2015年3月8日


「主の恵みのうちに与えられ遣わされる幸い」
ルカの福音書 10章1〜16節

1.「すべてのひとのために」
 9章の始めでもイエスは12人の弟子達を集めて、イエスの御名による権威を授けて遣わしました。同じように10章の始めでもイエスが人々を遣わすところから始まっています。しかし今度は12人の弟子達ではありません。別に72人を選んで遣わします。この時、既に、12人の他にもイエスは名もない多くの人を遣わしていました。イスラエルの周辺を取り囲むようにある異邦人の国や民族へ。その所は「ご自分が行くつもり」(1節)だったともありますが、イエスはこのとき、エルサレムにまっすぐ向かって進んでいたわけです(9章51節)。ですから福音宣教を始めてから十字架までの3年間のその短い時間で、イエス様は全ての所へ行くことができるわけではありませんでした。けれどもこの思いは同時にイエスの最大の目的である「すべての人の罪の赦しのために十字架へ」とうことそのものが、この「ご自分が行くつもりの」所の全ての人へ、全世界へという思いがあってのことでしょう。イエスは、全世界のためにこられ、全世界の人々のためにエルサレムに向かっています。そして、全世界の人々のために十字架にかかって死なれます。イエスは、決してイスラエル人だけではない、確かに私たちのためにも来られ、私たちにも目と思いが向けられていた。その幸いをまず第一に覚えることが出来るのです。

2.「恵みのうちにある派遣」
 第二に、その「遣わす」ということにも幸いを見ることができるでしょう。まず何より「イエスが」選んで「イエスが」遣わすということです。前回もありました。自分から「従う」というのではなく、イエスは、イエスから「ついてきなさい」「従いなさい」と召した人に、「神の国を言い広めなさい」と遣わしました。そのように、どこまでも神の国の働き、イエスの働きは、イエスが召し、イエスが選んで、イエスが遣わすということがわかるのです。人や自分の思いや計画、自信や意志や決心から出たものではないという恵みを見ることができます。そしてその召される働きや使命も、1節では「ご自分の行くつもりの」とありますし、2節では「収穫の主」と収穫は主の働きであるともあります。つま、全ては主の働き、主のなそうとすること、主がなさることのために、選び、遣わされるということがわかるのです。9章の始めも同じでした。弟子達はイエスから権威を授けられて遣わされます。その遣わされた所で弟子達はイエスの名によって悪霊が追い出したり、病を癒したりしました。それは弟子達に力があるのではなく、イエスの名に力があったのであり、そこにイエスの力が現れていることでもありました。事実、イエスが山に行っている間、子供が悪霊に憑かれているからと助けを求めてきた親子に対して弟子の力ではできませんでしたし、逆に弟子のヨハネが、弟子でない者がイエスの名を使って悪霊を追い出していたのを見て、仲間ではないのでやめさせたという出来事があります。それに対してイエスは止めさせてはいけないといいました。遣わされ帰って来た72人が「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します」とも言うのです(10章17節)。このようにイエスの名が与えられ、遣わされ、イエスの名が広められ、イエスの名によって悪霊が追い出され、病が癒される。すべてはイエスの名、つまりイエス様の力、イエスがなさる業、計画、働きであることがわかるのです。そのイエスがその名によってなそうとしている働きのため、召された彼らであるのです。このようにイエスによって「遣わされる」ということはどこまでも恵みであることがわかります。そしてこのように何をするにもどこまでもイエスは与える方に他なりません。決して負わせる方ではないということです。5節を見ても分ります。イエスがなそうとする働き、イエスが伝えようとすることは、「平安があるように」であることです。イエスは私たちに平安を与えるために来ました。それは遣わすということでも同じです。どこまでも、イエスが召した人を、イエスが選び、イエスが遣わす。しかもイエスのなそうとすることをさせるため、イエスの名によって。すべてはイエスの主導権です。ですから、そうであるなら、「遣わされる」ということは「イエスにあって」という、イエスへの信頼があれば安心だけれども、逆に、イエスを見失ったり、イエスから受けるのでもない、イエスの名によるのでもない、イエスへの信頼でもなくなる時、イエス以外のものへの信頼になる時にこそ、遣わされるということ、クリスチャンとして歩むということが、平安ではなくなる、重荷となるということだと言えるでしょう。
 イエスは私たちをも遣わしています。この世へ。しかしそれは、イエス様の主導権と力で、恵みと平安のうちにです。なぜなら、私たちもイエスによって救われ、召され、選ばれ、イエスによって、イエスの名によって遣わされているからです。イエスから今日も受け、イエスから受けるからこそ私たちの新しいいのちの歩みがあり日々があり、平安があることを知っているからです。ぜひ、今日も、イエスが救ってくださり、イエスがイエスの名において遣わしてくださっている恵みを感謝して、ここから遣わされて行きたいのです。

