2025年1月1日



「主の御声に聞き従って」

旧約聖書:詩篇 23篇1〜6節



ダビデは、サウロ王から言われのない迫害を受け、生命までも危険に晒されたことがありました。皆さんも、予想もしない困難な状況に直面したときがあったかもしれません。

そのダビデはこの詩篇の1節で、主は自分の羊飼いであり自分には乏しいことはないと歌っています。主とは三位一体の神様。その聖なる方が、自分の羊飼いであり、自分を養い、導き、危険や困難なときには守ってくださる。2節から5節には、そのことが書かれています。

2節。ダビデはかつて羊飼いでした。羊たちに食べるもの、飲むもの、住むところを与えていました。緑の牧場に連れていき川のほとりで水を飲ませていました。彼は羊たちにとって必要なことをよく知っていたのです。そのダビデは、自分が羊たちにしていた以上のことを、神様はして下さる方ということを知っていました。それでダビデは、神様と自分との関係を羊飼いと羊の関係に例えて表現したのです。


3節の「主は魂を生き返らせ」は、魂が生き返ることをいいます。私たちの魂を生き返らせてくださる方は、他ならぬキリストだけです。なぜなら主はご自分の羊である私たちのために、ご自身の命を犠牲にしてくださったからです。(ヨハネ10: 11)

「御名のゆえに私を義の道に導かれます。」新約時代の私たちの場合、キリストが道となって父なる神の御元に導くということです。また「義」とは、キリストを信じる信仰による義、福音のことです(ローマ3: 26) 。

私たちは原罪があるために罪を犯してしまうのですが、キリストを信じたとき、すべての罪が赦され、新しいいのちが与えられます。この新しいいのちにあって、私たちは神様の喜ばれることをできるようになっていきます。


4節。ダビデはサウロから迫害され、ユダの荒野をさまよい、何度もいのちを失いかけました。しかし主が自分とともにおられることを信じ、災いを恐れず、自分を悲観しませんでした。羊飼いは、羊だけで危険なところを通らせません。危機的な状況のときでも、主はあなたと共にいて下さいます。

また「むちと杖」は、懲らしめと訓練の意味があるそうです。自分勝手な自分。その自分にとって主の懲らしめや訓練は、「慰め」になるということでしょう。


5節でダビデは、主は、自分の敵を尻目に自分をもてなして下さると言います。ここでいう食事とは、お客として招待される食事です。このときおもてなしの印として、主人が客の頭に油を塗る習慣があったようです。

皆さんがだれかに陰口や悪口を言われたり、意地悪されるとき、主は私たちを特別にもてなし、特別な食べ物を与えてくださいます。それはキリストの御体と御血です。聖餐によって、私たちの罪を許し、汚れを清めてくださるのです。


6節で、ダビデは、主は、これから先も自分を慈しみ、大事にし、恵みを与えてくださる。だから自分は、これからも神様がご自分を現されるところ、啓示されるところに留まると断言します。神様がご自分を現されるところとは教会です。私たちも主の家に留まりましょう。御言葉と聖餐を大切にしていきましょう。

しかしイエス様は、弟子たちに、雇人と偽りの羊飼いであるパリサイ人に気を付けるように言われました。(ヨハネの福音書10章)ですから、私たちはキリストの名を借りた偽りの教えに注意しなければなりません。


ダビデは、主に全き信頼を置いていました。このお方は誰よりも信頼できる方です。新しい年、イエス様に全き信頼を持って、心を開いて、イエス様の御声に聞き従っていきましょう。


説教者:加藤 正伸 長老



<詩篇 23篇1〜6節>

1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。