<今週のメッセージ> 


2020年9月20日
「いのちの息を吹き込まれ」
(この説教はLutheran Study Bible(ESV/CPH)を用い参照しています)

 聖書箇所:旧約聖書 創世記 2章4〜7節



1.「前回」

 7日目の記録を見てきました。神は、創造の完成を告げられて、その全ての働きから離れ休まれ、その日を祝福し聖とされました。しかしそれは神が疲れて休む必要がある弱さや欠点を持っているとか、よって神のために安息し、神のために祝福し聖とされたということではありませんでした。律法の完全な説明者であり説教者であるイエスが、安息日について「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです」(ヨハネ5:17)、あるいは、「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です」(マルコ2:27〜28)と言われている通り、安息日は、神のためでもなければ、安息日のために人が創造されたのでもなく、人のためであり、人が肉体をやすめ、そして、その心と霊の安息のためであり、神はむしろその言葉をもって人に仕えてくださる日であったのでした。それは堕落の後は尚更であり、肉体の労苦のみならず、何よりその罪の世にあって、人はいつでも闇の中にあり心が疲れ果てるものであり、それはクリスチャンになってからでさえ、私達は光を見失い、平安を失いますし、そして日々罪を犯すものでもあります。そんな私達のためにこそ、イエスは私達に安息と平安、そして罪の赦しによって私達を日々新しく聖とするためにこそ、神が定められた安息の聖なる日に仕えてくださっている幸いを教えられたのでした。そのように礼拝は、私達が神に仕え、私達が一生懸命、神のためにその日を聖とするのではなく、神がどこまでも私たちに仕え、私達を聖めてくださり、平安のうちに遣わしてくださる時なのです。それが7日目の記録でした。


2.「経緯」

「これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき」4
 まず「これは」「経緯である」とあります。「これは」とある言葉は、厳密には「これら」です。そして「経緯」とありますが、「トールドート」という言葉、家系、系図とか歴史とか成り立ちという意味になります。英語訳ESVですと、“generations”という言葉が使われています。世代とか、単数であれば「一世代」という意味になるでしょう。5章1節でも同じようにアダムの系図として使われ始まっています。このところは、そのように1章で述べられてきた創造された天地、ここでは特に、人間のはじめですが、そのはじめの人間から始まる子孫の系図の端緒の説明、歴史、成り立ちです。ですから、この後の言葉、「神である主が地と天を造られたとき」と始まっていますが、そこでは、これまでは「天と地」と書かれていましたが、ここでは「地と天」と逆になり、地上のことが中心になっています。そして1章までの「神」(エロヒーム)ではなく「神である主」(アドナイ・エロヒーム)という言葉にも変わっています。それは神がモーセに「わたしは主である」とご自身を啓示されたその言葉でありますから、モーセは、とりわけ、自分とイスラエルの民の主なる神からの民への取り扱いの記録として記していることも気づかされるところです。さらにはこれまでは「無から有」というような「創造する」という言葉(バーラー)が使われていましたが、ここからは具体的に何かの物質から「造る」(アーサー)という言葉が使われていきます。


3.「地の恵み、そして雨の恵み」

 その4節にある「時」、ですが、3日目に、下の水が一所に集まることによって海ができ、乾いた地が現れますが、その時のことになるでしょうか?5節ではこうあります。
「地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。」5〜6節
 1章を思い出していただくと、創造の3日目に、乾いた地が現れましたが、その初めには木も草もありませんでした。そしてそこに1章11節、「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった」とあり、その3日目に木々や草花が誕生していました。そして人間の誕生は6日目の出来事でした。この5〜6節は英語訳ですと、神が雨を降らせず、地を耕す人がおらず、「水が地から」とありますが、水とはいっても英語ですと“mist”とありますので霧や露が地から湧き、地を潤していたという感じで、未だ茂ような低い木々や小さな草木さえ生じていない、というニュアンスです。そこから、7節「神である主は」と続いていることから、ここは、創造の3日目のみのことではなく、その3日目の「芽生え」から始まり続いている、植物が芽をだし成長を少しずつ始めた6日目までの日々を表しているように思われます。始めから高い木々や草花が青々と茂るような大地ではなかったようです。そしてやがて人が造られ、人に被造物を治めさせるのですが、それはこれまで見てきたように、人が大地や自然に「仕える」事によって正しく治めることであり、そこでは何より大地を耕すという重要な務めを神は想定していて、それによって大地に人や動物の食物となる実を結ぶ木々や草花や野菜などが青々と茂っていくことを神は計画していたことも見えてくるのです。また同時に、雨を豊かに降らせることによっても草木が茂っていくのですが、「神が雨を降らせていなかった」とあることからも、雨一つ降ること、自然の気候の営みの一つ一つも神の支配にあることも教えられます。雨が降るのも神の恵みであり、ただ耕すだけではダメで、神が雨を降らせるからこそ、作物も育ちます。神はそのように世界を秩序立て、人間と動植物が一つの調和のもとで生きていくことを計画しているわけですから、人間がまさに支配者となって、そのバランスを崩すかのように、自然破壊や大気汚染などをしていくことが、当然、人間の命の必要を損なうことになることを私たちは気づかされる思いがします。


