2024年7月14日
「信仰によって神の民となった私たち」
旧約聖書:ミカ書 3章〜5章
T.前回のおさらい(1章2章)
今日の箇所に入る前に、少しだけ前回のおさらいをしたいと思います。
ミカは、南ユダ王国出身の預言者でしたが、預言の内容は、北イスラエル王国と南ユダ王国の両方に対するものでした。また、預言者として活動した時期は、ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代と書かれています。これは、イザヤやアモスと同時代となります。
そして、1章2章では、北イスラエル王国と南ユダ王国へのさばきの預言と、悔い改めへの勧めが語られました。なぜなら、この時代、北イスラエル王国の人々も、南ユダ王国の人々も、神の契約の民としては全くふさわしくない生き方をしていたからです。だから、神さまは彼らの不信仰や不従順に対して裁きをもって臨まれました。
U.エルサレムに対する神のさばき(3:1〜4:5)
まず、3章は神さまが裁きをもって北イスラエル王国と南ユダ王国に臨まれるという預言の続きです。
a)威嚇と告発(3:1-12)
3章では、指導者たちの罪が告発されています
1)為政者の罪(1-4)
ここでは政治的指導者たちの罪が告発されています。
神の民と呼ばれるイスラエル民族の政治的指導者たちの務めは、神さまの律法に従って公正に政治を行うことでした。しかし、ミカの時代の指導者たちは、神さまがことのほか重視された<公義>を知っていながら無視していました。ここで言う<公義>とは、神さまの律法による社会的正義のことです。しかも、政治的指導者たちは、<公義>を無視していただけでは無く、<善を憎み、悪を愛>するという公義とは正反対のことを行っていました。
ですから、状況が変化し、指導者たちが逆境に立ったとき、彼らは<主に叫>びましたが、主は答えませんでした。
人は、自分の蒔いたものの刈り取りをしなければなりません。新約聖書にも次のように書かれています
ガラテヤ人への手紙 6章7節8節
人は、自分の蒔いたものの刈り取りをするのです。私たちは、御霊のために蒔くのはもちろんとして、肉の蒔いたものを刈り取らないように、罪を犯したときは悔い改める必要があります。
2)預言者の罪(5-8)
次に、3章5〜8節をご覧ください。預言者の罪が告発されます。
預言者たちは政治的指導者たちと結託してその悪事を助長していました。彼らは、神のことばを語るものと称しながら、自己の利益を追う偽預言者でした。偽預言者たちは、人々は誰も、わざわいや裁きを望まないという心理を巧みに利用して、嘘の繁栄や平安などの祝福を宣言していました。そして、それが、偽預言者たちのお金儲けの手段でした。そして、彼らに利益を与えることのない民には、平和ではなく戦争を宣言して恐怖を与えていました。神さまの裁きは、このような自称預言者たちに下されます。神さまからの啓示、幻などが全く受けられなくなり、暗黒の時代に人々に何の助けも与えることが出来なくなりました。
しかし、真の預言者たちはこのような危機の時にも平和な時にも、変わることなく、人々に主の言葉を正しく伝えています。ミカは、金や名声に惑わされることなく、神さまに与えられた言葉を公正や勇気を持って語りました。
3)指導者階級の裁き(9-12)(為政者、預言者、祭司)(エルサレム滅亡の預言:12)
そして、ミカは、9節から政治や宗教の指導者たちの罪を具体的に指摘し、罰を宣告しました。
正しいことをねじ曲げて、ゆがめて自分の都合の良いようにすることは公義に反する行為です。一部の権力者の繁栄の陰に多くの民衆の血が流され、南ユダ王国の首都、平和の町エルサレムも血の上に築き上げられたものとなってしまいました。政治や宗教の指導者たちの最大の関心事は経済的利得となり、彼らは本来の使命を忘れて、物質的繁栄だけを求めるようになりました。それにもかかわらず、指導者たちは自らの罪を顧みることをせず、むしろ、自分たちを主に拠り頼む、敬虔な者たちだと自画自賛していました。エルサレムに神殿が建っている限り、自分のたちの上に災いが下ることはないというのが彼らの信仰でした。
このような信仰を神さまは望みません。
そして、3章の最後、12節でミカはおごそかに宣言しました。
それゆえ、シオンは、あなたがたのために、
畑のように耕され、
エルサレムは廃墟となり、
この宮の山は森の丘となる。
1章6節で北イスラエル王国の首都サマリヤに預言したように、南ユダ王国の首都エルサレムも同様に廃墟となるとミカは簡潔に預言しました。
しかし、義をもって審判される神さまは、イスラエルに祝福を約束された神さまでもありました。主は、常にその約束を忠実に果たされるお方であり、ご自分で決められた時と方法をもってそれを成就されます。国は滅亡し、民は少数になっても神さまの約束は成し遂げられることをミカは神の民に告知し、その祝福が終わりの日に起こることも預言しました。
b)エルサレムの役割(4:1-5)(王国の状況)
4章1〜5節は、少しの違いを除いてはイザヤ2章2〜5節と同じです。