3.「一人ではなく」
 更に幸いが書かれています。1節の後半には。「ふたりずつ」とあるのです。このようにイエスは決して一人では遣わしません。イエスのなそうとする働きには当然イエスご自身の働きと業があるのですが、同時に、私たち兄弟姉妹、同胞は、その神の御心が行なわれて行くために用いられる互いが互いのために、イエスから与えられ一緒に遣わされている助け手、パートナーでもあるのです。もちろん人には皆、不完全さがあるでしょうし、人と人の間のことも、クリスチャンといえども、いつでも完全ではありません。しかしだからといってそれを無意味とはしません。創造の始めでも、神は、人は一人でいるのは良くないといって、助け手として、つまり、人は互いに助けあうためにパートナーを与えています。確かに堕落によって人も、人と人の関係も堕落しました。しかしその神がパートナーを与えた御心は、尚も大事なこととして私たちにはあります。それは主によって選ばれ主のなそうとすることのために「遣わされる」ことにおいてもイエスは貫かれます。一人ではなく、ここでは二人で、あるいは、使徒の働きでは複数の場面もあります、あるいは、家族や、友人、教会という大きな数でも同じことが言えます。そのように私たちは一人で遣わされているのではない、ともに唯一の救い主であるイエスへの信頼を向け、互いに助け合い励まし合い遣わされている。しかもです。更に言えば、これは決して二人だけの力でもない、そこにはイエスの名のゆえにイエスが働いてくださるのですから、つまり常に「プラス1」です。二人のときは、ともにいてくださるイエスもいて3人。私たちの歩み、遣わされる、従うということは、そのような幸いな派遣であるのです。

4.「収穫の主に祈りなさい」
 そのようにイエスが遣わす彼らに言った、遣わす言葉が、有名な2節以下の言葉です。よく2節だけを取り上げられますが2節だけではありません。16節まで続いている長い言葉です。2節
 実りは多いのに。収穫のための働き手は少ないのだとイエスは言っています。まずイエスには多くの実りが見えています。それは尚も働き手が沢山必要なほどに実りがあることがわかります。その「実り」というのは、イエスが与える救い、罪の赦しと永遠のいのちです。そして人々にその実り、救いを得させるのは、ルカの福音書でっも見てきて分る通り、イエスの名であり、イエスのことばです。使徒の働き3章でもこうあります。ペテロとヨハネは、金銀は私にはないが私にあるものをあげようと言って「イエスの名によって歩きなさい」といいました。そして4章12節では「私たちには救いのためにイエスの名以外には、いかなる名前も与えられていない」とも言っています。そして使徒達と教会が伝えて行ったのは、まさにイエス・キリストの福音でした。ですから「働き手」というときに、それはそのようにイエス・キリストのみことば、福音を伝える人のことです。それが少ない。今はどこの教団や神学校でも同じような声をききます。私たちの教団の神学校も同様の課題を抱えています。しかしその時にイエスは導きを与えてくれています。まず第一に、収穫の主が、収穫のために働き手を送ってくださるのだということです。これは大事なことです。前回もありました。召しや従うということ、それは人の自信や決心、人のわざではないと。主がみことばを持って召してくださるのだと。そして今日の所でも、主が、選んでくださり、遣わしてくださると、貫かれています。そしてこの2節でも、主が送ってくださると一貫しています。これは主が召し、主が送ってくださるのです。出エジプトの時のモーセもそうでした。モーセを選び、召したのは誰でもありません。モーセは同胞から殺しのことを問われ逃げてきました。主から召されたときも彼は何度も拒みました。しかし主が召し、主のことばによってモーセは導かれ、主がエジプトに送ってくださったのでした。このように主の収穫の働き手も同じです。人のわざではない、人の自信や決心でもない。人が選び、人が募り、人が働き、人が説得し決心させるのではない。主がなさるのです。何より、みことばをもって、みことばにこそ力があり、みことばの力で、人は召され、選ばれ、主は人を送ってくださいます。ですからイエスの言うことは最もですね。「祈りなさい」と。収穫の主に、働き手を送ってくださるように「祈りなさい」なのです。そして人の説得や促しではなく、みことばを伝えることこそ、人が主によって召されるための最善で最高のことであるともいえるでしょう。ぜひ私たちは「祈りなさい」との進めにある通り祈っていこうではありませんか。祈りに力がないように思わないで、「祈りなさい」と勧められているのですから、祈りにこそ力があると信じ信頼して祈って行きましょう。

