2015年3月22日


「あなたがたの名が天に」
ルカの福音書 10章17〜20節

1.「イエスの御名をつかうと」
「さて、70人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもさえ、私たちに服従します。」」17節
 70人とありますが、72人です。彼らは喜んで帰ってきました。それは「イエスの御名」の力と業を体験したからでした。「悪霊どもさえも、私たちに服従します」と。このようにこれまで見てきたことを明らかにしています。イエスが遣わす時に与えた「権威」というのは「イエスの御名」であったということです。そのイエスの御名には主なる神の力があってその力が確かに現れたという事実を72人は喜んで証しするのです。このように72人の働きは、彼らに力があったのではないことがはっきりとわかります。彼らもそれを認めて喜んでいます。イエスの御名にこそ、まぎれもなく力があったのでした。

2.「イエスの御名にある幸い」
A, 「イエスの御名による新しいいのち」
 私たちに与えられている第一の幸いはここにあります。私たちが頂いているのもこの「イエスの御名」です。洗礼のときに「イエスの御名」によって洗礼を授けられます。幼児洗礼も一般洗礼もそうであったはずです。イエスの御名による洗礼でなかったということは洗礼ではありません。私たちは紛れもなくイエスの御名によって洗礼を受けたのです。それは幸いなことです。なぜならそのイエスの御名には本当に神の権威、力があるのですから、私たちは紛れもなく洗礼を通し、イエスの御名によって、100%救われている。神のものとされている。その確信へとまず立ち返ることが出来るのです。
 そして「イエスの御名による洗礼」というのは、これも何度も述べてきました。洗礼はその日だけの出来事ではなく、私たちが天国に行く時まで現在進行形で、続いていることだと。ですから私たちはクリスチャンだというとき、それはイエスの御名による洗礼に「今も」与り続けているということを意味しています。つまり今日も私たちは洗礼の恵みの中に生かされているということです。ですからパウロは「日々の洗礼」として、私たちは日々、洗礼において、十字架で死に復活で新しく生かされるものとして伝えています。そのように洗礼は過去の出来事ではなく、今も続いており私たちは今もイエスの御名の洗礼に生かされ、生きているものだということです。その実感があるでしょうか。そうなのです。ぜひそう信じてください。そしてそのことこそ、私たちには日々このイエスの御名があるのだと私たちを力づけ、励ますことにもなるでしょう。悪霊さえも服従する、イエスの御名に私たちの日々はあるのですから、私たちは本当にイエスの完全な守りの中で今日も明日も、今週もあるのです。
 さらには、そのイエスの御名は、洗礼だけではありません。イエスの御名は本当に私たちには何重にもあります。礼拝もそうではありませんか。イエスの御名によって礼拝は与えられているでしょう。イエスの御名によって礼拝は今日も始まっているのです。そしてイエスの御名によって説教がされ、イエスの御名によるみ言葉を私たちは礼拝でも与っているし、日々、そのイエスの御名によるみ言葉に聖書を開いて立ち返ることも出来ます。聖餐もそうです。聖餐はまさにイエスの御名によって与えられるイエスのからだと血ではありませんか。さらには皆さん。祈りです。私たちは皆祈ります。「イエス様の御名によってお祈りします。アーメン」と。このように私たちは素晴らしいいのちの道を与えられています。悪魔さえも逃げて行き、服従するというそのイエスの御名、天の御国、父なる神の権威と力が満ち満ち、働く、そのイエスの御名が私たちに絶えず与えられ、その御名によって祈る祈りも私たちに与えられているのです。それは何にもまさって完全な、助けであり、守りであり、味方であり、揺るぐことのない希望ではありませんか。
B, 「あなたがたに害を加えるものは何一つない」
19節では、イエスはこうも言っています。
「確かに、わたしは、あなたがたに蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。」
 イエスがこのように「だから、 あなたがたに害を加えるものは何一つありません」と言っていることは幸いです。そのイエスの御名による守りがあり、「何一つ」と強調されているように、それは「完全」であることをイエスは約束しています。確かにこの19節の言葉は、私たちの歩みには、蛇やサソリ、敵があることも示唆しているのです。私たちがクリスチャンとして歩むということは、悪魔や世の誘惑や攻撃にさらされることをイエスは何度も言っています。「世にあっては艱難があります」ともいいました。事実、教会は何度も暴力的な迫害を受けます。散り散りにもなりました。そして迫害だけでなく、様々な巧妙な誘惑によって、教会が違う教えや世的な魅力に惑わされ翻弄し分裂することも常に経験します。そのような蛇やさそりは必ずあるのだということです。しかし「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた」それはイエスの御名です。その権威、イエスの御名があるからこそ、その御名のゆえにこそ、「だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません」なのです。逆にこの権威、イエスの御名を失えば、人も教会も何も出来ません。弟子達は、イエスの御名なしには、悪霊に憑かれた子供を助けることが出来ませんでした。そして初代教会の時代から、いつの時代の教会も、イエスの御名をその旗印、拠り所、中心から失ったり、逸れたりして行った時に、あるいは、イエスの御名とそのイエスのみ言葉を語って行かなくなった時にこそ、教会はまさにキリストの教会から、人の教会へとずれて行ってしまいました。イエスが言うように、イエスの御名こそ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威です。だから、その名のゆえにこそ、私たちに害を加えるものは何一つない。悪霊、悪魔さえも、従い、逃げて行く、そのイエス様の御名こそ、私たちにも与えられている、私たちを救った、私たちを新しく生かして行く権威であり力なのです。ぜひ私たちにも神の御名が与えられ、神の御名によって洗礼の日々に生かされていること、礼拝に与っていること、説教、御言葉、聖餐に与っていること、祈れること、その恵みと幸いを今日も感謝し誉めたたえ、私たちは今日もここから遣わされて行きたいのです。