3章までとは全く異なる栄光の約束を主題とする新しい部分の導入です。この預言は<終わりの日に>起こることについてですが、<終わりの日>は歴史の最後の時代を指します。この預言を、捕囚民のエルサレム帰還とみることもできるかもしれませんが、審判と祝福の全世界性、徹底性などからすでに成就した預言とするのは難しいと思われます。ミカが幻で見たものだと思われますが、ここに書かれているようなことは、捕囚帰還後はもちろんのこと、現在に至るまで、まだその完成を見ていません。主イエスさまの再臨に伴う出来事と理解すべきだと思われます。
V.サマリヤとエルサレムへの約束(4:6〜5:15)
次に、4章6節〜5章15節までが今日の最後の部分になりますが、ここには、全イスラエルの回復の時が来たときの具体的な姿が描かれています。更に、その時に来臨されるメシヤの姿が描かれています。
a)メシアに従う民(4:6-8)(神の民の結集)
6節の<その日>は「終わりの日」と同じく、終末のメシヤの時代を指しています。神の民の回復と結集がその時に行われます。神さまは、ご自分の民を捨て置かれることはありません。イスラエルの人々は罪を裁かれて散らされましたが、終末の時にもう一度、主ご自身によって世界中から集められる時が来ます。神さまの意志と力によって集められた者たちは弱者であっても、神さまによって<強い国民>とされ、主が永遠に王として彼らを支配されます。
ミカの時代の人々は、この預言の意味は分からなかったかもしれません。そして、アッシリヤやバビロンに捕囚の民として連れていかれた人々は、捕囚からの解放の預言だと思ったかもしれませんし、それも、全くの間違いというわけでも無かったと思います。しかし、神さまは、もっともっと遠い未来の私たちのために、この預言を残されました。
神さまは、この世界の歴史を支配しておられます。しかもそれは、きちんとしたご計画をもって今まで支配してこられ、また、これからも支配していかれます。歴史は、全くの行き当たりばったり、偶然の積み重ねではありません。神さまにはきちんと計画があります。
しかも、神さまは歴史を動かすような大きなご計画だけで無く、私たち一人一人にもきちんとご計画を持って下さっています。神さまは、私たちに対してどのようなご計画を持っておられるのか、自分の人生でそれを確かめていくことができるのは、クリスチャンだからこそできることじゃないか、と思います。
b)神さまのご計画(4:9-13)
1)捕囚と救い(4:9-10)
次に、4章9節10節をご覧ください。
ミカは、回復の預言と捕囚の預言を交互に語っています。
国の破局、屈辱に満ちた捕囚などは人間に希望を失わせます。しかし、神さまの恵みはそのような中に救いと贖いを与えます。ミカは10節で、<そこで>を二度用いて、ユダの民の苦難の地が神さまによる救いの場となることを強調しています。
2)攻撃と勝利(4:11-13)
4章11〜13節をご覧ください。
この部分は、おそらくは世の終わりの戦いについての預言だと思われます。
11節12節にエルサレムの町に対する諸国民の冷淡な取り扱いが描写されています。助けの手を差し伸べる代わりに、諸国民はエルサレムを苦しめます。彼らは、主のご計画を知りません。主はエルサレムを破滅させることが目的でエルサレムを攻撃させているのではなく、諸国民を<打ち場の麦束のように>集めて、彼らをさばくためにエルサレムに集結させたのです。神の民は集められた諸国民を、打ち場の麦束のように粉砕します。もちろん、それは、神さまの力によるものです。
c)メシアの出現(5:1-4)(メシアの来臨)
次に、5章1〜4節をご覧ください。
ここには、メシヤが与えられることの預言が書かれています。
4章の最後でイスラエルの勝利が預言されていたのに、5章1節ではイスラエルの敗北が預言されています。これは、ミカの時代に戻って、アッシリヤによるエルサレムの滅亡のことが書かれていると思われます。エルサレムの滅亡、バビロン捕囚により、希望は失われたかに見えます。しかし、神さまは<昔から、永遠の昔から>の計画をもって<イスラエルの支配者になる者>であるメシヤを、ダビデの出身地である<ベツレヘム・エフラテ>から起こされます。
イエス様は、この預言通りにベツレヘムで生まれました。そして、4節ではメシヤによる支配がどのようなものなのかが説明されています。ここには力と慈愛の両者が調和して用いられています。すべての働きを彼は<彼の神、主の御名の威光によって>なします。それによって民衆は<安らかに住まう>ようになります。メシヤの働きは全世界にまで及ぶようになります。
d)平和の確立(5:5-15)(メシアの来臨続き)
最後に、5章5〜15節を見ていきたいと思います。ここでは、メシヤによる平和がどのようにして確立されるのかが預言されています。
1)メシアの出現続き(5:5-6)
まず、5章5節6節をご覧ください。
