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<今朝のメッセージ> 


2021年10月24日
「わたしが、あなたを多くの国民の父とする」
(この説教はLutheran Study Bible(ESV/CPH)を用い参照しています)
■音声はコチラ


 聖書箇所:旧約聖書 創世記 17章3〜5節



1.「前回」

 イシュマエルが生まれてから13年後の99歳になったアブラムに、主が現れ「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ」と語り掛けられた言葉に注目しました。神の語り掛けがなく、イシュマエルが健やかに育っている、その13年は、人の目には、イシュマエルこそが、主に約束された子供であると思い込ませ、平穏さを感じさせる年月であり、それによって神の約束と恵みと計画の確かさを静かに待ち委ねられない、ということがアブラムにも当然、起こりうるような13年であったのでした。しかしそのような中でのこの主の言葉は、ご自身が全能の神であり、不可能なことも可能にする真実な神とその言葉であることをアブラムに思い起こさせたのでした。そして、神の「わたしの前を歩み、全き者であれ」という言葉の幸いも教えられました。それは、神が行うより先にあなた方がまず完全になり全てを達成するように歩めという、律法の命令ではなく、全能で真実な恵みの神と共に生きることの招きであり福音であり、「全きもの」とは、その全能の真実な恵みの神を信じる信仰によってこそ義とされたアブラムへの、その義に生きるようにという福音であったのでした。アブラムはその恵みに気づかされたからこそ、その時、ひれ伏して、悔い改めたのでした。今日のところでは、そのような悔い改めるアブラムに、主はなおも裁きで刺し通したりはされません。主はこれまでも語ってきた約束を再び思い起こさせるように契約を語るのです。


2.「契約:変わらない神の一方的な契約(相互契約ではない)」」

 そのひれ伏す直前から、神の方から、「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」(2節)と約束があり、それに「アブラムは、ひれ伏した」と続いているのですが、神はアブラムに続けて仰せられるのです。4節からですが、
「「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。」4〜6節

A,「変わらない約束を何度でも」
 主は、主の方から語りかけ、主の方からこの契約を与えます。これは、新しい名前を除いては、12章、15章と、神は度あるごとにアブラムに現れてきては語りかけ、変わらない約束を思い起こさせてくださった、その約束と同じ約束であり、それを繰り返され、更新してくださっている言葉です。これまでも触れてきたように、その契約、約束というのは、相互契約、つまり互いに履行、つまり行い果たさなければいけないような、約束ではありません。あくまでも主なる神様からの一方的な、主が与え、主がそのようにするという恵みの約束のことです。事実、相互契約のような行いの履行を求める契約の場合は、9節以下の割礼の命令のところをみればわかるように、あえて、神は、改めて「契約を立て」ると言い「守らなければならない」と述べていることがわかります。それはまたいずれ見て行きますが、そのように神は、これまでと変わらない、大いなる国民とする。子孫を増やす、あなたを大いなる国民の父とするという、アブラムがハランを出た時から変わらない約束を、繰り返し語ってくださっていることがわかります。

B,「義人である同時に罪人だからこそ」
 先週の通り、人は、どこまでも罪人であり、信仰によって義人であっても、同時に、肉にあっては罪人である現実があります。肉にあっては悟るのに遅く、自らでは決して、信仰を生み出したり始めたりできません。信仰は神がその言葉と聖霊によって与えてくださるものです。そして、人はその信仰を自分で保ったり、強めたり、成長させたりすることもできません。それも、神が絶えず語りかける言葉と聖霊の働きによるものです。しかし神はそのような現実の私たちにこそともに歩み、働いてくださる真実と憐れみに満ちた神であることの証しがこの契約にはあります。アブラムは信仰の父とはいえど、神でもなければ聖人ではなく、どこまでも罪人であることは見てきた通りです。疑いや恐れもあれば、決めつけや解釈もありました。目の前の平穏に神の祝福があるかのように判断してしまう弱さもあったことでしょう。彼は私たちと変わらない罪深い弱い人間です。しかし、神はそのような信仰者に、何度でも同じみことば、同じ約束を繰り返し繰り返し方ってくださっていることがここにもわかります。

