2023年3月19日



「本当の自由〜わたしの言葉にとどまるなら」

新約聖書:ヨハネの福音書8章31節〜59節




前回は、イエス・キリストの神様が本当の神様であり、私たちを罪と死から解放してくださる方と言うお話をしました。今日は、その続きです。



1.本当の弟子とは


31節、32節で、イエス様は、イエス様を信じたユダヤ人たちにこう言われました。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたは本当にわたしの弟子です。そうすれば、あなたがたは真理を知り、真理はあながたを自由にします。」どういうことでしょうか。その意味は、この後のイエス様を信じたユダヤ人との会話の中で明らかになります。

33節で、イエス様を信じたユダヤ人たちは、自分たちは誰の奴隷でもない。自分たちは自由だ。アブラハムの子孫だと答えます。しかしイエス様は政治的な自由を言われたのではなく、34節にあるように「罪の奴隷」ということを言われたのです。「信じたユダヤ人たち」の信仰とはどのようなものだったのでしょうか。

31節の「信じた」という言葉はギリシャ語で「ピスチューオー」。しかし30節は同じ「信じた」と訳されていますが、「ピスチューオー・エイス」です。30節は「形式的ではない、もっと真実な信仰を示している」そうです。31節のユダヤ人たちは、イエス様を信じたといっても、イエス様を本当に信頼し、服従していたわけでは無かったのです。名ばかりの弟子でした。

イエス様の言われる本当の弟子とは、31節にあるようにイエス様の言葉にとどまる人です。イエス様の言葉に留まり、それをいつも喜びとし、それによって生きる者が本当の弟子です。

今年の教会の年間成句はヨハネの福音書15章5節。主題は「イエス様に留まり実を結ぶ教会」。私たちがイエス様にとどまる時、イエス様も私たちのうちに留まり実を結ばせてくださいます。



2.罪の奴隷


このユダヤ人たちはイエス様を信じはしましたが、自分をイエス様に委ねることはできませんでした。他のものに心を寄せ、それにより頼んでいました。それは、先祖であり、民族的誇りであり、伝統でした。彼らが宗教的儀式や、律法を形式的に守ることに熱心だったのもそのためでした。彼らは、自分たちが罪の奴隷であるとは考えもしませんでした。むしろ自分たちは霊的に自由であると思い込んでいました。

しかし考えてみると、私たちもイエス様以外の他のものに心を寄せ、それにより頼んでいるということがあるように思います。

例えば私たちは、社会の中でいろいろな役割を担っています。父親や母親、会社員、趣味のグループの1員、管理職、会社の責任者など。しかし、他の大切なことを忘れてその役割だけに躍起になったり、自慢したりします。神を第一とせず、自分を誇り、自分の欲を満たすことを第一にしてしまう。これも「罪の奴隷」です。罪に支配されている時、そこに本当の自由はありません。



3.悪魔の欲望


しかし、このユダヤ人たちにはさらに問題がありました。37節に「あなたがたはわたしを殺そうとしています。」とあります。彼らは、自分たちの決めた規則に従わないイエス様が邪魔なので殺そうと考えたのです。それは悪魔の欲望です。それでイエス様は、44節でこのように言われます。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなた方の父の欲望を遂げたいと願っているのです。」そして彼らを「悪魔から出た者」と言われました。非常に厳しい言葉です。しかしこれがイエスを信じたユダヤ人の本当の姿でした。

ユダヤ人たちは、この言葉を聞いて、イエス様に「あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれていると言うのは当然ではありませんか。」と言います。サマリヤ人とは、捕囚の時にその土地に残ったイスラエル人と各地から連れてこられた移民たちとの混血として生まれた人たちです。異教との混合宗教でした。このサマリヤ人を、ユダヤ人たちは、イスラエルの神に背を向けた人たちだと言って嫌い、差別し、侮辱していたのです。



