2014年12月14日


「ただ、神によって生まれた!」
ヨハネの福音書 1章9〜13節

1.「全ての人」

「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(9節)

 この御言葉は、その方、救い主イエスは「すべての人を照らすまことの光」であると伝えています。まず「全ての人」とあります。その「全て」とはどこまででしょうか?ユダヤ人、イスラエル人だけでしょうか?キリスト教徒とだけでしょうか?そうではありません。これは文字通り「すべての人」です。3節を見ますとそこにも「すべてのものは、この方によって造られた」と、「すべて」とあります。その「すべて」は、天地創造のことを指しているでしょう。万物、すべての人です。ですからこの「全ての人」というのは、まさに誰一人漏れる事も、例外もない「全ての人」です。選びの民のイスラエルだけでもない。あるいは、世の人々や社会がそれぞれの価値観や正義で、良い悪い、救われる救われないと評価したり判断したりする、そのような世の制限も全く関係ない、まさに「すべての人」のことであるということです。その「すべての人を照らすまことの光がこられた」のです。実にその通りに聖書の中の福音書のクリスマスストーリーは伝えているでしょう。この救い主の知らせは、星を通してではありましたが東の博士に伝えられました。彼らは、東方、つまり、異教の異邦人の国、今のペルシャ地方、その国の博士、あるいは賢者とか、占星術師だとかいわれますが、そのような彼らが礼拝者として招かれ、聖書に記されているのです。また思い出すのが、野で夜番をしていた羊飼い達です。羊飼いは、最も身分の低い、貧しい、3Kの仕事をする人々でしたが、しかしそんな彼らにこの最初のクリスマスの祝いの特権が与えられたでしょう。御遣いは彼らにその知らせを伝えました。「あなたがたのための救い主が生まれた」と。そして御遣いは彼らの前で喜びを讃美したでしょう。そしてその生まれ大人になった救い主イエスはご存知の通り、世が蔑み、退けるような取税人達や罪人達とともに食事をし、「ここに救いが来た」「医者を必要とするのは病人です。私は罪人を悔い改めさせるために来た」といって、そんな彼らにまさに救いの光を輝かせたではありませんか。

 まさにその通り「全ての人」です。誰一人例外はありません。除外されません。私たちがどんなものであっても、どんなに罪に打ちひしがれて、自分が神の前にふさわしくないものだと思っても、しかし主はそのようなあなたのために、わたしたちのために、あなたを、私たちを照らすために、来られた救い主、まことの光なのです。


2.「私たち人間の姿」

 しかしです。その「救い」というのは、私たちのわざや力ではできない、ありえないことなんだとこの福音書の記者、使徒ヨハネは続けています。10節。

A, 「知らなかった」

「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」(10節)

 まず書かれています。「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られた」と。それは1章1〜3節で見て来たことです。全てのものはこの方から生まれた。この方がすべて、この世、私たちの初めであったと。しかしこう続いています。その世界、そのすべての人は、この方を知らなかったと。知らないのです。ですから前回の「指し示し、この方こそ救い主だ」と示す人がいなければ私たちは分らなかったということとつながります。私たちも、この方こそ救い主ですとみことばによって示されたから、教えられたからこそ、分ったのではないでしょうか?さらにいえば、聖霊もそこに働いて下さっていたからこそ私たちはイエス様を知ったのです。しかし、初めはこの方を知らなかった。その指し示すもの、そして、みことば、聖霊、そのような神の恵みがなければ、私たちはまさに「この方をしらなかった」、知ることができなかった、その私たちの現実を、10節の言葉は伝えています。さらに11節、

B, 「受け入れなかった」

「この方はご自分のくににこられたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」(11節)

