。悪魔はそのために御言葉を私達の心から摘むのだということをイエスは私達に伝えています。
B, 「岩に落ちた種」
 種は岩の上に落ちます。それは芽が生え出てきますが水分がなかったので枯れたと群衆に話しました。弟子達にはこう説き明かします。
「岩の上に落ちるとは、こういう人達のことです。聞いた時には喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練の時になると、身を引いてしまうのです。」(13節)
 最初は喜んで受け入れるが試練の時になると身を引いてしまう。それは根がないからといいます。岩の上では根を張るのは困難です。種が根を張るとは?根は土の中に張っていきます。それは表には見えないものです。しかし種の殻をやぶって、土の中をゆっくりと進んで成長して行きます。それは地上で日の光に向かって目が生き生きと伸びていくのとは違う、見えない地味で大変なことです。しかし根がなければ成長はないでしょうし、それは植物の死です。根がしっかりと張るからこそ、その植物の強さも決まります。ここではその根を張ることとは、試練のために重要であることを伝えていますが、それは成長も何より実を結ぶことは、試練があってこそという意味が込められています。聖書では、信仰者、クリスチャンの場合、試練が必ずあることを伝えていますが、しかしその試練があってこそ成長し、実を結ぶことがどれだけ多く記されているでしょう。アブラハムしかり、ヤコブしかり、ダビデしかりです。そして何よりイエスの十字架は死と言う最大の試練を通して与える新しいいのちでしょう。まさに試練を通して実を結んだ最高の実が十字架でもあります。しかし最近は、繁栄の神学ということばがよく出てきます。それは一種のご利益信仰に似たようなもので「教会で?すれば、信じれば、奉仕すれば、捧げれば、良い行いをすれば、繁栄する、成功する、癒される、結婚できる、商売や仕事が上手く行く、自分がもっと魅力的になれる、美しくなれる」等等、アピールします。逆に、罪とか十字架とか悔い改めとか試練、苦しみとかは、ネガティブで、セルフイメージを下げマイナスにすることだからと、触れない、語らない、脇に置くのです。けれども聖書の教えや信仰の歩みは試練を抜きにして語ることは不可能です。むしろ信仰生活は試練の中にこそ神の恵みと祝福があるというのが福音のメッセージではありませんか?ヤコブは罪深く最後まで試練の連続でした。ラバンとの確執はもちろんですが、愛する子ヨセフを失った悲しみは長かったです。老いて再会はしますが、その間には、自分の罪との葛藤が当然あったでしょう。息子達との確執もありました。まさに試練の生涯でした。しかしその試練の人生のなかでこそ、神はその信仰を養い、育て、恵みの神への信頼と信仰の告白というまさに実がヤコブを通して結ばれて来たのではないでしょうか。ダビデも試練の生涯でした。彼の繁栄と栄光よりも、試練の連続の生涯でした。サウルから追われる長い年月、王になっても、息子達の罪と死、自分の罪による家庭の不和や崩壊。しかし彼もその苦しみの生涯、試練と悔い改めの中でこそ、神の恵みと赦しを知り、信仰告白と言う実があったのではないでしょうか。その試練から悔い改めに導かれたからこそあの沢山の詩篇がありました。むしろダビデよりも黄金のエルサレムの繁栄を築いたのはソロモンでしたが、そのソロモンは主から逸れて行き分裂の端緒となりました。聖書は栄光の神学、繁栄の神学ではなく、まさに人の罪、人生の苦難、試練の現実の中にあって、神のあわれみ、罪の赦しが与えられ、忍耐が養われ、神の助け、導きのなかにあって、信仰告白とその信仰の歩みと言う実を約束するものです。そして試練や苦難の中にこそ、信仰者の祝福があり、そこに天、神の国があることを伝えるものではないでしょうか?この十字架はまさにその実現であり私達の見上げる光です。これはイエスの苦難と死に私達のいのちと祝福があることの実現です。イエスの苦しみと死によってこそ、私達に罪の赦しと永遠のいのちがあることこそ聖書の福音ではありませんか。そのイエスの苦難と試練である、十字架と復活によって、私達も日々、死に新しくされるのがクリスチャン生活だとパウロも言っているとおりです(ローマ6章4節、ガラテヤ2章20節)。根がなく上辺だけの華やかさだけのみことばの聞き方は、試練にあっては打ち勝つ強さはありません。繁栄の神学で多くの人は洗礼を受けるけれども、宣伝のように繁栄せず、試練にあうとすぐ信仰を捨て離れて行く人も実に多いとも言われています。そうではなく正しい罪の赦しの福音がしっかり根を張るからこそ、風が吹いても逆境があっても、御言葉にあって強く成長し、打ち勝って行き、実を結んで行く、健全な信仰が育つことをイエスは伝えているのではないでしょうか。
C, 「荊のなかに落ちた種」
 種は荊の真ん中におちます。しかし荊も一緒に生えて成長を押し塞いでしまったというのです。イエスはこう説き明かします。
「いばらの中に落ちるとは、こういう人達のことです。みことばは聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心遣いや、富や、快楽にって塞がれて、実が熟するまでにならないのです。」(14節)
