2015年3月15日


「イエスは世の喜びのために」
ヨハネの福音書 16章20〜22節

1.「受難節とは」
 教会の暦では今、受難節という時を過ごしております。イースターの前の46日間を受難節、英語ではレントとよんで、とても大切な期間としてクリスチャンは過ごします。レントになると毎週、ある曜日の夜に教会に集まって一緒に食事をして、その後、讃美をし聖書からイエス様のお話を聞くのです。何のお話か?といいますとイエスがエルサレムで捕えられ、苦しみを受け、十字架にかけられて死なれる、そのお話を聞くのです。そしてそのイエスの十字架が「私のためである」ということ、そのイエス様の十字架によって私たちは救われたのだ、そのことを知るときが受難節なのです。このようにキリスト教会の中心は、イエス・キリストでありこの十字架です。教会には必ず十字架がありますし、日本でも十字架がキリスト教会のしるしと認知されています。それは世界共通です。この教会にもこのように十字架があるのです。どのような形や規模の教会であっても、十字架が中心にあるかどうか、あるいはイエスキリストと十字架を伝えているかどうかで、そこがキリスト教会かどうか判断できます。

2.「十字架のイメージ」
 そのようなイエス・キリストの十字架ですが。まだ教会や聖書が始めてという方や、あるいはクリスチャンにとっても、どのようなイメージを持つでしょうか?「暗い」というイメージがあるかもしれません。あるいは「悲惨」とか「死」というのもあるかもしれません。メル・ギブソンという有名なハリウッド俳優が監督した「パッション」という映画がありました。それはキリストの受難をあまりにも赤裸裸に残酷に描き出していたということで、クリスチャンの間でも賛否が分かれていましたが、やはり目を負いたくなった、あるいは見ていられなかった、という声がありました。そのようなイエス・キリストの十字架です。
 確かにそうなのです。十字架は当時の世界を支配していたローマ帝国の最も残酷な処刑の道具であり手段でした。イエス・キリストは無実でした。当時のローマ総督のピラトもイエスには罪を認められないと言ったとも記されています。けれどもユダヤ人達の妬みと偽りの証言に満ちた訴えが起こります。ピラトもそのユダヤ人達のあまりの勢いに暴動になるのではないかと恐れて有罪として十字架刑を宣告するのです。そのようにしてイエス・キリストは捕えられます。そして何度も鞭打たれ、罵られ、唾をかけられ、荊の冠を被せられます。そして自分がかけられる重い木の十字架を背負わされ、エルサレムの外にあるゴルゴタの丘まで歩かされます。そしてそこで手と足に釘を打たれ刑に処せられるのです。確かに聖書の中でも最も悲惨で残酷で、悲しく、胸が締め付けられる、目を背けたくなる所だと思います。

