今週のメッセージ 


2022年8月7日

「わたしの家は祈りの家と呼ばれる」


 聖書箇所:新約聖書 ヨハネの福音書 第2章13節〜25節




1.アウトライン


過越の祭りが近づき、イエス様はエルサレムに上ります。過越の祭りは、アビブの月の14日ですから、3月ごろのことです。神殿は四角形の丘に、高い石垣に囲まれて構築されました。大きさはおおよそ縦480メートル、横300メートル。東京ドームの一辺が216メートルですからその約2倍です。

また当時のエルサレムの人口は約5万人ですが、祭りになるとパレスチナ以外のディアスポラ(離散)ユダヤ人たちも訪れるので、住民と合わせると、その数は約3倍の15〜16万人近くになったそうです。

この日、神殿は、夜明け前ごろからイスラエル人でいっぱいでした。広場の南側にある「王の柱廊」では、雄牛や羊、籠に入った鳩など犠牲動物を売る商人や、ローマ貨幣をユダヤ貨幣に交換する両替人で混み合っていました。          


その宮の中で、イエス様は、牛や羊、鳩を売る商人たちや両替人たちを見て、細縄でむちを作り、羊と牛を追い出します。また両替人の金を散らしてその台を倒します。鳩を売っている者たちにはそれを持っていくように言いました。これが、イエス様の宮きよめと言われる出来事です。

マタイの福音書21章12節には、「わたしの家は祈りの家と呼ばれる、と書いてある。それなのに、お前たちはそれを強盗の巣にしている」と記されています。弟子たちはこれを見て、「あなたの家を思う熱心が私を食い尽くす」という詩篇のことばを思い起こしました。


なぜ神殿で、雄牛や羊、籠に入った鳩などが売られ、両替人がいたのでしょうか。

先ず両替人ですが、神殿税は地元の通貨で払わなければならなかったので、外国から来たユダヤ人たちは両替しなければなりませんでした。次に羊と牛は罪のための犠牲です。鳩は貧しい者や女性のための捧げ物です。多くの人は神殿まで動物を連れてくることができなかったので、ここで買いました。

もっとも両替人は法外な交換率で両替したようです。またいけにえの動物の値段は、どこよりもずっと高かったと言われています。また、そもそも両替人や商人に宮の中で屋台を開くことを許したのは、宗教指導者たちです。彼らは、このやり方が、礼拝者たちには便利で、神殿の維持費も確保できるため、合理的に解釈しました。このため「異邦人の庭」は商人たちでいっぱいで、外国人たちの礼拝が困難になったほどであったと言われています。


イエス様が、羊と牛を追い出し、両替人の金を散らしてその台を倒し、鳩を売っている者たちに出ていくように言ったのを見て、ユダヤ人たちは言います。「こんなことをするからには、どんなしるしを見せてくれるのか。」イエス様は彼らに答えられます。「この神殿を壊してみなさい。わたしは3日でそれを建てよう。」ユダヤ人たちは言います。「この神殿は、建てるのに46年かかった。あなたはそれを3日で建てるのか。」聖書は、これはイエス様が「ご自分のからだのことを言われた」、と記しています。


イエス様のこのことばは、その後世間に広く知られていきます。大祭司カヤパの前でイエス様が裁判を受けられた時、イエス様を死罪にするための証言として引き合いに出されました。(マルコ14: 58) また十字架につけられたイエス様を見て、通りすがりの人たちが、頭を振りながら、「神殿を壊して3日で建てる人よ、もしお前が神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(マタイ27: 40) と罵りました。

今日はこの箇所から、「祈りの家」、「礼拝」ということについて学びたいと思います。



2.イエス様が激しく怒られたわけ ?祈りの家と強盗の巣


イエス様は商人たちに、「祈りの家」を「強盗の巣」にしていると言われました。なぜこれほどまでイエス様の怒りは激しかったのでしょう。

イエス様にとってエルサレム神殿は「自分の父の家」(ルカ2:49)です。同時に「祈りの家」でした。イザヤ書56章6・7節に「また主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」とあります。主に仕え、主の名を愛し、安息日を守り、契約を堅く保つ人に主が与えるところ、それが「祈りの家」です。

       

「強盗の巣」ということばは、エレミヤ書7章8?11節にあります。「なんと、あなたがたは、役にも立たない偽りのことばにたよっている。…それなのに、あなたがたは、わたしの名がつけられているこの家のわたしの前にやって来て立ち、「私たちは救われている」と言う。それは、このようなすべての忌み嫌うべきことをするためか。わたしの名がつけられているこの家は、あなたがたの目には強盗の巣と見えたのか。そうだ。わたしにも、そう見えていた。」