3.「イエスが約束する天の恵み」
 ここまででも幸いなのですが、しかしイエスが見ているものはその幸い以上のことであることを私たちに伝えています。まず18節。
「イエスは言われた。「わたしが見ていると、サタンがいなずまのように天から落ちました。」
 72人がイエスの御名を使って悪霊どもが服従した時に、そのことだけが起こったのではないことをイエスは私たちに伝えています。その時、サタンがいなずまのように天から落ちた。何と言うことでしょう。72人は確かに目の前でその素晴らしいイエスの御名の力を見ました。しかしその時、その72人の目の前のことだけではないというのです。その時、つまりイエスの御名が語られ、悪霊が服従したその時、天でもすごいことが起こっている。サタンが敗北する出来事さえも起こっていることをイエスは見たと言うのです。ますます「イエスの御名」の力と権威がいかに大きなことであるのか教えられます。イエスの御名が語られるとき、それは地上だけでなく天にまでも働いているということです。ですから洗礼も、礼拝も、説教も、聖餐も、そして祈りも、それはまさしく天にもつながっていて、その時、確かに、天の賜物に与っているのだという、その根拠はここにも見ることができるのです。私たちがイエスの御名によって洗礼をうけたというとき、それはただ地上の物事ではないということです。紛れもなく、その御名によって洗礼が行なわれた時には、天とつながっていて、いやそれはイエスがそこに来てくださっているのですから、天が下りてきてイエスの洗礼が授けられる、そしてその天においてもその洗礼は素晴らしい讃美と喜びに溢れているということです。有名なルカ15章の迷子の一匹の羊が見つかった喩えでイエスは「1人の人の悔い改めの時、天に讃美が溢れ喜びが満ちる」と、が書かれている通りです。このように私たちはただ形だけ象徴としての洗礼ではなく、地上の洗礼でもなく、イエスの御名による洗礼、天からの洗礼を受けているのだという素晴らしい恵みを教えられるのです。ゆえに同じです。イエスの御名による礼拝も、聖餐も、みことばも、説教も、祈りも、イエスの名のゆえに、イエスを通して、それは天に確かにつながっていて、私たちは地上だけではない、天の恵みとしてのイエスが与える恵みを受けているんだということにつながっているでしょう。イエスのこのメッセージは本当に感謝です。イエスの御名の素晴らしさです。天は、イエスにあって、イエスの御名、イエスのみことばにあって、私たちのところに来ているのです。それは「私たちが天に頑張って登る」ではない、天がイエスにあって、イエスの御名にあって、みことばにあって、私たちの所に来ている。ヤコブの天の梯子は、「地から天へ」ではなく、「天から地へ」下りていました。そして天使は「下り上り」していた。イエスの御名はまさにその天の梯子のように、私たちと天をつないでいます。それほどまでも素晴らしい、私たちの思いでは計り知れない大きな力と権威に、私たちは与っており、それによって救われ生かされていることを誉めたたえたいのです。
 
