2014年9月21日


「わたしのところにきなさい」
マタイによる福音書11章28〜30節

1.「はじめに」
 私達の日々の歩みは、嵐の中で、強い風や大波に翻弄され沈みそうになる舟のように様々な問題や試練、苦しみに直面されせられ、重い荷を背負って歩んで行くものです。けれども、その心の重荷を、半分だけとは言わずに、全てを下ろすことができる。あるいは、誰かが全て背負ってくれるのであるなら、そのような方がいるならなんと幸いなことでしょう。

2.「わたしを休ませるため、救うために」
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」28節
 イエスは「疲れた人、重荷を負っている人は」と言っています。そして「疲れた人、重荷を負っている人は」「わたしのところにきなさい」そう言って、「わたしが休ませてあげます」と続いています。まずこの言葉の通り、救いの神であるイエスは「疲れた人、重荷を負っている人」に本当に心をさき、理解し、心配し、その人を受け入れ、助けよう、休ませよう、救おうとしておられることがわかります。決してその逆ではありません。つまり「疲れた人」にさらに鞭打ったり、あるいは「重荷を負っている人」に更に重荷を加えたりは決してしない。イエスはそのようなことのために来たのでは決してありません。むしろ聖書は救い主であるイエスを私達に指し示して証ししています。イエスは「疲れている人、重荷を負ってる人」のために来られたと。イエスは「罪人」と呼ばれ世の中から蔑まれ、誰も話しかけないし手もさしのべたないような人の所へとイエス様の方からきました。そしてその人たちを裁くのでも責めるのでもない、イエスは彼らに優しく語りかけ、手を差し伸べ、一緒に食事をし、悔い改めを教えて、友となられた。そのようなイエスであることを福音書は沢山伝えています。まさに救い主イエスは「疲れた人、重荷を負ってる人へ」でした。そして変わることなく言うのです。「わたしのところへ来なさい」と。聖書が伝える私達の救い主イエスは、そのようなお方なのです。そして、同じように私達をも今、招いているということです。「わたしのところへきなさい」「あなたをわたしが休ませてあげます」と。皆さん。疲れていませんか?心に重い重い荷物を持って、背負って歩んでいませんか?それはそれぞれが皆、違うものでしょう。しかし、必ず皆、疲れを覚えます。誰でも重荷を背負って日々生きているはずです。誰もが、生きて行く時に、嵐が台風のようになったり、大波のようになって、舟の上に水がかぶって来て沈みそうになることを経験することだと思うのです。私達の現実は、みな罪深い一人一人であり、そして相手もみな罪人である、罪の世です。家庭も、職場も、学校も、友人関係も、政府も、教会も、皆、罪人の集まりです。そのような中で、様々な問題を抱える私達です。自分自身のことにも直面させられ、私達は自分の罪深さに苦しみどうすることもできないこともあるものです。いや聖書ではそれが人間にとって一番深刻で重い、重荷であるとも言っています。「疲れている人、重荷を負っている人」ーそれは今日の、私達一人一人にも語り掛けられているのです。そして、イエス様は今日もそんな私達一人一人に「わたしのところへきなさい」と言って語りかけている。「あなたをわたしが休ませて上げます」そう私達に、私のために、語りかけて、招き、約束してくださっている。その声がこの言葉なのです。ぜひ「私のため」の言葉として受け止めてほしいのです。

3.「聖書が私達に証しする救い主」
 イエスは確かにそのような「休ませてくださる」お方であるということを聖書は伝えています。イエスは別の所でもこう言っています。
「わたしは門です。誰でも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」 ヨハネ10章9節
 11節では「わたしは良い牧者です」ともいっているのですが、このところはご自身を羊飼い、そして私達は羊に例えて話していることです。ここでイエスは、まさに私達が羊飼いのもとにある羊のように、「安らかに出入りし、牧草を見つける」ようにしてくださる方であることを伝えています。「安らかにさせる」ということです。そしてイエスの弟子のリーダー、ペテロという人は、実際に苦しみ、疲れ、重荷を負っている教会の人々に対してこう言って励ましています。
「あなたがたの思い煩いを、いっさい神に委ねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」 第一ペテロ5章7節
 なんと神が思い煩いを、一切、負って下さるというのです。そして神は私達のことを心配してくださっているとも。そして更に幸いなことばがあります。
「わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時から担われており、生まれる前から運ばれた者よ。あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたが白髪になってもわたしは背負う。わたしはそうして来たのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って救い出そう。」 イザヤ書46章3〜4節
 旧約の時代、バビロンへ捕囚されたユダの民に対しての神からの励ましの言葉です。ユダの民が捕囚されたのは神に反抗して、神ではない偶像を礼拝したためでした。しかしそれでも神はそのような罪深い民に対してこのことばを与えているのです。1〜2節では、そのように他の神々はあなたがたを背負うどころかあなたがたを背負えないし、むしろあなたの重荷になっただけではないかと言い、けれども「わたしは、あなたがたを始めから背負って来て、これからも背負おう。運ぼう。あなたがたが年をとっても、白髪頭になっても、わたしはあなたがたのためにそれをできる、重荷を下ろせる。それをわたしはあなたがたのためにしよう」そう言われたのでした。神の平安を与える約束に他なりません。皆さん、神はどこまでもこのような方なのです。そして大事なことは、私達一人一人にも今日も同じように語る掛けているということです。「わたしのところへきなさい。わたしがあなたがたを休ませて上げます。」「わたしがあなたを背負おう」と。本当の神、救い主であるイエスは今も助けてくださいます。今も背負ってくださいます。今も休ませてくださいます。その変わることのない神の約束をぜひ「わたしのためである」とここに聞いて、ハレルヤと言おうではありませんか。