偽りの言葉に頼り、他の神々に従い、それでいて「私たちは救われている」と言う者たちは、自分たちの欲のために「祈りの家」であるエルサレム神殿を利用しているだけだ、「強盗の巣」にしている。それがイエス様の激しい怒りの理由でした。



3.礼拝の場は、神様の恵みに感謝するところ


イエス様の言われる「祈りの家」は、礼拝の場です。では、そもそも礼拝とは何なのか。

詩篇122篇に、礼拝者たちが「主の御名に感謝するために」エルサレム神殿に上って来たことが書かれています。ここにあるように、礼拝の本質は神への感謝です。神様が私たちにしてくださったことに対する感謝です。神様が罪人に対していつくしみ深い取り扱いをしてくださった、そのことに対する感謝、これが礼拝の本質です。


また詩篇123篇では、礼拝者たちは、主に助けを求めています。奴隷の目が主人に向けられるように、主が自分たちのために手を伸ばしてくださることを待ち望んでいます。3・4節にあるように、礼拝者たちは「安逸を貪る者たち」から「あざけり」を、「高ぶる者たち」から「蔑み」を受けていて、「もういっぱい」でした。これがもう一つの礼拝の本質です。礼拝が「主が与えて下さる恵みを受ける場」だということです。


ルターは、神様は、「私たちのことを心配してくださる方、私たちに親しく近づいてくださる方」だと言いました。神様は、礼拝を通して、説教と聖礼典を通して、私たちに恵みを与えてくださるのです。悲しんでいる、苦しんでいるあなたのために、神様がその手を動かしてくださる、それが礼拝の場です。


招詞のことばを見て下さい。「心の貧しい者たちは、見て、喜べ。神を尋ね求める者たちよ。あなたがたの心を生かせ。主は、貧しい者に耳を傾け、その捕われ人をさげすみなさらないのだから。」 (詩篇69: 32・33)  礼拝は、神様が私たちにしてくださったことへの感謝の場であり、また私たちに福音の恵みを与えてくださる場であることを心に留めましょう。



4 イエス様のからだである教会 (公同の教会)と地域教会


ヨハネの福音書2章20節にある「ご自分のからだの神殿」とは、「教会」のことです。エペソ人への手紙1章23節には「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」とあります。ここに言う「教会」は、私たちが使徒信条で告白する公同の教会です。私たちは、この公同の教会に、キリストにおいて結び合わされているのです。

そして、この公同の教会は、「日吉教会」「柏教会」のように、それぞれの地域にある個々の教会として具体的な姿を表します。私たち信徒はこのような地域教会の1つに所属し、自分たちの教会として愛し、建てていきます。(1コリント12: 7、26・27) また地域に福音を伝えていきます。このように、私たちは地域教会に所属し、またキリストにおいて公同の教会に結び合わされるのです。


それですから、私たちは、同じイエス様のからだにつながる兄姉のために祈りましょう。私たちは、他の方がいまどのような苦しみや悲しみを経験しているのか分かりません。今にも倒れそうな方がいらっしゃるかもしれません。ことばにならない時もあるでしょう。また、今はコロナ禍で礼拝に来ることができない方が多くいます。病気などの理由で自宅礼拝せざるをえない方もおられます。兄姉に寄り添い、主がその兄姉の信仰をおまもり下さるように祈りましょう。私たちの主は必ず助けてくださる神様です。



5 イエス様に聞き従う


イエス様が行われたしるしを見て、多くの人がイエス様を信じました。しかし、イエス様ご自身は、彼らに自分をお任せしませんでした。人の内に何があるかを知っておられたからです。この後、イエス様を「王にするために連れて行こうと」する人がいました。(ヨハネ6: 15)。イエス様のことばを聞いて離れていく弟子たちがいました。イエス様を裏切る弟子もいます。結局、彼らは、イエス様に従うのではなく、イエス様を自分たちの要求に従わせようとしたのです。


しかし私たちはそうであってはなりません。イエス様に聞き従っていきましょう。教会で、自宅で、感謝を捧げ、福音の恵みを頂きましょう。必ずイエス様は、みことばを通じて私たちを最善の道に導いて下さいます。





説教:加藤 正伸 長老