2015年2月1日


「あなたの子をここに連れて来なさい」
ルカの福音書 9章37〜45節

1.「弟子はできなかった」
 イエスとペテロ、ヨハネ、ヤコブが山を下りて来たときですが、そこには既に大勢の人々がイエスを迎え待っていました。そんな時です。
「すると、群衆の中から、ひとりの人が叫んで言った。「先生。お願いです。息子を見てやってください。一人息子です。」(38節)
 群衆の中にイエスに叫ぶものがいます。それは息子が大変な状態にあるのを助けて欲しい、そのように叫ぶ一人の父親でした。息子はいったいどのような大変な状態であったのでしょうか。こう続いています。
「ご覧ください。霊がこの子に取り付きますと、突然、かき裂いて、なかなか離れようとしません。」(39節)
 霊が取り憑いて、暴れる、離れない。42節にもこの子の症状が書かれていますが、確かに、これは何らかの病気とももちろん考えられるのですが、お父さんは、霊の仕業であるとみています。そして42節にあるように、聖書もそれは、悪霊によるものであることを示唆していますから、この子は確かに悪霊によって苦しめられていたということでしょう。お父さんは、この子と一緒に、おそらく、イエスと三人が山に行っている間、やってきたのですが、イエスはいないので三人以外の他の弟子達に既にお願いをしていたということでしょうか。
「お弟子達に、この霊を追い出して下さるようお願いしたのですが、お弟子達にはできませんでした。」(40節)
 この場面は、よく山の上に広がっていた天国であるイエスの栄光に対し、世は悪の力がなおも人々を苦しめているというコントラストがあると言われます。そして何より、世はその悪に対して無力である様が伝えられているともよく言われます。そしてイエスの弟子達もその力はありませんでした。この弟子達は9章のはじめの所とも対照的です。その時は、イエスがそのイエスの名前と天の権威を与えたからこそ、彼らは使わされたところで、福音を伝え癒しを行なって帰って来ることが出来たということが書かれていたのを思い出すと思います。しかしこの時はできないのです。それは、彼らには出来ないのは当然なのです。なぜなら以前の業は、イエスの名と権威のゆえであり、そこに働く神、御霊の力と業であったからです。ですからこのとき、経験で、弟子達が自分たちに何かそのような事が出来るかのような思いでやったとしてもそれはできないのです。できなくて当然なのです。このように、弟子達に何かの力があったのではないのです。そして、彼らも一人一人、ただの一人の罪人にすぎないのです。そこでイエスはここでこういいます。

2.「不信仰な、曲がった今の世だ」
「イエスは答えて言われた。「ああ。不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんをしなければならないのでしょう。あなたの子をここに連れて来なさい。」(41節)
 イエスは「不信仰」を嘆いています。それはどういうことでしょうか。イエスがこれまで、弟子達にも人々にも、ことば福音を通して、奇跡やしるしを通して、示して来たことはただ一つです。それは「わたしこそあなたのための救い主である」ということでした。9章はそのメッセージが実に繰り返され強調されて来た章であったともいえます。1節から振り返りますと、12弟子達が、遣わされ、癒しの業を行なうことで始まりましたが、それは先程もいいました。イエスの御名と権威を与えられてのことでした。そのように、イエスこそ天の神、まことの救い主であることを、弟子達は身をもって体験したできごとでした。そしてそれは当然、癒された人々も、イエスの名前と権威で癒されたのですから、イエスこそまことの救い主であるということこそを示されていたわけですし知ったはずなのです。そして、五つのパンと二匹の魚で5,000人以上の人々を養った出来事。その奇跡もまた、イエスこそメシヤ、まことの神であることを示す出来事でした。しかしそれでも人々は、イエスは偉大な預言者の一人だというなかで、イエスが弟子達に「あなたはわたしをだれだと言うか」と尋ねた時に、ペテロは言いました。「神のキリストです」と。あなたこそ救い主ですという信仰の告白でした。そしてそのとき始めて、イエスはご自身が負われる苦しみと復活を示され、ご自身がなそうとしておられる救いを伝えました。そして先週の所でも、モーセとエリヤは、イエスの十字架と復活への「出発」について話していたとありました。二人も、このイエスこそ救い主だと示していましたし、そして何より父なる神ご自身が、このイエスこそ「わたしの愛する子、わたしの選んだ者、彼の言うことを聞きなさい」とイエスこそ救い主であることを伝えていました。このように、「イエスこそ、天から世に与えられたまことの救い主である」ーそれがイエス様の変わることのないメッセージであり福音なのです。

3.「不完全で曲がった現実」
 けれども、人々はそのことを十分に信じてはいません。半信半疑でした。事実、多くの人は、イエスはモーセだ、エリヤだと、バプテスマのヨハネだと、言っていました。あるいは多くの人々はメシヤに、ダビデのような軍事的政治的な英雄と、繁栄の回復を期待していました。この時も、お父さんはイエスの弟子なんだから、特別なんだから、弟子達でも同じようなことが出来るのだと思って頼んだのでしょうし、弟子達も過去の経験で自分にそれが出来るかのように思ってやってみたのかもしれません。しかし「曲がった世」という言葉がありますが、彼がいずれも、「曲がっていて見えないでいたこと」、それは「イエスこそまことの救い主」ということではないでしょうか。救い主イエスこそお出来になる。あるいは弟子達であれば、自分の力ではできない、しかし救い主イエスなら、その御名と力こそがそれをなすことができる。彼らは、そのことを見失い、曲がって別のものを見ていたのではないでしょうか。イエスは「不信仰」だと嘆くのです。
 しかしその信仰の不完全さは、人間の不完全さ、信じることにさえも無力で弱さがあるという人々、弟子達、私たちの現実をまさに聖書は示し教えてくれてもいるでしょう。イエスこそまことの救い主、イエスこそ完全で、イエスこそ全てのことに働いて益として下さると、教えられ、信じても、しかし人は誰でも、それを見失ったり、忘れてしまったり、曲がってしまったりするものでしょう。私自身もそうです。まさに曲がって、他のことに目を奪われて迷ってしまったり、別のことに求めてしまったり。あるいは、イエスの救いを助けを疑ってしまったり、信じられなかったりする。イエス様の「不信仰だ」という嘆きは、私自身への嘆きでもあるように教えられます。誰でも信仰と「不信仰」の両方にあります。私自身、信じることに弱さ、不完全さがあるし、無力でもある。このお父さんも弟子達も、そのような人の姿、現実を表しているのではないでしょうか。