4.「その資格を問われているのか?」
 しかしです。ある人々は心配するのです。「そのようにイエス様の所へ来るのに自分に資格があるのかどうか」と。そして「もっと知識が増えたら来る。立派になったら来る。完全になったら来る。この罪を克服できたら来る。まずそうしてから洗礼を受けます。イエスの所へ来ます」と。良く聞くのです。けれども、はたしてそのような資格をイエスはここで教えているでしょうか?このところは実は、その前25節からの話しの一部なのですが25節ではこう言っています。
「その時、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめ讃えます。これらのことを賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。」
 ここで「賢い者や知恵のある者には隠し」そして「幼子達にあらわしてくださいました」とあります。この「幼子たち」というのは、ここでは弟子達のことを指しています。しかしここでイエスが弟子達を指して「幼子たち」というのは意味があります。それはまさに弟子達が幼子のように無力で、そして幼子のように、父や母の助けがなければなにもできない、助けがいつでも必要であり、助けがあって成長できる存在だったということです。事実、弟子達がそのような存在であることをイエスはよく知っていました。イエスの弟子といっても、彼らは決して聖人ではありません。彼らは立派だから選ばれて、立派になってからついて行ったのではありませんでした。まして賢い知恵のある人々でもなかったのです。聖書ははっきりと記録しています。それは彼らは罪深い一人一人であり、弱い不完全な者達であったということです。ですから「幼子」というのは、純粋で無力な罪人の姿なのです。お父さんお母さんの助けと愛がなければ生きて行けない、成長しない、実を結んで行かない、神の前での無力さ、罪深さのまさに象徴です。けれどもこの25節、その「幼子達にこそ」神の救いは現わされたとイエスは神に感謝しているでしょう。むしろ「賢い人、知恵のある人々」は、そのことを分らないばかりか拒む現実をもイエスは示しています。事実、イエスが来た時、そのような自分は立派であり、理性的であると自負している人々は、神の前に自分が幼子であるとは思えませんでした。神の前に罪人であることなどわかりませんでした。そのようなことは愚かなたわごとのように思えたのです。そのようにして多くの知恵のある人、賢い人々はバプテスマのヨハネの悔い改めも、イエスの福音も罪の赦しも必要ないと拒んだのでした。「隠されている」というのはその現実を伝えているのです。ですから「賢くなってから、知恵をもっと得てから」というある意味「資格を得てから」ということこそ、むしろ自ら目を閉ざしてしまっていることをイエスは教えています。そしてそうではない。「来るのに資格はまったく必要ない」ということこそをイエスはここで示しているのです。弟子達は資格があったのではない、まさに幼子のままでイエスにそのまま来た。そのことをイエスは讃美しています。そしてそれが「疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところへ来なさい」につながっているでしょう。まさに大事なのは、幼子がお父さんお母さんにだっこし、しっかりとしがみついてはなれないように、信頼しきることです。幼子がお父さんお母さんにだっこしてもらうのに資格がありますか?資格を問いますか?ただ愛してくれるお父さんお母さんに身を任せきるだけのことでしょう。お父さんお母さんもただその子を愛するがゆえだけのことでしょう。資格がありますか?イエスは幼子のように自分のところに来ることを神に感謝し讃美しています。ですから資格は必要ないのです。どんなに罪深くてもいい、どんなにその疲れがたとえ自分のせいであってもいい、重荷がどんなに重くとも、それが自分が招いたことであってもいい、その罪深い自分を認め、そのまま、疲れたまま、重荷を負ったままで、イエスのところへ来ればそれでいいのです。そしてイエスがその時、半分ではない、全てを背負ってくださるのですから、イエスに全てを背負っていただき、お任せする。委ねる。信頼することができる。その時に「荷」はイエスにあるのですから、休むことができる。本当の心の安心、平安がイエスのゆえに満ちて来るのです。その約束なのです。資格は必要ありません。「わたしのところにきなさい。わたしがあなたがたを休ませて上げます」その声にそのまま答えようではありませんか。

