2024年5月26日
「罪からの救い」(要約)
説教者:高山 典久 牧師 (新潟シャローム教会)
新約聖書:ルカの福音書5章17節〜26節
1、一般社会の救いと教会の救いの違い
今朝、説教で取り上げる「救い」という言葉ですが、教会で使う「救い」と一般社会で使う「救い」は違います。普通「救い」と言うのは、病気の癒しとか、困難から助け出されることあるいは貧困から解放されることであって、そういうことを指して「救い」と言うわけです。安心感を得るのも救いですね。この場合問題にしているのは、直接的にはそれらからの解放を意味するのですね。けれども聖書が「救い」と言う場合、そうした不幸や悲惨を確かに見つめていはいますが、教会にそのような一般的な救いを求めてやってくると、その解決がすぐに見えないために、期待はずれをしてしまうのではないかと思います。
それを語っているのが今日の箇所です。人々はイエス様に中風の人を直してもらいたい、癒してもらいたい、そういう願いを持ってやってきました。ここでイエス様は、この人たちの信仰を見て、「友よあなたの罪が赦された」と言われた。病の癒しを求めてやってきた人たちとイエス様との間にずれ、開きがある。イエス様は罪の赦しの宣言こそがこの人に必要なことなんだと見ておられたのです。ところが、このイエス様のわざを見たパリサイ人や律法学者たちは、「この神を冒涜するものは何者だ。以外に誰が罪を赦すことができるんだ」と、心の中で考えたんですね。これを見抜かれてイエス様はこう言いました。「あなたの罪は赦されたと言うのと起きて歩けと言うのと、どちらがやさしいのか。」そして中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床を畳んで、家に帰りなさい。」と言われ、中風という病を癒されたのです。
このことからわかる通り、聖書の言う「救い」は、一般的な諸問題の根本にあるその原因、罪からの救いです。だからこそイエス様はこの中風の人に、あなたの罪は赦されたと宣言なさった。なぜならこの人にとって、救い=病からの解放ではないのです。もっと根源的な根本的なこと、病や様々な困難の解放をもたらす罪からの救いこそが、この人には必要なんだ。病からの癒しや困難や悩みからの解放があったとしても、罪を抱えたまま滅んでしまったら、もう元の子もありません。私たち人間は、罪によって堕落したため滅ぶに値する者となってしまいました。神様から引き離すものが罪です。すべての祝福の元である神様に背いた、その罪のために、私たち人間は神の怒りのもとに置かれ、すべての災いを被ってしまった。
創世記3章に「食べてはならないと、わたしが命じておいた木から食べたので、大地は、あなたのゆえにのろわれる。あなたは一生の間、苦しんでそこから食を得ることになる。大地は、あなたに対して茨とあざみを生えさせ、あなたは野の草を食べる。あなたは、額に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。」とあります。罪のために裁かれ、滅びなければならないのが私たちです。ですから、救いと言うのは、罪が私たちを引き込んだ、この恐ろしい闇というか、悪しき滅びから助け出されること、救出されることです。言い換えると、神様の怒りのもとにあった状態から、神様の赦しを得て、神様の恵みに預かることです。つまり、罪の赦し=救いです。
2、誰が救ってくださるのか
その救いについて大事なことは、救ってくださる方が誰かと言うことです。中風を患った人たちはイエス様の所へ行きました。これは幸いです。時々信じるものは救われるんだとよく聞きますが、そうではありません。何を信じるか、誰を信じるかが大事です。その意味において、信仰が人を救うのではありませんね。信じても救ってもらえないようなものを信じても、何もならない。それこそ百害あって一理なし。統一教会にしてもオウム真理教にしても、その他いろんなカルトの団体がありますが、信じしてしまうと本当に人生を台無しにしてしまう。なぜならそこに救いがないからです。
聖書が「救い」というときに、私たちが信じる信仰の対象は、この世界の創り主である人格の方、イエス・キリストによってご自分を現わされた神様です。このお方、具体的に実在される神様が、私たちを救ってくださった力ある方、イエス・キリストによってご自分を現わされた。この神様につながっているのが本当の信仰です。この神につながらなければ、救われることはありません。なぜなら救う力がこの神様にこそあるからです。
それがキリスト教で言う福音です。神様は私たちのために福音を用意してくださいました。私たちが信じれば救われる理由はここにあります。それがイエス・キリストの十字架です。私たちの罪をキリストが身代わりとなって背負われ、その十字架で罪の刑罰を受けてくださった。そのことによって、神様は救いの道を開かれました。それゆえに、この神様が提供してくださった救いの恵みの真実を受け取れば、私たちは、悲惨の根本的な原因である罪から解放され、救われるのですね。
3、神様が私たちに救いを与えて下さった理由
ではなぜ神様はこのような救いを罪人である私たちに提供されたのか。私たち人間は神様の御前に罪を犯しました。神を神と認めない。神に背くのが私たちです。その人間を救う義務は、本来神様にはありません。けれどもそんな私たちのために神様は救いを用意してくださった。それは神様が愛だからです。
私たち人間は、愛それに値するものを見出して愛します。でも神様は違う。神様は、神様にとって何にも価しない者をさえ愛されるお方です。これが神様の愛です。神様は私たち人間を愛されるので、人がその罪ゆえに滅びることを望んでおられない。どんな間違いを犯し、罪を犯しても、神様の愛の対象であり続けるのです。それゆえに神様は人間のために救いを用意された。