3.「イエスの十字架は何のため?」
 けれども大事な問です。「それが何のためであったのか?」その答えとして「その十字架は、神から私たちへ、私たちに向けられて、私たちのためのものであった」ということを教えてくれているところの一つが今日のこの聖書の箇所なのです。
 これは十字架にかけられる直前です。最後の晩餐でのことです。そこでイエスはご自分がもうすぐ捕えられ、十字架にかけられ死ぬことを知って、弟子達に自分が教えてきた救いや福音について、神の国のことについて沢山、教えるのです。しかしそれでも弟子達はまだ分らないわけです。17〜19節を見ていただくと、弟子達がイエスのことばに戸惑っているのが分ります。イエスがいなくなるという意味が分からないし、ましてイエスと逮捕や十字架刑がどうつながるのかもまったく分らないのです。もちろんやがて弟子達はイエスの復活によって分って行くのですが、けれどもこの時は分りません。そのような弟子達に、イエスは、これから起こる十字架のことをこう告げるのです。20節
A,「ただ悲しみのためだけではない」
 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかしあなたがたの悲しみは喜びに変わります。」
 イエスは「あなたがたは泣き、嘆き悲しむ」と言っています。弟子達が直ぐに経験することを伝えています。イエスは捕えられ十字架にかけられ死ぬことです。それは本当に弟子達の嘆き悲しみになります。弟子達は泣きます。これまで一緒に歩んできたイエスが痛めつけられ苦しめられ死ぬ訳ですから。弟子達にとっても、それは見ていられない出来事になります。イエスはそのことを伝えます。
 けれどもイエスのことばはそれで終わりませんね。ただ悲しみ嘆きのために、捕えられ、十字架にかけられるのではないといいます。あなたがたは嘆き悲しむがしかし「世は喜ぶのです」と言っています。そして世だけではありません。「あなたがたの悲しみは喜びに変わります。」とも言います。それは何のことでしょう?イエスは22節でもう一度繰り返しています。
「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。」
 こう言っています。「そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。」とあります。それは「もう一度、あなたがたに会う」から。つまりイエスは十字架にかけられ死んで葬られるけれども、死からよみがえってあなた方に会うことも約束しているのです。
 このようにイエスは、十字架の出来事は確かにあなたがたに悲しみをもたらす。十字架の出来事は、確かに悲惨で残酷で、悲しみを私たちにあなたがたに与える。けれどもその悲しみ嘆きに終わるものでは決してない。それが目的ではない。そのためにわたしは十字架にかかるのではない。それは「世の喜び」、「あなたがたの喜び」のためである。それによってやがてあながたに喜びが来るのだ。むしろ「そのために」とイエスは十字架を指し示しているのです。
B,「喜びのために」
 「世の喜び」のために。イエスは私たちに示しています。イエスが与えようとしたもの、与えて下さるもの、それは「悲しみ」ではない。「喜び」です。ではなぜ、イエスの十字架は私たちの喜びになるのでしょうか。それは私たちはイエスのこの十字架のゆえに、神様がいかに私たちを愛してくださっているかを知り、このイエスの十字架のゆえに救われていることを知り、このイエスの十字架によってまったく新しいいのちの歩みがあることを知るからです。聖書は、何よりそのことを私たちに伝えています。ヨハネという弟子はその証しとして一つの手紙を書きました。