C,「怒りではなく、現実を知り憐むがゆえに」
 これは神の「あなたはなんて悟のが遅いんだ。なんで信じきれないのだ」という神の怒りだと思ってはいけません。これは、罪深い人間、アブラムを覚えての、神が私たちのためになしてくださる、それこそ目的に沿った働きなのです。わからないからこそ、悟れないからこそ、信じ信頼することから直ぐに目を離してしまい、約束よりも自分の思いに行ってしまうのを知っているからこそ、神はいつでも常に、何度でも、繰り返しでも、語ってくださる、そのようなお方であるということです。ですから、私自身も含めてです。自分は悟っている。悟に早い。などと、思うより、自分のそのような忘れてしまい。目をそらしてしまい、恵みを忘れてしまう自分の現実を知ることの大切さにこそ教えられ、このところから悔い改めさせられますね。しかし、そんな私たちのためにも、神はいつでも、同じ福音を、十字架と復活のイエス様を中心とした、指し示した、福音のメッセージを繰り返してくださり、クリスチャンとして誕生し歩みを始めさせ、今も新しく生きさせてくださる力である核心に立ち返らせてくださることは、とても感謝なイエスの私たちへの働きの証しであることを教えられます。


3.「契約:新しい約束と名前」

 そして、同じ約束に加えて、主は新しい約束も加えてくれていますね。それが新しい名前です。
「あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」5節

A,「アブラムからアブラハム(多くの国、国民の父)へ」
 ここで、アブラムに主は、もうその名前で読んではならないと言います。そして新しい名前「アブラハム」を与えるのです。アブラムという名前は、父テラから名付けられ名前であると思われますが、その意味は、「気高い父」という意味があります。テラ自らを指してその子としてつけたのか、自分の子供への期待としてつけたのかわかりません。日本では、名前に期待を込めてつけることが多いですが、ほかの文化、創世記のアブラムの時代の文化が名前をつけるときの思いはそれと同じであったかどうかはわかりませんし、皆文化や国によって違いはあることでしょう。しかし、人間が名前をつけることとは違い、神がつける名前には、神の計画が込められているものです。ペテロもそうであったですが、このアラブハムという名前の意味は、「多くの国、国民の父」という意味があります。まさに「わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」と、神が述べる通りであり、この言葉、あるいは、この契約全体に沿った名前を与えてくださったのです。

B,「わたしがする」
 しかも、それだけではありません。この言葉は、とても素晴らしい神の言葉、約束ではありませんか?
「わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」
 日本語のわかる方であれば、はっきりとそのメッセージがわかります。主語は誰ですが、ひらがなの「わたしが」ーそれは神ご自身の言葉を表していますし、事実、ここは主なる神が語っている言葉です。神ご自身が「わたしが」と言っている。その神ご自身が、あなた、アブラハムを、多くの国民の父と「する」と言っているのが、はっきりとわかるでしょう。ここに何の難しさがありますか?何かここに難しいメッセージがありますか?そう、ここには、アブラムに、「あなた自身が、自らアブラハムになりなさい」とも言っていないし、「あなた自身が、自分で多くの国民の父となりなさい」とも言っていないし、書いていません?神はそうして欲しいときは、9?10節の割礼の命令でわかるように「そうしなさい」と言ってくれていますが、ここにはそう書かれていないし、そのようなニュアンスさえありません。もうはっきり「わたしが」とあり、全能の神であるわたしが、主ご自身、神ご自身が、「あなたを多くの国民の父とする。わたしがあなたにアブラハムという名前を与えて、あなたをアブラハムとしたように、その名の通りの大いなる国民の父と、わたしがする」と仰ってくれているのがはっきりとわかるでしょう。アブラハムのこれからの信仰の道筋も長いです。この後も問題と試練の連続です。何度でも悔い改め、何度でも神に伺いながらの歩みになるではありませんか。しかし、その歩みにおいて、「自分でその約束を果たせ、実現し、その約束したものをあなたが成せ」とは、神は決して言われていない。「わたしが?する」と神は言われる方なのです。そうだからこそ、この契約は、決して相互契約ではないこともはっきりとわかります。神からの一方的な、神が果たす、恵みの契約、約束であるということなのです。これはみなさん、素晴らしい恵みのメッセージであり、これこそ私たちへの福音なのです。皆さん。信仰者であるその信仰の歩みの真理がそうなのですから、私たちの新しい命の名前、「クリスチャン」「キリスト者」も全く同じであるということです。

