2016年1月10日


「からし種の様な神の国」
ルカによる福音書 13章18〜21節

1.「前回」(10節から)
 安息日にイエスが会堂で教えているところに、一人の女性がいました。彼女は18年もの間、病の霊に憑かれ、腰が曲がっていました。本人の罪、汚れのせいでそうなったのだとされるような社会にあって、この会堂でも蔑みの対象になることが明らかであるようなところにもかかわらず、彼女はイエスの語る神の言葉を求めて聞くためにやってきていたのでした。そしてイエスはその彼女に目を留め病を癒してあげたのでした。しかし会堂管理者はそれを見て、群衆を味方につけるような言い方で、安息日に癒すのも癒してもらうのも律法に反するいけないことだというのでした。けれどもイエスは、神は安息日に人のために働いておられることを示し、社会がその罪を責めたて軽蔑する彼女を、むしろ「アブラハムの娘」と呼ぶのです。それは彼女の神と神のことばに求める信仰を賞賛されたのでした。そしてそのような求めるものを神は安息日だからといって、助けないわけがないではないか。イエスはそのように教えたのでした。その出来事を受けて、さらにイエスが「神の国はどのようなものであるか」を教えます。イエスは続けます。

2.「からし種のようなもの」18〜19節
「そこで、イエスはこう言われた。「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたら良いでしょう。それはからし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、成長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」18〜19節
 イエスは、神の国はどのようなものであるのかを伝えるために、「からし種」を例えとして用います。からし種は、ユダヤ教のラビ、教師が、最も小さなものを例える時によく用いるものです。実際は、一番小さな種ではないようですが、非常に小さな種ではあって、大きさ0.5ミリで、ゴマが3ミリぐらいですから、かなり小さな種ではあります。神の国はそのように小さなものであるというのです。
 意外なような気もします。この例えは、当時の人には非常に奇妙に聞こえたはずです。なぜなら神の国の到来とか、メシアの到来というときには、多くの人は世的というか地上的な繁栄とかを連想したことでしょう。ですからソロモンの黄金の繁栄の復興を思い描いていた人々には、かなり意外で対照的な例えであったことでしょう。神の国ですから、「もっと大きくて、華やかなものと例えら得るべきではないのか」、確かに人は思うかもしれません。ですがイエスはその期待とは裏腹に「からし種」のようなものであると、ここではっきりと言っています。しかしそのからし種は、イエスが言われるように小さいですが、地にまかれると時間をかけて成長していき木になっていきます。しかも蒔かれてもすぐには芽は出しません。地中で徐々に少しずつ成長していきます。イエスは、神の国はそのようなものであると言っているのです。