4.「いのちを得させるため」
第一ヨハネの手紙4章9〜10節
「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
A,「いのちを失った状態」
 このことばは私たちに一つのことを教えています。それは私たちは生きているけれどもある意味死んだ者であると。何のことだろうと思うかもしれません。それは聖書が伝える私たち人間の本来のあり方を知ると分ります。聖書は伝えています。人はみな神によって命を与えられ、そして人はその神に信頼して、神に求めて、神の言葉によって歩むものであったと。聖書はそのことの記録から始まっています。そして大事なことですが、そのように神に信頼して神のことばによって歩んでいた最初の人類は本当に平安で自由であったという姿も見ることが出来ます。それが本当の人間であったということ。これは聖書の一番最初の大事なメッセージです。けれども今、人はそうではないでしょう。「神が世界や人を創造したなんて空想だ」、いやそれどころか「神様なんていない」という人はとても増えていて、欧米では特に増えていると言われています。そしてクリスチャンであっても、神に信頼してとか求めてとか、神のことばによってということは、非常に難しいことを誰でも実感しているのではないでしょうか。完全ではないことを私自身気づかされます。神の助けなしには信じるとか信頼するということも、人には難しいし、出来ないことを、私自身思わされます。その本来の姿と今とのギャップです。それが聖書が伝える罪ということの一つの鍵でもあります。私たちはそのような意味で「いのちのない者」です。それは本来の安心、平安、自由を失っている。神と一緒にあったのに一緒にいない。離れようとする。拒もうとする。神に信頼していたのに、信頼できない。神に求めていたのに求めない。他の物事や人に求めてしまう。神のことばによって歩んでいたのに、神のことばを受け入れられない、行なえない。その結果として、世と人間には悪が満ちて行ったと聖書は伝えているのです。まさに人間の歴史は罪の歴史であるとも言われています。どんなに優れた文明や技術の革新を経てきても、人間の罪の姿だけで何千年も変わることがありません。どんな古代の文学を読んでいても人間の醜い心の模様や、残虐性、いじめや妬み、それは今の人間の心や行いと変わることはありません。理性の時代と言われたルネッサンスの時代の人々は中世は残虐だといいましたが、しかし理性が導いてきた時代の理性人も結局は同じことをしてきて、最後は二つの大きな大戦にまでつながっています。しかしそれは人間の姿の一面でしかありません。むしろ聖書は、それは神が創造され生んだ通りの人間の姿ではない、あるいは神と一緒にいたのに、神と正しい関係であったのに、神から離れ、背を向け、正しい関係が失われ、ある意味、迷子になったような状態、失われたような状態であるからだと教えるのです。それは聖書では、死んだ状態であることを意味しているのです。いのちが失われている状態だというのです。そのように神から離れまま、罪のままでは、決して神と交わることもない。神の国、天国にはつながらない。むしろ罪の報いを受けなければいけないという、悲惨な結末をも聖書は伝えているのです。
B,「いのちを得させてくださった」
 けれども、皆さん、まさにそのような人類に対しての神の大事な答えとして、このヨハネの証しは伝えているでしょう。神はそのひとり子イエスを世に、私たちに送ってくださった。そしてこのイエスによって神は「私たちにいのちを得させてくださった」と。そして私たちはどこまでも神を愛することなどできないものであったけれども、神が私たちを愛してくださって、この神の愛するイエスにこそ、その私たちの罪の報いも悲惨な結末も負わせることによって、私たちへの愛を現わして与えてくださったと。
 私たちが神を拒んだところもさることながら、私たち人類一人一人の罪は神の前では非常に重いものです。しかし聖書が伝えるのは、その罪を裁くことではなく、むしろ私たちの身代わりとして神の御子にその罪や罰や報い、人間の悲しみや絶望のすべてを負わせることによって、神が神の方から私たちのところに来て、全てを受け入れ、神が私たちに救いのために必要な全てを与えて下さり、私たちとの関係を回復してくださったと伝えているのです。それが救いであり罪の赦しでありいのちに他なりません。やがて来るイースターは、まさにそのいのち、しかも死からよみがえった新しいいのちを示しています。神がこのイエスを送ったのはこの「新しいいのち」を私たちに与えるためです。そしてそれはまさしく本当の喜びを私たちに与えるものです。それは世が与える喜びとは違う喜びです。神が与えてくださるこの素晴らしいいのちの回復は、私たちが自らでは手に入れることが出来ないものです。それを神が与えて下さる。それゆえこの「世の喜び」は天からの特別な喜びなのです。そのためのイエスの十字架にほかなりません。それはまさしく私たちのため、私たちに喜びと平安を与えるための十字架なのです。

5.「新しい誕生のためにイエスは十字架に」
 ですから、16章21節のことばもわかるのではないでしょうか?
「女が子を生むときには、その時が来たので苦しみます。しかし子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはや激しい苦痛を忘れてしまいます。」
 イエス様いのちの誕生、子供の誕生のための苦しみに例えています。新しいいのちのために、私たちが新しく生まれるために、私たちがみな救われ、罪赦され、神との正しい関係を回復され、死からいのちへ移るため、神の国へ移るために、イエスは十字架にかかって死なれる。まさしく私たちの救いのために、私たちの喜びと平安のためにこそ、十字架にかかられることが分るのではないでしょうか。そして幸いなのは、この言葉は主ご自身の喜びのためでもあるでしょう。私たちがいのちを得ること、神と生きることは、イエスの喜びでもあります。そのためにこそこの苦しみの十字架がある。私たちのための十字架、イエス・キリストなのです。
 それはもう既にすべての人のために成し遂げられました。そしてもうすべての人に与えられているものです。しかしそれを「私のためにである」と信じなければ、拒んでいることと同じです。私たちはそのまま受けるだけでいい。既に受けているものを「わたしのためである」と信じる。そのまま「受ける」。それが信じるの意味です。そしてそれだけでいいのです。ぜひこのみ言葉を信じて「わたしのために」と信じて告白して行きましょう。ぜひそのまま受けとっていこうではありませんか。