もう一つの理由は、私たちは誰一人として自分の力で自分を罪から救い出すことができないからです。溺れる人は、自分の髪の毛をどんなに引っ張り上げても、水の中に沈んでいきます。自力で逃れることができません。罪に取り付かれてしまうと人をあらゆる面で蝕みます。それほどに私たちは罪の前に無力です。それで神様は、そんな私たちのために、誰もが救いに預かれるようにと救われる道を用意してくださった。
4、どうしたら救われるのか
ではどうしたら救われるのか。聖書はこう言います。「神が御子を遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。」ヨハネの福音書(3章17節・18節)。神様が私たち人間を救うために用意をしてくださった救いの方法は、実にシンプルです。神様が遣わされた、御子イエス・キリストを信じること。信頼し委ねることで救われるんだと聖書は語っています。またローマ人への手紙10章9節・10節。「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」とあります。
ただキリストが、私の罪のために十字架に死なれたと言う時、それは「私の」罪なんです。一般的な知識で済まされない。「私の」罪なので、私と神様との問題なんだという理解が必要です。人間が罪人であるという一般的なことを知るのはそれほど難しいことではありませんが、自分が罪人であると言うことを認めるのは、そう簡単なことではないのです。神様の御前に立たなければ絶対にできない。客観的なことではないのです。自分の罪を認めると言う時に、そこには自分の面子も何もありません。自分の体裁を繕う、そういう思いもそこにはありません。この自分の罪がわからなければ、私の罪のために私に代わって、イエス様が十字架で死んでくださったと言うことはわかりません。
キリストが私の罪のために十字架に死なれたことを理解するのは、別の言葉で言うなら悔い改めと改心です。神様が、私の罪のどれほど嫌っておられるのか、罪ある私をどれほど神様は怒っておられるのか、そのことが神様の御前に行かなければわからないのです。そして神様が、今にもこんな罪人を罰しようとしておられることに、神様の前に出てこそ気づかされるのです。自分自身に絶望し、罪だらけの自分が、イエス様のゆえに神様がこんな自分をも愛してくださるんだと言う恵みの言葉を聞く時、心は神様に信頼し、聖霊によって信頼する信仰が与えられる。
5、信仰を持ち続ける秘訣
その救われた確信を、私たちはどうすれば持ち続けることができるのか。私たちは、自分の感情とか気分や経験で確信を持つことができません。恋愛感情と同じです。そういうものに確信を持っていても、体の調子がすぐれなければ、自分をとりまいている環境が変われば、信仰を失ってしまいます。何か徳を積むことでもありません。私たちはこのようなものに救いの確信を求めることができません。
それでも救いの確信は、私たちにとってゆるぎないものです。なぜなら、それは私たち人間の側にあるのではなくて、神様の側にあるからです。救われたと言う時、それは神様のうちで、この私が神様の怒りから神様の恵みの御座に移されたと言う事実です。神様と私の関係が敵対する関係から平和の関係に変えられたということです。私たちが感じようと感じまいと、罪の赦しのあるところに私たちは救われているのです。中風の人の癒しにおいて、イエス様はあなたの罪を赦されたと宣言なさった時点で、彼の中風は癒されていませんでしたけれども、彼は間違いなく救われました。救いの保証は、救われた人の何かにあるのではなくて、神様の側にある。神様が保証してくださっている以上に、確かな保証はありません。ですから、私たちは救いの確信を持って信仰の歩みを続けていくことができるのです。イエス様が「あなたの罪は赦された」と言われたとき、間違いなく救われた。そしてみことばと聖礼典を持って神様が保証してくださっているので、私たちは救いの確信を持ち続けることができる。
教会には聖餐式があります。みことばが、聖餐を通して罪の赦しを受けるように私たちを招いているのです。ですからクリスチャンである皆さんは、積極的に聖餐に預かっていただきたい。
私たちは、この世にあっては、日々罪を犯します。だからこそ、イエス様は聖餐の恵みに預かり、罪の赦しの確信を持って歩むことができる幸いを、イエス様を信じるすべての人に用意された。罪からの救い、主の救いに預かった恵みを感謝しながら、信仰の歩みを兄弟姉妹と励ましながら続けていっていただければと思います。
(文責:加藤正伸)
<ルカの福音書 5章17〜26節>
17 ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。
18 するとそこに、男たちが、中風をわずらっている人を、床のままで運んで来た。そして、何とかして家の中に運び込み、イエスの前に置こうとしていた。
19 しかし、大ぜい人がいて、どうにも病人を運び込む方法が見つからないので、屋上に上って屋根の瓦をはがし、そこから彼の寝床を、ちょうど人々の真ん中のイエスの前に、つり降ろした。
20 彼らの信仰を見て、イエスは「友よ。あなたの罪は赦されました」と言われた。
21 ところが、律法学者、パリサイ人たちは、理屈を言い始めた。「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」
22 その理屈を見抜いておられたイエスは、彼らに言われた。「なぜ、心の中でそんな理屈を言っているのか。
23 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらがやさしいか。
24 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために」と言って、中風の人に、「あなたに命じる。起きなさい。寝床をたたんで、家に帰りなさい」と言われた。
25 すると彼は、たちどころに人々の前で立ち上がり、寝ていた床をたたんで、神をあがめながら自分の家に帰った。
26 人々はみな、ひどく驚き、神をあがめ、恐れに満たされて、「私たちは、きょう、驚くべきことを見た」と言った。