4.「人」

 さて、そのような神の計画のもとで人は作られるのです。
「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」7節

A,「いのちの息を吹き込まれてこそ」
 「神である主は土地のちりで人を形造り」とあります。「形造る」という言葉、これは陶器師を想起する言葉であり、しかも神は、無から人を造ったのではなく、創造された世界に存在する被造物の物質から形作られたことがわかります。「人」という言葉、ハーアーダームも、「土地」を表す言葉、ハーアーダーマーも、最初の人の名、アダムはそこから名ずけられるのすが、どちらの言葉も、陶器を作る赤茶色の粘土と関連しています。そしてそこに、「生きものになった」とありますが、ただ生きものとなったのではなく、「いのちの息を吹き込まれ」ることによってでした。それは動物とは異なる、人にのみ記されている最初の誕生の記録です。その「いのちの息」ですが、それは、神ご自身の持つ賜物として与えられるいのちの息であり、それは神の霊とも表されます。神は「われわれのかたち」「われわれの似姿」に人を創造されたと見てきましたが、このように、本来は、すべての最後に、土から形取られたに過ぎない存在であったものに、まさに神のいのちの息、霊を吹きかけられてこそ、そのただの土の器に過ぎないものが、神の言う、「われわれの形」、三位一体の神の似姿とされた、それが人間のいのちの最初であり本来の姿であることを教えられるのです。これはとても大事な教えではないでしょうか。
 みなさん、我々人間は、神のいのちの息を吹きかけられなければ、生き物となりませんでした。ただの形作られた土塊に過ぎなかったのです。このように人の生き物、いのちの意義は、他でもない、この神のいのちの息、神の霊である聖霊にあるということが見えてきます。だからこそ、人はすべての被造物を支配するように神の被造物を託されはしますが、しかし、人は、堕落するまでは、まさに神の霊とその神の霊が働くみことばによってこそ生きていたでしょう。神の霊と言葉に支え導かれて、人は、正しく被造物を治め、仕え、また大地を耕し、植物を育て、他のいのちの祝福が受け継がれていくようにと、生きて行きますね。そして、そこには、神とその祝福、その言葉への信頼もあり、平安もあります。それはすべて神のいのちの息、聖霊のゆえです。

B,「罪:何を失い、何が損なわれているのか?」
 しかし、3章の堕落によってそのすべてが損なわれていくでしょう。人はもはや正しく治めることも仕えることもできません。平安のうちに耕すのではなく、苦しんで地を耕すようになります。生じた作物は、神の恵みであるのに、自分優先の所有であるかのように奪い合うようになり、分け合うことができません。神の賜物、神の祝福であるのをまさに忘れたかのように、人はそれに対して、なんでも土地でも資源でも、自分たちこそ中心、神であるかのように、主権と自分の独占を主張するでしょう。そして、神の言葉の祝福を忘れ、言葉への信頼から疑い、そして神の言葉による平安がなくなった結果、不安と恥と恐怖、嫉妬と自己中心、そして争いが人の心を支配するでしょう。いのちの息は損なわれ、あるいは、聖霊を失い、そしてまさにただの土塊が、神のようになりなたい、あたかも自分が神であるかのように、自分が裁判官、自分が正義であるかのように主張するようになります。その罪の影響は今の人間の現実、私自身の罪の現実でもあります。実にここからは、人が人として生きるものであるために、損なわれた大事なものは何なのかが教えられているように思います。