3.「イエスがしめす神の国」
 まずイエスが「神の国」というの時には、それは国境と領土がある国家のようなものを意味していません。ですから当然、ソロモンの黄金と繁栄の国や、当時で言えば、イスラエルのローマからの独立も意味していませんでした。ですからそのような独立や繁栄を期待していた人は躓いたわけです。ではイエスが神の国というのはどういうことでしょうか。イエスの言う神の国、それは、神の御子イエスが来られた。しかも十字架でかかって死んでよみがえるため。それによって罪の赦しと永遠の命が与えられる。その福音が語られ、その福音が、人々に信仰を生み、そのイエスが、福音と信仰によって人々を新しく生まれさせるところに神の国は実現し、その信仰が広がっていくという意味での神の国であったのです。ですから山上の説教では「心の貧しいものは幸いです。天の御国はその人のものだから」と始めます。「心の貧しい人」というのは、罪や重荷に苦しみ自分ではもうどうすることもできない心の人です。けれどもイエスは、そのような人のためにこそ、福音は語られ、その福音がそのような人々に神の国をもたらすことを何よりも伝えていたのでした。そのところからも、神の国がどのようなものであるのかがわかるのです。
 ですから、神の国は、福音と信仰を表していると同時に、福音と信仰によって私たちのうちにあるものなのです。私たちのうちにイエスが福音で神の国を実現している。それこそイエスが来られた時点で神の国は始まっているし、福音の種を蒔かれ、それが私たち自身に落ちた時にすでに実現して始まっているということです。そして蒔かれたものが、成長していく過程が神の国の営みであるということです。そのことをイエスはここで意味し伝えているのです。
A,「神の国の恵み@:すでに」
 この所から、私たちにあり、そして誰にでも福音によって与えられる救いの素晴らしさをイエスは伝えています。まずはっきりとしています。神の国は「すでに」実現しているということです。イエスは来られ、十字架と復活はすでに成し遂げられています。そしてそれによる救い、罪の赦しと永遠のいのちは、福音を通して、まさに今、私たちに与えられているものではありませんか。つまり、私たちにはもうその種が撒かれ、それが芽吹いてすでに成長が始まっています。今、私たちは信仰を持って集まっているでしょう。その信仰さえも、聖書は、人によるのではない、神の賜物だと言っています。福音と聖霊のわざであると聖書は伝えています。みなさんその事実が証ししているのです。すでに私たちは神の国にあるし、私たちに神の国がある。しかも、それはただ一方的な福音のみわざ、イエスの賜物として、心の貧しい私たちひとりひとりに神が与えてくださっている、その恵みの事実を教えられるのです。その私たちに神の国を実現しているのは、私たちではありません。いのちの種をまいたお方、そして種を蒔く方を送ってくださったお方がいるわけです。それは、まさしく神であり、神の御子イエスです。そして、その「からし種」は、まさにいのちの福音です。地上ではない、私たち自身にもなかった、天からの素晴らしいプレゼント、「キリストの福音」に他なりません。そのようにして、主ご自身とその約束である福音によって、なんと今、私たちは「すでに」神の国に与かっているのです。神の国はまだ受けていないこれから行くところではありません。私たちはすでに与っている。神の国は私たちにあり、私たちに実現し、私たちにあってなおも成長しているものなのです。しかし大事な点、それを実現しているのは、私たちではない、神の御子イエスとそのみことば、福音であるということなのです。イエスとその福音にこそ、神の国の芽は出て、その福音によってこそ、私たちのうちに成長し木になるのだということです。
B,「神の国の恵みA:福音によって成長させられる」
 ですから、第二の恵みの幸いをイエスは伝えています。まず今言った通り、私たちに与えられた神の国、つまり信仰を成長させるのは福音であるということです。神の国、その木の成長に重要なのは、みことばであり、福音だけだということです。そして私たちの信仰は、このようにイエスとそのことばによって「成長させられていく」ものであるとうことが大事な点の第2点目です。「成長」あるいは「聖化」というときに、私たちは大きな誤解をしてしまうのですが、それは「成長」「聖化」が私たちの業による目標であるという誤解です。けれども、イエスの福音による神の国のメッセージを見ると、成長、聖化は、イエスがご自身の福音による働きであり、それによって神が成長させるものであるということが真の神の国のメッセージです。このところもそうですし、そして、有名なヨハネ15章のぶどうの木の例えは、まさに木はイエスであって、イエスにつながっていることによって、木であるイエスが枝を用いて実を結ばせることを伝えているわけです。ヨハネの福音の例えは、みなそのような福音による新しいいのちの歩みを伝えています。4章では「わたしが与える水が、いのちの泉が湧きでる」とあります。6章では「わたしが与えるパン」と、やはり、イエスが与えるものを受けるときに、新しいいのちが始まっていく、湧き出ていく、霊の糧となっていく、そのようにイエスは伝えています。新しいいのち、ここでは神の国とも表されていますが、それはそのようにどこまでも神の賜物であり、神が成長させるものであることが、聖書が伝える福音なのです。それはパウロにあっても貫かれています。パウロにあっては、クリスチャンはもちろん教会も、福音によって神が成長させると言ってます。このようにイエスは、恵みとして成長を言っているのです。ですから、私たちは福音につながっているなら、福音に生かされるのであるなら、それは安心していいのです。律法的になる必要はありません。なぜなら、イエスが成長させる新しいいのちを生かされているからです。そうであるからこそクリスチャンであることは喜びであり平安になるのです。
C,「神の国の恵みB:成長はキリストの目にあって、徐々に、日常において」
 そして、さらに幸いを見ることができます。それはそのキリストがなさる成長は、「すぐに」とか、あるいは、「人の目に判断できる」ものとは異なるということです。人はすぐに結果を見たいし、すぐに、そしてその見えるもので判断してしまいやすいかもしれません。ある人々は、聖化というのは、劇的な変化の体験なんだと教える教えもあります。ある日から劇的に聖人のように変わる、全く罪を犯さなくなる、それが聖化なんだと教える教会もあります。けれども聖書が伝えるのは、そういう成長ではないということです。イエスは、このように、小さな種から神の国をまず始めています。そしてそれは地に蒔かれても、すぐに木にはなりません。本当に高速のビデオカメラで再生し観察しないと成長が見えないぐらいに、種は徐々に成長していき芽を出すわけです。そして自然の様々な試練を受けながら、少しずつ木になっていくわけです。イエスは、私たちのうちにある神の国はそのようなものだと言っています。最初は小さなスタートです。しかし本当に徐々に徐々に、それはイエスとその福音によって成長させられていく。それは自分でも、あるいは周りから見ても、何ら変化はないように見えるかもしれない、それはまさに鳥が、その木が成長していることもその成長する動きなどもわからず、その木の上に巣を作るようにです。「鳥が巣を作る」というのは、自然の日常、営みを表しています。しかし、神の国、そして成長というのはそのように、まさに劇的な変化も、成長しているという意識もない、その中に、神が福音を通して働いて、なさっている、実現していく、そのようなものであるということです。ですから、私たちが「成長はこうだ、こうなったから成長している」とか、判断、断定できるような成長ではないということです。私たちの目にはわからない、しかし神の目にあっては、福音に聞き福音に生きるなら、確実に成長させられているということです。感謝なことです。私たちは自分で自分を見て、こうだから、これが足りないから、これができないから、成長させられていないという必要はないのです。ひょっとしたら、そのような悔いた心や、前回のヨシャパテのように、「どうすることもできません。助けてください。」という心そのものが、神の導きによる一つの成長とも言えるかも知れないわけです。成長はどこまでも神の目にあってであるということなのです。全ては、福音に聞き、福音に生きる時、それは確実にあるということなのです。

