2024年12月15日
「わたしが目を留める者は」マリアの讃歌
新約聖書:ルカの福音書1章39節から55節
マリアの讃歌はマグニフィカートと呼ばれますが、これは、この讃歌の最初の言葉が「崇める」という言葉で、そのラテン語がマグニフィカートだからです。宗教改革を始めたマルチン・ルターは、1521年にこのマリアの讃歌の講解書を書きました。
1、マリアの信仰
マリアは、この讃歌を自分に与えられた神様の恵み、深い顧みに感謝し、霊に燃えて歌いました。沸騰したお湯が、鍋から溢れ出るように、心からことばがほとばしり出たのでした。讃歌のことばは、私たちにマリアの信仰を教えてくれます。
(1)47節「私の魂は、主をあがめ、私の霊は、救い主である神を喜び讃えます。」
ここに出てくる「霊」は、人間の最も高く、最も深く、最も尊い部分です。この霊によって、人は、理解しがたい、見えない、永遠のものを把握します。クリスチャンにとって、それは信仰と神のおことばの住まいです。(詩篇51: 12)。「魂」は、その本性は霊ですが働きが異なり、体に命を与え、体を通して働きます。聖書では、いのちと記されているところもあります。魂の中心は理性です。
また「あがめる」ということばは、「極めて尊いものとして敬う、崇敬する」という意味です。ですからマリアは、47節で、自分の理性、命、存在、感覚、能力の全部で主をあがめ、また自分の霊は救い主である神を喜びたたえますと歌うのです。
これは、何か良いことがあるときだけ神様を讃え、不幸が重なると、なんだか神様から見捨てられたような気持ちになって、神様をたたえるのをやめてしまうのとは違います。また自分に才能や知識、お金があるときには、そのことを喜び誇らしく思うけれども、そのことを神様の恵みと考え、感謝することを忘れてしまうのとも違います。マリアは、ただ神が自分に善なる方、自分を助けることがおできになる方であることを信じ、満足していたのです。
(2)48節前半「主はこのはしために目を留めてくださったからです。」
「はしため」ということばは、他の聖書では「取るに足らない女」と訳されています。マリアは、豊かな、また名声や権力のある家庭の娘ではなく、ガリラヤの田舎の、取るに足りない、卑しい境遇にある娘でした。しかし彼女は、神様を正しく恐れ、またその方が自分の救い主であることを固く信頼していました。その置かれた環境の中で彼女は喜んで生活していました。
彼女は、神の母となった後も、以前と同じように、ミルクを縛り、料理をし、食器を洗い、掃除をし、1人の卑しい身分の女性として過ごします。自分に与えられた賜物や恵みを誇る事は少しもありませんでした。
「目を留めてくださった」とは、その取るに足らない自分を、神様は顧みてくださったということです。今日ここにおられる方々も主が目を留めてくださったのです。私たちの教会は、まことに小さな教会、取るに足りない教会ですが、その教会に神様は目を留めてくださっています。
(3)48節後半「どの時代の人々も私を幸せ者と思うでしょう。」
マリアは自分を誇っているのではありません。誇るものは何一つない自分を、神様がこれほど深く愛してくださったということに感謝が溢れているのです。またそれはただ神様がご自身の考えからしてくださったことだからです。
(4) 49節前半「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。」
「大きなこと」とは、もちろん神の子を宿したということです。彼女は、全人類の中で、誰とも比較されない、唯一の人格となりました。
(5)49節後半「その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々に渡って及びます。」
「聖い」と言うのは、取り分けられ神のものにされることです。誰もそれに触れたり、汚してはならない。私たちを聖めてくださるのは、私たちの努力ではなく、神の御わざということです。
またマリアは、「憐れみ」ということばで、神様は自分のように卑しい者、取るに足りない者に目を留めて下さることをすべての人に伝えています。今卑しい、惨めな状態にあっても、神様に信頼と希望を置くことができることを伝えているのです。51節から54節は、いかに神様が憐れみ深いお方なのかを説明しています。
要約すると、人は自分の恵みとして与えられた知恵と力と富を誇ってはならない。なぜなら、そこでは、人は神を見出すことはできないからだ。神に喜ばれることもない。反対に神は人に、憐れみと裁きと義を与えてくださる方だ。あなたが貧しければ、神様はあなたを憐れむ。あなたが力なく圧迫されていれば、神はあなたを救う。あなたが貧しく渇いていれば、より多くの義があなたと共にある、ということです。この箇所は、サムエル記第一2章1節から10節にある、サムエルの母ハンナの祈りに共通しています。
2、主が目を留める者
マリアの信仰は、「主によって語られたことばは必ず実現する」、また「主はこのはしために目を留めてくださったからです。」という信仰でした。そして自分の卑しさ、貧しさを知り、求める人には神は救いを与えてくださるという信仰でした。
マリアは、私たちにとって、いわば神様の恵みのサンプルです。神様は、私たちがそれぞれ遣わされたところで、マリアのように神と人々に仕えていくことを望んでおられます。イザヤ書66章2節「主のことばーわたしが目を留める者、それは貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。」
3、神の子イエス様
天使ガブリエルのお告げ通り、神の子イエス様はマリアを通してこの世に来られました。イエス様がこの世に来られたのは、私たちを罪と死と悪魔から解放してくださるためです。アダムの堕落以後、人類は生まれた時から神に背を向け、滅んでも当然の存在でした。しかし神様はその人間を愛し、人類をご自分と和解させるためにイエス様をこの世に遣わされました。そのイエス様が十字架にかかって死んでくださり、人類の罪の代価を支払ってくださったのです。そして復活され、罪と死と悪魔に勝利されました。このイエス様、聖いお方がこの世に来られた日がクリスマスです。
4、勧め
主は、今、病気で辛い思いをしている方、仕事や介護、育児などこの世での戦いで疲れている方に目を留めてくださいます。また罪に苦しんでいる方に目を留めて下さいます。主を信頼して祈りましょう。54節に「主は憐れみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。」とある通りです。神様がそう約束してくださっているのです。クリスマスの日に、一緒にこの素晴らしい救い主イエス様をお迎えしましょう。
説教者:加藤 正伸 長老
<ルカの福音書 1章39〜55節>
39 そのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。
40 そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつした。
41 エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされた。
42 そして大声をあげて言った。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。
43 私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。
44 ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。
45 主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」
46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。
48 主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。
49 力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、
50 そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。
51 主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、
52 権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、
53 飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。
54 主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。
55 私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」