4.イエス・キリストによる救い


聖書は、人はみな原罪を持って生まれ、罪を犯す者だということを教えています。しかし、同時に、悔い改め、イエス・キリストの恵みによって救われる道がここにあるということを教えているのです。また聖霊は、救われた者を、御言葉と聖礼典を通して神の恵みのうちにとどまるようにしてくださいます。

この箇所で、イエス様はもう一つの約束を言われました。51節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。誰でもわたしのことばを守るならば、その人は決して死を見ることがありません」肉体は死ぬが2度目の死はないということです。(黙示録20:6、11?15) 。魂が永遠の滅びから救われると言うことです。イエス様がこの世にこられたのは、罪人の私たちを罪と死から救うためなのです。

しかし、イエス様を信じたユダヤ人たちはこれを拒みました。45節、46節「しかし、このわたしは真理を話しているために、あなたがたはわたしを信じません。あなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責めるものがいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。」

この後で、イエス様はご自分を除こうとする人たちによって十字架につけられ、最後は弟子の1人に欺かれて死なれました。



5.イエス様の苦しみ


イザヤ書53章5節、6節で、イザヤは救い主イエス様のことを次のように預言しました。

「しかし、彼は、私たちの背きの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かっていった。しかし、主は、私たちのすべての咎を負わせた。」

このイエス様のお苦しみは 罪を背負って滅びるしかない、死ぬしかない私たちのため。どこまでもかたくなな私たちに真の自由を与えるためでした。

先日子どもの自殺者が多いと言うニュースを見ました。何気なく通り過ぎる日常の陰で、多くの子どもたちが苦しんでいます。明日という日を信じることができないために自分の命を断つのです。社会で様々な取り組みが行われています。しかし罪の問題の解決は、天から来られた方だけができます。そして、天から来られた方を伝えることができるのは、私たちだけです。

ヨハネの福音書8章7節に姦淫の現場で捕まった女性の話が出てきます。この時イエス様は、「あなたがたのうちで罪のないものが、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われました。9節「彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて一人一人出て行き、イエスが1人残された。女はそのままそこにいた。」子どもだけではありません。誰もが、罪の問題を抱えているのです。

ユダヤ人たちはイエス様にこう尋ねます。53節「あなたは私たちの父アブラハムよりも偉大なのですか。あなたは、自分自身を誰だと言うのですか。」イエス様は答えて言われます。58節「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです」「わたしは、ある。」ギリシャ語で「エゴー、エイミー」。イエス様は世界創造の前からおられた神です。



結論

「本当の自由」とは、「罪の奴隷」からの解放と言うことです。イエス様は、私たちを、罪と死、そして悪魔の支配から解放してくださる方です。私たちに真の自由を与えてくださるのは、このイエス様の他にありません。

洗礼を受けた後も、古い自分に悩むことがあります。肉がある限り、この世で生きる限り罪はあるのです。しかしヨハネの手紙第一1章8、9節にこのように書かれています。「もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。しかし、もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から、私たちを聖めてくださいます。」

イエス様を信じている方は、古い自分が死んで新しい自分に生まれ変わったことに感謝しましょう。そして再びお金や財産、名誉や地位などにしがみつくことのないようにしましょう。イエス様に留まりましょう。「とどまる」(31)人は「耳を傾ける」(43)、「主イエスを信じ」る(45, 46)、「神のことばに聞き従う」(47)、「イエスのことばを守る」(50)のです。この箇所は、また「兄弟姉妹の間の愛」の勧めでもあります。主にある兄弟姉妹は、イエス様がその御血で買い取られた人です。その方のうちにはイエス様がおられます。その兄弟姉妹を無視したり、蔑むことは、この時のユダヤ人たちがイエス様を殺そうとしたのと同じように思うのです。ですから、私たちは、兄弟姉妹をさばいたり、無視することのないようにしましょう。教会は束縛するところではありません。自由にして頂くところです。

まだイエス様を信じていらっしゃらない方は、イエス様を信じてください。イエス様の言葉に留まれば、「本当の自由」が与えられます。 真理は私たちを「自由」にしてくださいます。





説教者:加藤 正伸 長老