 この世の心遣いというのは、英語では「worry、心配する」が使われています。この世の心配、富、快楽が成長の邪魔をするとイエスはいいます。御言葉は聞きはするが「とかくするうちに」とあります。つまり知らず知らずに流されてしまう。これはよくあることです。本当にこの優先順位が、御言葉から、世の心配、富、快楽に向いてしまうというのは人間の性質であり、私達自身、本当に無力であることを思わされますし、祈らずして信仰生活はないことを何より思わされるのですが、そのように「とかくするうちに」荊に塞がれてしまうことに気づかないでは、福音の理解が弱いままであり、それは何より実が熟して行かない。つまり本当の良い行い、良いわざである、「信仰による行い」になっていかないというのです。むしろ世のものごとで終始してしまう。左右される。ルターは信仰から出ていない行いは、すべて罪であるとも言っています。そうでしょう。結局は、どんなに表向きは良い行いであっても、信仰がないなら「自分による自分のための業」に過ぎないからです。その信仰による実が熟して行かないなら、それはやはり「見ていても見えず、聞いていても悟らない」と同じだというのです。もちろん富やこの世のこともすべて神から与えられるものです。しかしその『神から』ということこそを人は見失いやすいものです。その「神から」を見失うことと、「とかくするうちに荊に塞がれてしまう」こととは同時に起こるものです。私達の信仰も「神から」の賜物、恵みです。私達が信仰の行ない、御言葉の実を結ぶのは、この神からの恵みのゆえです。それを見失えば、世の心配、富、快楽に心を奪われ、実は熟さない。本当の良い行いである信仰による行いにはなってはいかない。そのことが教えられているのではないでしょうか。

3.「良い地に落ちた種」
 ではこの三つのケースに対して最後のケースが私達に伝えることです。
「しかし、良い地に落ちるとは、こういう人達のことです。正しい、良い心で御言葉を聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」(15節)
 ここで重大な誤解に陥ってはいけません。「正しい、良い心で聞く」?ーそれは私達自身にあるのでしょうか?私達は「見てはいても見えず、聞いていても悟らない」ものではありませんか?弟子達でさえもそうでした。説き明かしがなければ分らないものです。そして私達自身の心は、道であり、岩であり、荊であり、私達自身では、決して種から根を張らせ、芽を出させ、成長させ、実を結ばせることはできないと見て来ました。「正しい、良い心」それは私達には本来無いものです。この箇所が「私達が私たちにある、隠れている「正しい、良い心」を捜し出し、振り絞って、聞きなさい」と教えているのであるなら聖書は矛盾しますし、むしろキリストもその十字架も必要ありません。私達は自分たちで聖書を悟り、自分たちで正しい心を持ち、義を行ない、自分たちで救うことができることになります。しかしそうではないでしょう。イエスはまさに天から罪深い私達の間に来られました。そしてみことばを、十字架を、聖霊を、そして信仰を私達に与えることによって新しいいのちを得させてくださったのではありませんか。「正しい、良い心」もそうです。英語では「HONEST AND GOOD HEART」とあります。神の前に正直な良い心。旧約聖書では「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたはそれを蔑まれません」(詩篇51:17)とダビデは歌っています。イザヤ書でも神様は「わたしは?心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(イザヤ57:15)とも伝えています。神の前にあって正しい正直な良い心がどのようなものか分るのではないでしょうか?むしろイエスは私達は皆「見てはいても見えず、聞いていても悟らない」とはっきりと言っています。そして弟子達も分らなかった。その分らない弟子達に「あなたがたは知ることが許されている」と言って、イエスが説き明かすことによって始めて分る弟子達を見てきました。ですからむしろ「私達は分っている」「正しい心がある」「良い心がある」ということこそ、神の前にあって正直ではない心となるのではないでしょうか?ダビデも、試練にあって、自分の罪にあって、まさに神の御言葉によって自分の罪を示されて、心砕かれ、へりくだる心が与えられました。イザヤを通して言葉を受けとった主の民も、自分たちの偶像礼拝、罪の限りを尽くしてきて神の怒りの中にあったときに、イザヤや預言者達のことばを通して教えられ、砕かれた、悔いた心へ導かれます。正しい、良い心で聞くことは恵みです。与えられている信仰はそのための耳です。そのようにして、私達が「自分が正しい」とあくまでも強がり言い続ける心とは決して違う、むしろ自分たちがあくまでもみことばによって示されるままの、罪と悔い改め、へりくだった悔いた心のままで聞くことが、正しい良い心だということです。そのように「自分は罪深い、神様ごめんなさい」、その心でむしろいいのです。その心で聞くからこそ、イエス様の恵みを知り、十字架と復活の福音が自分のためであるとそのまま受けとることができる。ある意味、その正しい心で聞くとは、そのような悔いた心で、そのままイエス、みことば、聖餐をただ受けとることだと言ってもいいでしょう。それが前の、道、岩、荊とは違う、良い地に落ちるということの私達に伝えることなのです。

4.「おわりに」
 実を結ぶというこは大事なことです。私達が世にあって、信仰による、本当の良い行いをして行くことこそ、神の御心であり、この喩えを話された目的です。しかしそれは、正しく良い心で、みことばを聞くことがなければ、いくら、表向きは、理性やわざで善いことをしていたとしても、神の前にあっては実を結んで熟しているとはいえません。しかし神が御言葉と聖霊を通して与えて下さって信仰によって導かれる、へりくだった悔いた心、罪を示され、私はあなたの前で罪深い一人ですという、その正直な心で、聞くことによって、私達の目は開かれ、イエスの福音が本当に私達の理解となり、聖霊によって実となって行くのです。その心で、イエスを受けること、御言葉を聞くこと、聖餐をそのまま受けること、その時、「わたしにとどまるなら、多くの実を結びます」とイエスが約束された通りに、イエスが私達に豊かな実を結んでくださることでしょう。これは約束です。信じて受ける時に、私達の思いや期待をはるかに越えて、必ず実現して行くことなのです。祈りつつ、この約束のうちに信仰の道を歩んで行きましょう。