4.「神の国の福音は力がある」20〜21節
 さらにイエスは、その小さなものは力があることを別の例えで教えています。
「また、こう言われました。「神の国は何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種を取って、三サトンのコナに混ぜたところ、全体がふくれました。」20〜21節
 パン種は、聖書で多くの場合は、罪の例えとして用いられます。小さな罪でも広がって大きくなっていくものとしていろいろなところでイエスも例えていますが、ここでは、神の国、福音に例えています。そのようにここでも小さな存在であるパン種。最初小さなことから始まっていても、その神の国、福音は、広がっていくとイエスは言っています。ここで、神の国の広がりをイエスは伝えているわけです。私たちに与えられてイエスが福音によって成長させている、私たちのうちにある神の国、神の国にある私たちは、本当にそれは小さな信仰であるだけでなく、世にあっても小さな存在です。しかし、そのイエスの福音、神の国は、広がっていく不思議な力があるのだということをイエスは示すわけです。私たちは、まさにそのパン種のような何倍にも大きく働く福音によって新しく生かされているのです。今日見てきたように、私たちが福音によって生かされていることそものが、神の国が実現していることだとイエスは言いました。ですからその福音によって私たちが生かされていくとき、そこには私たちの思いを超えた確実な力があり、神の国の広がりがあるということを教えられているように思うのです。
 福音は力です。私たちに信仰を与え、信仰を強め、私たちを日々新しくし、私たち自身にはできない神のみこころ、神を愛し、隣人を愛し、敵を愛し、赦す、その力を与えるのは福音だけです。福音の力です。その私たちがこのいのちの福音に生かされていくことこそ大事なことです。そのときにこそ、私たちを通して神の国は泉のように湧き出て広がっていく、パン種のように大きくなっていくからです。私たちが律法ではなく、福音に聞き、福音に生かされるときにです。そこにこそ十字架の罪の赦しとイエス様の復活のいのちが私たちに天の新しさを与え、主が私たちに働き、主が私たちに生きるからなのです。
 私たちは、イエスの恵みのメッセージに聞こうではありませんか。福音をなおも受け続けようではありませんか。そして信仰が与えられ、キリストにあって日々新しいこと、すでに神の国にあることを確信し、安心してここから遣わされていこうではありませんか。そしてその福音による安心と喜びをもって、神からの力をいただいて、神を愛し、隣人を愛していこうではありませんか。