今週のメッセージ 


2022年11月20日


「わたしがいのちのパンです」


 聖書箇所:新約聖書 :ヨハネの福音書6章1節〜15節及び22節〜40節




今日はパンの話をします。前半では「食べるパン」の話し、後半では「いのちのパン」の話しです。

まず前半、6章1節から15節まで。

ここに記されている事は、一般に「5千人の給食」としてよく知られている話しです。他の福音書にもこの話は記されています。イエス様は、歴史上本当にいらっしゃいました。そして今も生きておられます。この話しも本当にあったことです。


時期は春、3月か4月、過越のお祭りが近づいた頃のことです。過越と言うのは、イスラエルがモーセによってエジプトから脱出した時のことをお祝いする日。ユダヤではペサハといいます。この時は各家庭でゼローアと言われる子羊の料理を、マロールと言われる苦菜とマツァと言われる種を入れないパンと一緒に食べるのだそうです。

1節に、大勢の群衆がイエスについていった、と書かれています。この人たちは、ガリラヤの人たちだけでなく「ユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうツロ、シドンのあたりからも…やってきた」(マルコの福音書3章7・8節)人たちでした。ツロとシドンはユダヤでは無く、フェニキアの地中海に面した都市です。 イエス様が病気を治してくださる方だと言う噂を聞いていろいろな場所から大勢の人が集まってきた。今も同じですね。病気を治して欲しい人が名医を探して出かけて行きます。

ヨハネの福音書には、38年間病気にかかってた人のことが記されていますが、マルコの福音書1章、2章には、シモンの姑を癒したこと、様々な病気にかかっている多くの人を癒されたこと、多くの悪霊を追い出したこと、中風の人を癒されたこと、安息日に片手の萎えた人を癒されたことが書かれています。 イエス様は、ご自分のところに来るこれらの人々を、羊飼いのいない羊の群れのようにあわれみ、教えられ、癒されました。

さて、夕方になったのでイエス様はその人たちに食物を与えようとされます。そしてピリポに「どこからパンを買ってきて、この人たちに食べさせようか」と言います。もっとも、イエス様は、初めから群衆たちに食物を与えようと考えていて、ピリポの信仰を試して言われたのだと書かれています。

即座にピリポは答えます。男だけで5千人。女性と子供を入れると1万人。1人分約200円とすると200万円。1デナリは、当時の1日分の労賃。これを仮に1万円と考えると200デナリは200万円。それで200デナリのパンでは足りませんと答えます。ピリポは「実際的な人物」だったようです。 皆さんの周りにもこのようなお金の計算が早い人はいませんか。「足りません」これがピリポの答えでした。

隣にいたアンデレは、ヨハネとともに1番最初にイエス様の弟子になった人です。そのアンデレがイエス様に言います。「ここにいる少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」パン5つと魚2匹しかない。「それが何になるでしょう」これがアンデレの答えです。ピリポはお金に着目して「足りません」。アンデレは持っている物に着目し「それが何なるでしょう」と答えました。

もし私たちがイエス様と一緒にいて、同じようにイエス様から聞かれたらどう答えるでしょう?やはりこの2人の弟子たちと同じように答えたと思います。私たちにはそうすることしかできません。しかし主はご存知です。ですから私たちはどこまでも、自分たちの判断ではなく、主の御心を求めていきたいと思います。

またここで、イエス様はピリポを試したと聖書に書かれています。なぜイエス様は試したと思いますか。これは、ピリポに信仰的な立派な答えを求めていたわけではなく、この経験を通して、イエス様のことをピリポに悟らせるためです。イエス様は弟子たちの信仰を育てようとしたのだと思います。

さて少年はイエス様に、持っていたパンと魚を差し出します。イエス様は、それらを手に取り、感謝を捧げてから座ってる群衆に分け与え始めました。その時奇跡が起こります。わずかのはずのパンと魚が、群衆たちに、望むだけ与えられたのです。

人々はこの奇跡を見て、「この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言い、自分たちの王様にしようとします。しかしイエス様は、そのことを知って、ただ1人山に退かれました。多くの人は、奇跡を見て、イエス様が神の子救い主だと信じました。しかし中には、そのイエス様を自分たちのために利用しようと考えた人がいたのです。



後半は6章22節から40節まで。


翌日のことです。給食の奇跡を見た群衆のうちの何人かが、イエス様のあとを追ってきます。この人たちは、イエス様を利用しようとする人たちでした。湖の反対側でイエス様を見つけて言います。「先生、いつここにおいでになったのですか」イエス様はこれに直接答えることをしませんでした。彼らが自分を探しに来た理由がわかっていたからです。

イエス様は彼らに言います。あなた方がわたしを捜しているのはパンを食べて満腹したからでしょう。「なくなる食物のためではなく、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。」これは、いのちのことばを求めなさいと言う意味です。しかし彼らはその意味が分かりませんでした。彼らは、病気を治してくれたり生活を保障してくれる人を求めていたのです。

イエス様は彼らに、「神があなた方に求めるのは、神が遣わされた者を信じることだ」と言います。すると彼らは、「あなたがモーセがしてたようなことをしてくれたら、私たちは信じる。同じような事をあなたはできるのか」と言いました。かつてイスラエルの人たちがエジプトを脱出し、荒野で食べるものがなくなった時、モーセは神に祈り、神はその祈りに答えて人々にマナと言う食べ物を与えられました。彼らは、そのようなことができるのか、とイエス様に言うのです。

イエス様は、モーセがパンを与えたのではなく、神様が与えたのだ。しかし今、神様は、「あなた方に、天からまことのパンをお与えになる。」わたしがそれだ。「わたしに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じるものはどんなときにも、決して渇くことが」ない、と言われました。これは、イエス様を信じるものは、死ぬことがなく永遠の命を持つということです。しかし彼らは、「食べるパン」と「生けるパン」との違いを最後まで理解できませんでした。彼らがイエス様の後を熱心に追ったのは、自分たちのために利用することを考えていたからです。  



イエス・キリストの救い


若いときは、学ばなければならないことが非常に多いですね。今の中学生は公民という時間に、情報リテラシー、情報を取捨選択する能力を身に付けることを学びます。私たちは情報社会といわれる時代に生きています。コンピュータとネットワークが大きな役割を果たしています。

また地域の友達だけでなく、外国の方々とも関わることが増えてきています。誰とでも互いを尊重しあい、平和な社会を創造していくことが求められています。

しかし、情報を上手に取捨選択し活用するのは人間である自分です。地域の友達や外国の方々と仲良くするのも人間である自分です。人間は心や霊を持っています。自分が、自分を見失わずに生きていくには、真の神を知る必要があるのです。

イエス・キリストは、罪からの救いや、永遠のいのちを私たちに与えてくださいます。神様は、すべての人を救うため、ひとり子イエス様をこの地上に遣わされ、十字架の死と復活により、私たちの罪を赦し、また罪と死と悪魔の支配から解放してくださいました。これが福音です。イエス様こそ、私たちの心の飢え、渇きを満たして下さる唯一の方です。



まとめ


今日は、食べるパンといのちのパンの話をしました。心と霊を持つ人間が、この「いのちのパン」を食べるとき、 神とそのひとり子イエス様を信じるとき、真の人生を歩むことができるのです。

また既に信じている人には、いつもイエス様がそばにいて下さいます。5つのパンと2匹の魚のような小さな捧げものでも神様は喜んで受け入れて下さり、ご自身の栄光のために用いてくださいます。イエス様を信頼して歩んでいきましょう。



説教:加藤 正伸 長老