5.「イエスは裁くためではなく代わりに負い与えるために」
 尚もイエスのことばは続きます。その遣わされるのは全くのイエスの恵みであるのですが、しかしその前途は決して易しいものではないこともイエスは伝えて行きます。3節では「狼の中に子羊を送り出すようなものだ」と。すべての人が受け入れるわけではなく、拒む人、受け入れない人もいるのだと、言うのです。そして16節では、こうもイエスは言って結んでいます。16節
 イエスが与える平安を受け入れない人、拒む人は必ずいると。そしてその受け入れない、拒むことによる報いの大きさもイエスは述べています。ここから神の裁きはイエスを受け入れるかどうかにあるということと、その神の裁きは確かにあり厳しいものであることを教えられます。けれども皆さん大事なことですが、イエスはなぜ来られたとあったでしょうか。ヨハネ3章17節です。「裁くためではない」とはっきりと書いています。弟子ヨハネはまさにそのように受け入れない人々に「天から火を呼び下し焼き滅ぼしましょう」といいました。しかしイエスはそれを戒められたとあったでしょう。神の裁きは必ずあります。しかし神がその一人子イエスを世に与えたのは、その裁き、断罪をイエスに負わせるためです。私たちの代わりにです。そして事実、イエスは、イエスを受け入れない、罵り、十字架につける全ての人々の罪の身代わりとなり、十字架にかかって死にます。全ての人にその罪の赦しを与え、神の前にその十字架のゆえに、罪がないものとするためにです。そしてその後も今も、そのイエスのゆえに、尚も、福音を教会で語らせ、伝えさせていますし、そのやがて来るその裁きの時も、尚も神はイエスのゆえに忍ばれているではありませんか。神は裁く以上に、この御子イエスのゆえに、御子イエスを与える程に、私たちをやはり愛してくださっているのです。

6.「イエス・キリストの恵みと平安にあって遣わされる幸い」
 クリスチャンである私たち自身でさえも、受け入れる受け入れないでいうなら、決して完全ではないことも教えられます。私たちは決して完全ではありません。受け入れられないこと、拒むこともあるのです。そのような時に本当に私たちに救いがないなら、ただこの裁きだけしかないなら何と絶望的でしょうか。しかし、私たちはそのような時でも、このイエスこそを知り、イエスの十字架に立ち返り、イエスにあって何度でも罪の赦しを受け、イエスにあって新しくされ歩むことが出来ることはなんと幸いでしょうか。ここでもイエスは、裁きのことを遣わす72人には説明しても、受け入れない人々にそのような罰や裁きのことを言いなさいとは言っていません。むしろイエスが伝えさせるのは「平安があるように」と「神の国が近づいた」だけです。私たちは裁きを証しするのではありません。当然、裁き合うことも違いでしょう。そうではない。私たちがイエスから受けているもの、それは本当に不完全で神の裁きの座にあった私たちをイエスが救ってくださった。イエスのゆえに何度でも罪の赦しが与えられ、いつでもどんな時でもイエスにあって平安が与えられる。そのことではないでしょうかね。私たちもその「イエスにこそ平安がある」という証し人として、恵みのうちに遣わされている一人一人でしょう。それはイエスの平安を知らなければ証しはできません。ぜひまず私たちがイエスから平安を受け、平安のうちに歩み、ぜひ恵みのうちに遣わされている喜びを知り、そして祈りをもって、この素晴らしい恵みの歩み、証し人としての歩みを、歩ませていただきましょう。