4.「一方的な恵みとして」
 しかしです。そう言いつつも、やはりイエスに注目しましょう。イエスは「あなたの子をここに連れて来なさい。」と言いました。そして42節
「その子が近づいてくる間にも、悪霊は彼を打ち倒して、激しく引きつけさせてしまった。それで、イエスは汚れた霊をしかって、その子をいやし、父親に渡された。」
 イエスはそのようにお父さんに言いつつも、そのお父さん、そしてその子に答えられるます。そのお父さんが信仰がどうだ、不信仰がどうだは関係ない、お父さんが何をしたかしないか、どうであるかも関係ない、お父さんがどうであっても、そのお父さんのために、その子のために、イエスはその御力を現わし救われるのです。その子が悪霊のせいでイエスの前で激しく暴れ回ったとしても、その子のために、悪霊をしかりつけ、その悪霊を、イエスは追い出して、その子を救われたのでした。そしてイエスのみが、イエスの名前だけが、そのことを完全にすることが出来るのです。
 皆さん、ここにも、イエスはまことの救い主であるということがまず第一にしめされています。それと同時に、イエスの救いは神からの一方的な恵みであることのメッセージがあるでしょう。私たちには救いのためにも何の業も力もありません。それは、信じるということにおいても、弱く無力です。弟子達でさえもそうです。弟子達はこれから起こる十字架と復活のことを示されても、分りませんでした。このあとの44節でも、イエスは再び、自分が人の手に渡されることを伝えます。しっかりと耳に入れておきなさいとまでイエスはいいます。耳に入れることは出来るでしょう。けれども45節にあるように、イエスのみことばを理解できないのです。当然です。それは「分らないように隠されていたから」ともある通りです。明らかにされなければ弟子達も決して理解できないことを示していますし、事実、復活の後に、イエスによって、聖霊によって明らかにされて、その言葉の意味への理解へと彼らは目が開かれることになるでしょう。弟子達も私たちも、そのように救いのためには何も出来ません。
 しかしイエスの救いは、私たちが理解するから救う、理解しないから救わない、私たちの信仰が完全だから救う、不信仰だから救わない、助けない、ということではないのがわかるのではないでしょうか。むしろ、彼らがどうだから、何をしたからに関係なく、この悪霊の虜にある子を、その父を憐れみ一方的に助けてあげたように、私たちが何か立派な信仰や行いがあるから、不信仰ではないからではなく、むしろ何も分らず罪の奴隷の足かせにある私たちのために一方的に、神は御子イエスを世に与え、その私たちのために、このイエスを十字架に出発させ従わせ、すべての人のために救いはすでに成し遂げられているでしょう。事実、弟子達は何もわかりません。弟子達は何もその神様の計画のためにできませんでした。彼らは、意気込みもむなしく、逃げて行きました。三度否定しました。戸を閉ざし閉じこもっていました。そして人々も、救い主である方に何をしているのかわからず、罵り、むち打ち、唾をかけ十字架に着けて殺すでしょう。ヨハネの1章にあるように、世は彼を拒んだのです。まさに不信仰な、曲がった世です。しかし、その不信仰な曲がった世のためにこそ、イエスは来られ、その力を表され、遂には十字架をおって、一方的な救いを、罪の赦しをすべての人のために成し遂げたのです。すべての人に与えられているのです。それをそのまま受けることが信仰でもあり、その信仰さえも、御言葉と聖霊を通して神が与えるとパウロは言っています。

5.「お父さんが受けた恵み」
 ここでお父さんが最後に受けとったのは、癒された息子であるのですが、それは不信仰なものに神様が一方的にあらわし与えて下さった、天の恵みであり、そして、さらなる信仰でもあったのではないでしょうか。イエ様がこのお父さんの信仰を養って下さった恵みの出来事でもあったことが分ると思います。
 神は、私たちにまことの救い主を与えて下さっています。イエスこそまことの救い主です。その救い主である方は、私たちが生きること、信仰、苦しみの中、試練の中、どんな場面にあって、どんなに弱さを覚え、そして、罪を覚える不完全なものであっても、その私たちに重荷を負わせたり、責めたりするのではなく、その逆に、私たちをどこまでも助け与えて下さる救い主であることをぜひ感謝しようではありませんか。このような私たちのために、私たちのすべての罪を負って十字架で死んでよみがえってくださったお方なのですから。そして、イエスが救ったその息子を、このお父さんがそのまま受けとって帰ったように。私たちもイエスが一方的な恵みとして与えて下さっているこの救いを、そして今日は、幸いな聖餐もあります。このイエスのからだと血をイエスが与えて下さる、この一方的な恵みである聖餐を、感謝しぜひそのまま受けとって、私たちも喜びと安心のうちに帰ろうではありませんか。