5.「わたしのくびきを負って」
 最後はそこから始まる全く新しい歩みです。イエスは「わたしのくびき」を負ってこれからは歩んで行きなさいと言っています。「くびき」というのは牛などの動物二頭の首に、交互に掛けてつなぐ木製の道具のことです。それを「負って」とありますから何か今までと矛盾するようにも思うかもしれません。くびきは重いではないかと。しかしここでは「わたしのくびき」とあることが大事なことです。イエスはいいます。「わたしのくびきは負いやすく、荷が軽い」と。さらには「安らぎがきます」と。ですから、それまでの一般的なくびきとは違う「特別なくびき」を伝えているとわかるのです。本来のくびきは二匹で重い物を運んだり辛いのです。イエスはその本来のくびきのことを「律法のくびき」として指しています。「律法」というのは「私達がしなければいけない」事ですから、「律法のくびき」というのは「私がしなければいけない」くびきです。それは確かに重いです。疲れます。決して負いやすくも、荷が軽くもありません。しかしイエスの言う「わたしのくびき」というのは「福音のくびき」です。福音といういのは「神が、イエスがすべてをしてくださった。」という意味です。ですからイエスの言う「わたしのくびき」は「律法のくびき」とは全く逆です。「私達がすべてしなければならない」くびきではなく「神が全てをしてくださった。してくださる」のくびきなのですから。全く逆です。では皆さんはどちらが軽く負いやすいと思うでしょうか?答えは簡単です。イエスのくびき、「福音のくびき」ではないでしょうか。イエスはその「わたしのくびき」を負ってこれからは生きなさいと言って招いているのです。それはこれまでと矛盾するどころか一致するでしょう。今日はイエスが全てを負い、全てを背負ってくださると見てきました。福音のくびきはまさにその通りであり、イエスが一緒にくびきを負ってくださり、むしろ私達は小さな幼子であり、親子でそのくびきを負っているのですが、イエスが私達の全てを負い、背負い、引っぱり、導いてくださるからこそ荷は軽い、負いやすい、そればかりか安らぎが来るのです。ですからその福音のくびきにあるなら、それはイエスのくびきなのですから、私達はただ隣にいるイエスに幼子のように信頼し任せるだけで良い、そして信頼して導かれるまま歩んで行くだけで良い。それがイエスと始まる新しい歩み、信仰の歩みの本当の幸いです。そしてこの「イエスのくびき」によって新しく生きて行くことはもっと素晴らしいことがわかります。それは、一緒のくびきにあるのですから、イエスがしたことが私達のしたことにもなるということです。イエスと同じくびきで何を運んでいるとします。それはイエスが負って導くのですが、同じくびきですから隣にいて同じくびきにつながれている者がしたことにもなるでしょう。皆さん、クリスチャンの信仰生活と良い行いは、このイエスと一緒のくびきを負って生きるということにも良く現れているのです。私達はイエスに信頼して、イエスと一緒のくびきにあってこそ、イエスがする本当の良い行いが私達のしたことになる。つまり、イエスが私達を通して良い行いをしてくださるということです。それはイエスがしたことが、私達のしたことになり、私達が信仰によってした良い行いは、イエスがしたことだということです。そしてその信仰による本当の良い行いは、イエスのくびきにあるのですから、重荷とはなりえないし、律法にもなり得ません。自分も誇らないし、見返りも望みません。当然、裁き合いも何もありえない、本当のイエスの愛の業が私達に起こるということを、このイエスのいう「わたしのくびき」は私達に約束しています。ルターはキリストのくびきは軽く、甘い(sweet)という表現を使っています。イエスのくびきによって罪が赦され、良心が重荷と、罪の刺から解放される時、クリスチャンにとっては全ては、苦難さえも、甘く楽しいので、そこには喜んで全てのことをし、喜んで忍耐して行くことができるのだと教えています。それがイエスのくびきを負って生きる、甘く楽しい、安らかな新しい歩みの素晴らしさなのです。

6.「むすび」
 ぜひ何も資格は必要ありません。イエスは疲れて重荷を負っている私達にそのまま来なさい、そのまま任せなさい。そのまま私のくびきを負い私に全てを信頼し委ねなさいと今日も私達を招いています。その時に必ず魂に安らぎが来ると。ぜひそのままイエスの所に行こうではありませんか。これまでの重いくびきを下ろして全く新しいイエスのくびきを負って新しい歩みを始めましょう。