4.「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」
 最後にイエスはもう一つ大事なことを言っています。20節です。
「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」
A, 「天に私たちの名がある」
 悪霊どもがあなたがたに服従することに、喜んでは行けない。つまり、そのような地上のことに本当の喜びがあるのではないということをイエスは示唆しています。そうではなくて「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」とイエスはいいます。「イエスの御名」が出て来て、今度は「私たちの名」のことをイエスは言っています。私たちはイエスの御名を与えられています。それは同時に、私たちの名は、天に書き記されているんだとイエスは素晴らしい約束を伝えています。私たちにイエスの御名による洗礼によってイエスの名が与えられ、その時、今度は私たちの名はイエス様が受け取り天の名簿に書いてくださっているというのです。それによって私たちは天国に名が記され、もう何時、死を迎えることがあっても天国に安心して行くことが出来るということをイエスは伝えてくれています。感謝ではありませんか。イエスの御名によって救われ生かされているものは、このことのゆえに安心することができます。イエスの名をもらうことによって、私たちの名が天に書き記されているのですから。ですからイエスにあるなら、イエスの御名をしっかりと握っているならば、死は決して終わりでも悲しみでもありませんね。恐れでもありません。いつ死ぬことがあったとしても、イエスにあるなら心配する必要は何もないのです。なぜなら、私たちの名が天に記されているからです。
B, 「天に名があることの確信はどこに?」
 では私たちの名が本当に天に記されているのか。本当なのか?どこにその確信があるのか。その答えはまさに今日述べた通りです。その確信は私たち自身の業や功績に探してもありません。そうではない、そのように天に名が記されているのは、イエスの御名を、救い主の名であると信じて、そのイエスの御名によって洗礼を授けられたかどうかです。皆さんはまさにイエスの御名によって洗礼を授けられたでしょう。そうであれば恐れる必要はありません。天国にその名ははっきりと記されています。そしてこれは招きでもあります。今日からでもイエスの御名によって洗礼を受けるならば、それが幼児でも大人でも、その洗礼によって、天国にその名がはっきりと記されるのです。
C, 「天に名が記されている。そのことを喜びなさい」
 そしてイエスは、そのことこそを喜びなさいと言っていることがイエスの結論です。地上での、悪霊が従ったという出来事もすごいこと、素晴らしいことです。しかしそのように地上の物事だけを見て喜んだり悲しんだりするのではない。天から来られた救い主イエスは天からのものを与えて下さり、そして天のものである神の国に与らせるためにこそ世に来られたでしょう。そのために十字架と復活があったでしょう。私たちの幸いも喜びもそれは究極的には「天に名が記されている」ことに尽きることをイエスは伝えています。
 この豊かな時代、そして教会が世的な成功や繁栄に流される中で、一番脇におかれた教理は終末論であると言われます。まさに目の前の目に見える地上の成功や繁栄、現象や物事の喜びだけで終わってしまう。そのことが基準やゴールや目的になってしまう。そして逆に試練や迫害や誘惑に対して教会は非常に疎く、脆くなっていると言われます。私達にとって大事なこと、本当の喜びは、地上の成功や繁栄以上のことです。天に名が書き記されていること、いつ迫害があり、いつ試練があり、いつ誘惑があり、それが激しく攻撃してきて、たとえいつ死を迎えるにしても、そしてそれが地上では敗北であったり、マイナスであるようなことであっても、しかし私たちがイエスの御名にあって生きる最高の目的でありゴールであり喜びは天ではありませんか。天に入れられている。天に名が書き記されていて、私たちは神の国に、天国に行くことが出来る。新しい天と地に与ることが出来る。そのことではありませんか。イエスはそのことこそを喜びなさいと、教えてくれています。ぜひそのことを喜びましょう。