メシヤは単に平和をもたらすだけでなく、彼自身が平和の根源なのです。<アッシリヤ>はミカ時代の世界を圧する大国であり、従って神の民イスラエルに敵対する勢力として象徴的に名前が挙げられています。
聖書の言う「預言」や「預言者」は、神さまを知らない世の人たちの言う「予言」とは全く別のものです。「予言」は、未来に起こることを言いあてるだけのことですが、聖書のに出てくる「預言」とは、神さまからみことばを預かって人々に伝えることなので、必ずしも未来に起こることだけを伝えるわけではありません。
そして、アッシリヤに象徴される、この恐ろしい敵が侵略し<私たちの宮殿>を踏み荒らします。その時メシヤの支配のもとに神の民は力ある指導者たちを立ててこれに対抗します。ここに出てくる、七人と八人という数字を文字通りに受け取る必要はありません。メシヤの支配のもとで、この指導者たちはアッシリヤの地を剣で支配します。ニムロデの地は、アッシリヤの別名で、アッシリヤの地と同じ意味です。言葉を変えて、同じことを2回繰り返しています。
そして、神の民の敵が侵入するとき、メシヤは私たちを敵の手から救ってくださいます。神の民の救いはメシヤの計画、指導のもとになされることを明確にしています。さらに、この預言は歴史上、まだ成就したとは言えませんので、終末の出来事を指すと見るべきでしょう。
2)ヤコブの残りの者(5:7-9)
次に、5章7〜9節をご覧ください。
ミカは、神さまを信じるイスラエルの民は未来において二つの役割を果たすことを預言しています。
一つは、祝福を世界にもたらす使命です。
<主から降りる露、青草に降り注ぐ夕立>は神さまの祝福を比喩しています。そして、次の行に<彼らは人に望みをおかず、>とあるように、彼らのよりどころは<人>ではなく主ご自身です。
もう一つの使命は、<獅子>のように強く、悪を征服する使命です。
世の終わりの戦いにおいて、ヤコブの残りの者は敵に対して獅子のように振る舞い、彼らを一人残らず断ち滅ぼしてしまいます。9節に<あなたの手を仇に向けて上げると、あなたの敵はみな、断ち滅ぼされる。>の「あなた」は神さまのことを指しています。ですから、ヤコブの残りの者が敵を断ち滅ぼすのも人の力ではなく、神さまの力です。
ここで、終わりの日の完全な勝利が告げられています。
3)粛正 もしくは 平和が成就すると取り除かれるもの(5:10-15)
最後に、5章10〜15節をご覧ください。
10節から15節には、神さまが断ち滅ぼされるものがリストアップされています。
神さまが断ち滅ぼされる第一のものは、武器、兵力です。
次に、要塞です。
三つ目が、呪術師、占い師です。
四つ目は、偶像です。
最後に、神さまに反抗した国々に裁きが下ります。
これらのリストは、神さまがイスラエルを回復するために必要な粛正をなさることが強調されているとも取れますし、終末の時、イエス様が再臨されて私たちを直接治めるようになると、つまり、平和が成就すると必要無くなるので取り除かれるもの、とも取れます。これは、どちらかに限定する必要は無いと思います。聖書の中には、一つの事柄に二つ以上の意味があることは良くあります。
ミカの時代は、イエス様の誕生まででさえまだ何百年もあって、さらにその先の終末のことにまでユダヤ人たちが思いを馳せるのは難しかったと思います。ですから、直接的には北イスラエル王国や南ユダ王国の滅亡と捕囚、アッシリヤやバビロンの滅亡、捕囚の民の帰還について語られ、その際に部分的に成就されることについて預言されていると考えて良いと思いますが、一方で、遠い未来の私たちへの預言として、これから成就される預言として残されている預言だととることもできます。
その時には、粛正という側面よりも、神さまが、贖われた聖なる民を直接統治されるようになる、本当の平和がおとずれるので、必要無くなるものが取り除かれると考えて差し支えないと思います。
旧約聖書の時代には、聖書の神さまはイスラエル人たちだけのもので、イスラエル人たちは救いの中に異邦人も含まれているとは思っていなかったかもしれません。確かに、これから終末に向けてやってくる世界的なリバイバルの時に、イスラエル人ユダヤ人と言われている人たちの存在はとても重要ですが、新約聖書の時代になって、福音は、遠い島国の私たちのところまで届いてきました!
ガラテヤ人の手紙3章の次の箇所をお読みください。
ガラテヤ人への手紙 3章6〜9節
ガラテヤ人への手紙 3章13節14節
ガラテヤ人への手紙 3章26〜29節
ここに書かれているとおり、もし、私たちがイエス様の十字架と復活を信じて、信仰を告白しているなら、私たちもミカ書5章7節に書かれている「ヤコブの残りの者」となります。
私たちは家系図をたどっても、アブラハムの子孫では無いと思いますが、信仰よって神の民とされていることを神さまに感謝したいと思います。
いつ、終末の時が始まるのかは、まだ知らされていませんが、直接的なアブラハムの子孫では無くても、神さまのことを信じた私たちは間違いなく「ヤコブの残りの者」です。そのことを、神さまに感謝したいと思います。
説教者:菊池 由美子 姉