C,「逆に考えている:律法と福音の混同:そこに平安はない」
 私たちは全く誤解し、逆に考えてしまうことがあるのではないでしょうか?事実、わたし自身は、クリスチャンホームで育ちましたが、クリスチャンになるとはそのような間違ったイメージ、間違った律法主義的な風潮を、その通りであるかのように間違って信じて大きくなってきました。クリスチャンになる、あるいはクリスチャンである。あるいは、信仰者である、信仰者になるとは、まさにこのアブラハムに語った神の言葉と全く逆で、私たちがまず相互契約で、立派に律法を果たし、立派な人間になり、ある程度の段階や条件、あるいは人の目にかなった敬虔さをクリアし、その相互契約で約束されたことをある程度、自分でも満足できるように果たしていると、周りからも認められ評価され、そこでやっと、クリスチャンとなれる。認められる。あるいは、そのような自分自身の何か義しさのようなもののゆえに、自分がクリスチャンであることに自信を持てる、誇れるのだと。皆さん、そう思っていませんでしたか?残念ながら、クリスチャンホームの多くの子供達は、私自身がそうであったですし、そのように思っていることが多いですし、クリスチャンホームでなくてもそのように思っていることが多いのかもしれません。しかしそれは、福音をまさに律法にしてしまい、律法をあたかも福音のようにしてしまう、律法と福音の混同です。何よりそれでは、いつまでもクリスチャンであることの平安も確信もないです。それは物事を逆にしてしまっています。しかし、事実、神は、はるか昔から、アブラハムにはっきりと言っているでしょう。

D,「誰が」
「わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」
 「わたしが?する」と。信仰者として召されたクリスチャンもこの同じ恵みこそを受けているのです。私たちは、神との相互契約の律法の言葉で、自らの力で信仰者になったのですか?違います。相互契約どころか、私たちは神もキリストも知りませんでした。しかし、まさに神であるキリストが、一方的に私たちのところにきてくださり、この十字架と復活を果たしてくださり、私たちの義ではなく、主ご自身の義と新しいいのちを、罪の赦しと救いを実現し与えてくださったのではありませんか?その神であるキリストが罪深い弟子たち、私たちのために一方的に食事を整え、聖餐を定め、何もわからない、誰が一番偉いかを論じている弟子たちに、み言葉の力のゆえにパンとぶどうを通して、象徴ではない、み言葉のゆえの事実であるイエスの体と血を分け、与えてくれたでしょう。その一方的な神の福音の実現と約束のみことばのゆえにこそ、私たちは一方的に捕らえられ、一方的にイエスは救い主であるという信仰を与えれ、信じて告白したから洗礼を受けたのです。そうであるなら、もう救いの確信はそこにあるではありませんか。イエスの成就、「イエスが私たちのためにしてくださった」を告白して私たちはクリスチャンです。そして、「私たちが神のために」の律法ではない、まさにその「イエスが私たちの全てしてくださる」の福音を信じ、福音に生かされること、福音によって日々歩むことが、私たちの新しい生き方であるのですから、そうであるなら、なぜ律法の先に、クリスチャンであることの確信を見ようとするのですか?それはまさにボタンの掛け違いです。物事を逆に捉えてしまっています。せっかくの素晴らしい心地よいものとして与えてくださっている天の宝を、私たち自身が、それを逆に捉え、重荷で開きたくない宝に変えてしまっています。

E、「神が「する」の意味:福音のうちに遣わす」
「わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。」
 神はアブラムにアブラハムという新しい素晴らし名前を与えてくれました。そして神は、その言葉の通りに、神ご自身が、アブラムを、アブラハムにするのです。そして、事実そうなっていくでしょう。私たちクリスチャン一人一人も全く同じなのです。この恵みにおいて、神が悔い改める私たちを日々新しくしてくださり、日々、この福音のうちに私たちを遣わしてくださるのです。アブラハムがまさに「神がそのアブラハムにする」生涯の中でなおも生きていくのですから、この後も罪深い一人として歩んでいくのですが、その恵みと福音においてこそ、彼も日々新しく、恵みの中で彼はその神の福音の働きのゆえにこそ、神によって聖い実を結ばされていくのです。まさに前回も言ったように、詩篇119篇1節にある通り、信仰者は、神の律法に強いられてではなく「幸い」のうちに「喜んで」従っていけます。ですから9節以下の割礼の命令も、この福音の恵みが前提にあり、福音に促されてこそ、アブラハムは命令に従っていくと言うことです。それは、アブラハムが従っているのですが、その従わせる力と動機は、自分から出たものでも律法でもない、どこまでも福音、神の言葉と神の力によるものなのです。神の前に本当に良い行いも隣人愛も、そこに源泉があるのです。律法の動機で、強いられてなす律法は、パウロもルターも言っているように、信仰から出ていないのでどんなに人の前で立派でも罪でしかなく、誇りや誉れや責任も全て人に求めます。それは神の前では、良い行いでも真の服従でもありません。神が良い行いをも備えてくださっているとある通り、私たちが信仰において、喜んで平安のうちになす行いは、全てキリストのわざなのです。


4.「結び」

イエスも言われます。
「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」ヨハネ15:4〜5節
 今日も「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と遣わしてくださるイエスにしっかりと結びつけられ、ここから平安のうちに遣わされて行きましょう。