C,「陶器が陶器師へ:逆さに見ている」
 イザヤ書には、「形造る」、あるいは陶器師という言葉を用いて、その歪んだ神と人の関係を示す聖句がいくつかありますね。
「ああ。主に自分のはかりごとを深く隠す者たち。彼らはやみの中で事を行い、そして言う。「だれが、私たちを見ていよう。だれが、私たちを知っていよう」と。ああ、あなたがたは、物をさかさに考えている。陶器師を粘土と同じにみなしてよかろうか。造られた者が、それを造った者に、「彼は私を造らなかった」と言い、陶器が陶器師に、「彼はわからずやだ」と言えようか。」イザヤ29章15〜16節
「ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、「何を作るのか」とか、「あなたの作った物には、手がついていない」などと言うであろうか。」45章9〜10節
「 しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」64章8節
 はっきりと示されています。私達は陶器師である神の手によって形造られた存在です。そしてそんな赤茶色の粘土にいのちの息を鼻に吹き込まれ、生き物となった、奇跡の存在。まさに神の恵みそのもので、私たちは生きているそんな存在ではありませんか。そんな私達を、神は非常によかったとも言われ、私達が何をする前から、祝福され、その祝福を受け継ぐようにとしてくださいました。それだけではない、そのような存在に、被造物を託してくださり、みことばを持っていつでも導いてくださいます。私達にとって、神はお一人です。私達人間は誰も神にも陶器師にもなり得ません。しかしま罪の影響は現実ではありませんか。物を逆さに考えています。人は、あたかも人を作り支配し所有する陶器師であるかのように、他の陶器の上辺のわずかな欠けているところやヒビを見てああでもないこうでもないと、自分の秤で、評価し、裁きます。自分も同じなのにです。自分のヒビや欠けは見えないで、です。まさに初めの罪の結果がそうであったでしょう。まさに陶器が、隣の助け手として与えられたもう一人の陶器を指差して、「あなたが与えたこの女が」と、陶器は、隣の陶器と陶器師に責任転嫁していくでしょう。私達の罪の影響は大きいし、今尚、私達が、私自身がしてしまうことです。肉にあっては、私達は悔い改めてなおも、同じ罪を犯してしまう。何より神と神のことばに背を向け、うまくいかない時、思い通りにならない時に、人や神に責任転嫁をしてしまう、人はどこまでも罪人、救われてなおも、私達は「聖徒であり同時に罪人」なのです。

D,「神は回復のために:イエスは土塊の肉体をとり飼い葉桶、そして十字架へ」
 しかし、そのどうしようもない、絶望的で圧倒的な現実こそを神はご存知であるからこそ、この土塊に過ぎない、罪人のために、御子イエスを同じ土塊の肉体をとって、この世の最も貧しい飼い葉桶の上にこそ送ってくださったでしょう。そして罪人と食事をし共になり、罪人のためにこそ「心の貧しい人は幸いです。神の国はあなた方のものだ」と、言ってくださり、「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と、言ってくださるでしょう。いや信じることさえできない私達に、なんと信仰を与えてくださり、悔い改めと告白を与えてくださり、そして洗礼の水とまさに聖霊を通して、日々、罪深い私達を殺すことによって、日々、新しく生かしてくださっているではありませんか。そう、損なわれたいのちの息は、イエス・キリストの十字架と復活によってこそ、私達に回復され、今や、そのキリストと洗礼による聖霊のゆえに、私達はこのいのちの息を鼻に吹き込まれた時の本来の人間に回復されるのです。恐れや疑いから平安へ、自己中心ではなく喜んで被造物や他者へ仕え、苦しんで食し育むではなく、平安のうちに、食し祝福を取り次いでいく、その本来の姿への回復の門と道は、イエス・キリストにこそあるのです。イエス・キリストにあってのみ、私達はいつでもそこを通っていくことができるのです。
 私達は、今日のこの日も、このみことばからも、私達が罪ゆえに失ったものの大きさ、私達の罪深さとその影響の大きさを知ると同時に、救いようない矛盾と罪に満ちた世の暗黒にあっても、永久に私達のために輝き働いている、飼い葉桶と十字架のイエスを仰ぐことができること、そのイエスの十字架から、叫ぶイエスの声「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」に安心して出ていくことができる幸いを賛美しましょう。そして安心してここから出て行こうではありませんか。