 この11節は脚注を見ていただくとわかるのですが、「くに」とありますが、それは「ご自分のもの」ともあります。その方は、ご自分のもの、ご自分の所有のところにこられたのに、しかし、脚注、その「ご自分の人々」は受け入れなかったというのです。このところも「民」というのはイスラエルの人々をさすのだと理解する人もいますが、1節からの文脈をみて、それが天地創造をさし、「世」とあり、「全ての人」とあることから、このところ「民」は、まさに私たち「すべての人」を指しています。つまり、私たちは神のものであり、神のものであるこの世にあって、私たちは神の所有する人間であるのに、私たちはこの方、救い主を受け入れなかったという意味になるのです。このように11節は、人の堕落以来、変わることのない罪の性質を伝えています。このようにヨハネは伝えています。私たちは堕落の子であり、私たちは自らではこの方を知らない、そればかりか神そのものを拒むもの、受け入れないものであると。まさにアダムとエバのように、目が開かれ賢く、神のようになれる、善悪を自分が判断して自分が裁判官になれる、そのようにして神のことばに背いてしまう、退けてしまうもの、そのように神よりも神の言葉よりも、自分のことばと思いを中心にして生きていこうとするものであることをです。旧約聖書の歴史はまさにそのような人の姿を描き出して私たちに示しているでしょう。カイン然り、ノアの家族以外の人々然り、バベルの塔の人々然りです。そればかりではありません。まさに神の恵みでエジプトから脱出した救いの民、イスラエルの民さえもそうであったでしょう。目の前の困難な現象だけで、神の恵みを忘れて不平不満を言い、モーセのせいにして非難し、神への信仰を軽んじて金の子牛を造らせ、神に背きました。そのように神の恵みに助け出され救われ、神の恵みを知っている人々でさえ、恵みを忘れ神を捨てようとする人間の性質があることを見事に描き出しています。その後も、神によって選ばれ勝利して来たイスラエル最初の王サウルもそうでした。サウルもやがてその神の恵みを忘れ、自らを誇り、人の業や評価を心配し求め、やはり神の業を見失い、目の前の現象に翻弄され心配し、「危機だ危機だ」と騒ぎ立てるサウルでした。そのようにして後の分裂後のイスラエルは同じように恵みを見失って偶像に逸れていったことが繰返し書かれているのを見ることができます。「この方はご自分のくににこられたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」ーこれは、旧約聖書が伝えて来た人間の姿を証ししているのです。私たちは、自分たちでは神を知らないばかりか、神の所有の中、恵みの中に生まれて来ているのに、あるいは私たち自身が神のものであるのに、私たちは自らではそれを受け入れない。受け入れる事ができないものである。使徒ヨハネは、私たちにその現実を伝えているのです。しかし、まさにこの10〜11節の言葉こそ、続く12節の理解、ならびに13節の理解をするための大事な鍵となる御言葉でもあるのです。


3.「ただ、神によって生まれた」

 12節は、何度も引用され皆さん知っている幸いな福音のことばでしょう。そこには素晴らしい福音の約束が書かれているのですが、12節

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子供とされる特権をお与えになった。」

 この方を受け入れた人々、イエスの名を信じた人々は、神の子とされる特権が与えられる。誰でも、すべての人が、信じるなら救われる。神の子とされる。しかし、13節でこう続いています。

「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

 その信じる事、神の子とされること、救われる事、それは「血によってでも、肉の欲求や人の意欲によって」ではないと、はっきりと記しています。ただ「人のわざ」とだけ言っているのでもないです。救いは「人のわざ」によらない以上に、救いは、人の肉の思いや意欲、熱心、情熱、願望でさえないと、ハネは言いきっています。

 皆さん、どうでしょうか?「受け入れる、信じる」ということは、私たちのわざだと思っていないでしょうか?私たちの思いや熱意や、あるいは決心は、私たちのわざとして必要なんだ、そう思っていなかったでしょうか?皆さん、それは違います。それは間違いだと使徒ヨハネははっきりと言っています。まさに彼の生きていた時代。パウロもその時代でしたが、まさにギリシャ哲学全盛の時代です。そのような中で、救いのためには、恵みだけでは不十分で、人の決心や意志が救いのために必要だ、つまり、数パーセントでも人の側のわざが救いのためには必要なんだという教えが人気があって、その人気のある教えが教会を脅かしていた時代に生きていた説教者がヨハネであったのです。そのような間違った教えに対してヨハネはこの最後の福音を書いてもいるのですが、そこで彼ははっきりと救い、救われた人々についていうのです。

「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

 と。受け入れる、信じる。それは、人のわざに一切よりません。人の思いや意志、熱心、決意にさえも一切よりません。人のわざ、肉にわざ、血のわざではない、ただただ「神による」のだ、これはまったく100%恵みなんだ。ヨハネの非常に明確な福音の説教がここに私たちにも伝えられています。

 皆さん、私たちには、数%も、キリストを受け入れる、信じる力などありません。私たち自身はどこまでも知らないもの、受け入れないものです。しかし、私たちの血によっても、私たちの肉の意欲、決心、わざでもいっさいない。神によって、神の創造のちから、みことば、神の恵みによって、イエス・キリストによって、私たちは生まれたのです。神が、神の方から、この世に来て下さり、神が私たちに恵みを与え、神がキリストを私たちに与え、御言葉を与え、信仰を与え、洗礼を与え、救いを、聖霊を、新しいいのちを、神が与えて下さった。ただただ神の恵みにより、恵みの賜物、信仰を与え、私たちを受け入れるもの、信じる者として下さった、神の子としてくださった、『神が』そのようにしてくださった、『神が』生んで下さった、その恵みのゆえに、今私たちはあるのです。その福音がここに私たちに、私たちのために語られ、与えられているのです。


4.「素晴らしいクリスマスの宣言」

 皆さん、私たちは「私たちの意欲やわざではない、ただ神によって生まれた」ー素晴らしい救いの宣言ではないでしょうか。素晴らしいアドベント、クリスマスのメッセージではありませんか。その福音のゆえにこそ、私たちはすべてを神に荷を降ろすことができ、その福音こそ、私たちに本当の信頼、本当の平安を与え、自由にするでしょう。その恵みにこそ、キリストはあり、私たちの日々新しいいのちのあゆみがあるのです。ぜひ、この福音を、イエス・キリストを、100%イエス様の恵みによる救いの歩みを、心から感謝し、喜びをもってアドベントを過ごし、喜びのクリスマスを迎えていきましょう。