2024年10月6日



「主よ。いつまでですか。」(要約)

旧約聖書:詩篇6篇



詩篇6篇は悔い改めの詩篇と呼ばれています。イエス様は、「わたしについて、モーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは必ず全部成就する」と言われました(ルカ24:44)。この詩篇に書かれていることは、その後イエス様が成就されました。この詩篇の前半は、心身共に病んだダビデの深い悩みと苦しみからの祈り、後半は信仰の確信と勝利の宣言です。


1節は、ダビデが、主に、自分を怒って責めないでください、懲らしめないでくださいという願いと叫びです。2節では、身体の癒しと魂の救いを祈ります。ダビデは神様の前に、人は罪人であり、神様はその罪を憎み、嫌われる方であることを知っています。3節では、「主よ。いつまでですか」と切なる思いで祈ります。4節と5節で、これまで自分を見守ってくださった主に、どうかもう一度その御目を向けてください、そして敵と死の恐れから助けてくださいと祈ります。

5節では、もし神様に責められてこのまま死んだら、自分は死の国に行くことになり、神様を褒めたたえることはできません。6節と7節では、自分の精神的な苦痛はあまりも大きく、耐えられませんという告白です。現代では、多くの人がパワハラやセクハラ、モラハラや悪質なクレーマーなどで精神的に病になり、苦しんでいます。


しかし8節から全てが変わります。敵への勝利宣言です。喜びの叫びです。主は、自分の泣く声と自分の切なる願いを聞いて、病を癒してくださいました。そしてこれからも、自分が罪深さに苦しむ時、主が祈りを聞いてくださることを確信しています。10節では、もはやダビデは敵を恐れません。神様の栄光を見て、敵であるサタンが逃げていくのです。


ここから私たちはいくつかのことを学びます。

第一に、クリスチャンは魂の救いを得ていることです。ダビデは、自分が病気なのは神様が怒っているからだと考えました。ローマ書6章23節に「罪から来る報酬は死です。」とあります。確かに罪は死をもたらします。しかしキリスト・イエスを信じる者は、神様の怒りを受けません。ローマ書6章23節の後半に「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」とあります。クリスチャンは、病の背後に神様の怒りを感じる必要は全くないのです。

2つ目に、イエス様は、私たちの願いと叫びに耳を傾けてくださる方、そして私たちの弱さに同情してくださる方だということです。イエス様は公生涯で多くの病人を憐れみ、癒されました。イザヤ書53章4節に「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。」、ヘブル人への手紙4章15節には「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。」とあります。

3つ目に、このイエス様は私たちを罪から救うために大きな犠牲を払ってくださいました。救いはタダではありません。私たちは、イエス様がどんなに大きな犠牲を払って死んでくださったのか忘れていないでしょうか。祈りは神様との人格的な関係を持つことです。祈るとき機械的になったり、自分のいい加減さを見て祈ることをやめてはいけません。主は私たちがへりくだって祈るとき、必ず耳を傾けて答えてくださいます。そして主の時に答えてくださるのです。

ルカ6章21節に「いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。」自分の罪に泣く者は、やがて赦された喜びに笑うのです。優しい主の御手に委ねましょう。


説教者:加藤 正伸 長老



<詩篇 6篇1〜10節>

1 主よ。御怒りで私を責めないでください。激しい憤りで私を懲らしめないでください。

2 主よ。私をあわれんでください。私は衰えております。主よ。私をいやしてください。私の骨は恐れおののいています。

3 私のたましいはただ、恐れおののいています。主よ。いつまでですか。あなたは。

4 帰って来てください。主よ。私のたましいを助け出してください。あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。

5 死にあっては、あなたを覚えることはありません。よみにあっては、だれが、あなたをほめたたえるでしょう。

6 私は私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します。

7 私の目は、いらだちで衰え、私のすべての敵のために弱まりました。

8 不法を行う者ども。みな私から離れて行け。主は私の泣く声を聞かれたのだ。

9 主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。

10 私の敵は、みな恥を見、ただ、恐れおののきますように。彼らは退き、恥を見ますように。またたくまに。