2023年3月5日



「イエス様に従う者はいのちの光を持つ」

新約聖書:ヨハネの福音書8章12〜30節




今日と次回の2回で、イエス様を信じる者はいのちの光を持つことをご一緒に学びたいと思います。中心聖句は12節「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」始めに全体内容をお話しします。その後で、罪の中で死ぬということ、信じるものは救われること、信じた者はいのちの光を持つということをお話しします。



1 全体の内容


(1)12節〜20節

イエス様は、神殿で民衆に「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」(12節)と話されました。イエス様はご自分を「光」だと紹介されました。

ヨハネの福音書1章 4節には「すべての人を照らすまことの光」、詩篇36篇9節には「いのちの泉はあなたにあり、私たちはあなたの光のうちに光を見るからです」 というみことばがあります。

しかし、この言葉をユダヤ人たちは、「あなたは自分で自分のことを証言している。」と批判します。「あなたがキリストだと言う確かな証拠にはならない」というのです。(パリサイ人たちはしるしを求めました。1コリント1: 22 )

これにイエス様は答えて言われます。

14節で「わたしは、わたしがどこから来たか、また、どこへ行くのかを知っているからです。しかし、あなたがたは、わたしがどこから来たのか、また、どこへ行くのか知りません。」これは、イエス様は天からこの世に下ってきた、そして天に帰るが、あなた方はそれを知らないということです。

15節で「あなた方は、肉によって人をさばきます。わたしはだれをもさばきません。」「肉によって人をさばく」とは、欄外注にあるように「人間的判断で」と言うことです。ユダヤ人たちはイエス様のことが分かりませんでした。彼らはイエス様をただ人間的判断で、うわべでさばいていたのです。

18節で「わたしは自分の証人であり、またわたしを遣わした父が、わたしについてあかしされます。」

イエス様はご自分のことを証しするためこの世に来られた。そして神様ご自身が証人であるということです。イエス様はユダヤ人たちに、「あなたがたは、わたしをも、わたしの父をも知りません。もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたでしょう。」と言われました。

確かにユダヤ人指導者の中には、そうでない人もいました。ニコデモです。彼は、イエス様にお会いした時、イエス様を「神のもとから来られた教師。神が共におられる」と言いました。(ヨハネ3章)しかし多くのユダヤ人指導者たちには、イエス様の本当の姿が分かりませんでした。この話しを、イエス様は献金箱の近くで話されました。


(2)21〜30節

21節で、イエス様は、「わたしは去って行きます。…わたしの行く所に、あなたがたは来ることができません」とユダヤ人に言われます。するとこの言葉を聞いて、ユダヤ人たちは「自殺するつもりなのか」と話しします。

23節。そこでイエス様は言われます。「あなたがたが来たのは下からであり、わたしが来たのは上からです。あなた方はこの世の者であり、わたしはこの世の者ではありません。…もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」

私たちはこの世の者です。どんな立派な人でもこの世のものです。しかしイエス様は天におられる方です。ですから、人間にはこの方によらなければ救いは無いのです。

この「わたしのこと」言う言葉は、欄外注では「わたしがある」。ギリシャ語で「エゴー・エイミ」。「わたしは真の実在者である」という意味だそうです。イエス様は、永遠の実在者であり、神と等しい方であると言うことです。

25節。するとユダヤ人たちはイエス様に尋ねます。「あなたはだれですか。」イエス様は言われます。「それは初めから、わたしがあなたがたに話そうとしていることです」堂々巡りです。イエス様は、初めからご自分が天から下ってきたキリストであることを話してこられた。ユダヤ人たちにイエス様の言葉は全く入っていなかったのです。

26節。そこでイエス様は言われます。「わたしを遣わした方は真実であって、わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです。」

28節。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、またわたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。」イエス様が十字架につく時、イエス様が誰なのか、またイエス様が父なる神に教えられた通りに話してることを知るだろうと言うことです。

28節の「わたしが何であるか」と言う言葉も「わたしがある」、ギリシャ語の「エゴー・エイミ」です。

このイエス様の言葉を聞いて、多くの人が、イエス様が神の子であり、神から遣わされた方であることを信じます。しかしユダヤ人指導者たちは信じませんでした。



2 イエス様がユダヤ人たちに伝えたこと


イエス様がご自分について話されたことをまとめると5つあります。

第一に、イエス様のことばは真実であること、父なる神様もそれを証言されるということ。(14節、18節)

第二に、私たちはこの世の者だが、イエス様はこの世のものではないということ。(14節、23節)

第三に、イエス様と父なる神様は一つであり、イエス様は、父なる神様から聞いたことをそのまま世に対して語っているということ。(26節、28節、29節)

第四に、イエス様は、人を救うためにこの世に来られたということ。(15節、24節)

第五に、イエス様は「わたしがある」、永遠の実在者であるということ。(24節、28節)



3 罪の中で死ぬということ


さて、イエス様は、「もしあなたがたが、わたしのことを信じなければ、あなたがたは罪の中で死ぬ」(21節、24節)と言われましたが、これはどういうことでしょうか?

「罪」とは何でしょう?汚い自分のことです。人を傷つけること、人を騙すこと、親を尊敬しないこと、盗むこと、上手に騙すこと、神を第一としないこと…。ルターの小教理問答書の解説(問111?113)には、このように書かれています。

「罪とは、神のきよい律法に逆らうすべてのことであり、受け継がれた罪と実際に犯される罪の両方を含みます。」

「受け継がれた罪とは、悪に向かう生まれながらの性向、深い腐敗性で、神を信じる力も、良い行いによって自分を救う力もない、人間の悪い傾向です。」

「実際の罪とは、受け継がれた罪から出てくる悪しき思い、願望、言葉、行為などです。」

では、「死」とは何でしょう?「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)

聖書神学校の<牧会者養成テキスト>では、次のような説明があります。

「聖書の中でも、「死」はまず肉体の死を意味します。信じていてもいなくても、死を経験します。ところが、ここには、信じたら死なず、信じなければ死ぬ「死」もあることが示されています。それは「滅び」(ヨハネ3: 16)、「魂の滅び」(マタイ10: 28)、「永遠の刑罰」(2テサロニケ1: 9 )と言われ、「悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火の中に投げ込まれる」(マタイ25: 41)と記される「第二の死」です。

私たち人間は、イエス様によって救われなければ、自分の犯した罪のために、「行いに応じた報いを」(ローマ2: 6)神から受けなければなりません。第二の死まで経験するのです。」

「あなたがたは、自分の罪の中で死ぬ」(21節、24節)とはそういう意味です。



4 信じるものは救われる


しかし、イエス様がキリストであることを信じた人は、罪と死から解放されます。罪赦され、永遠のいのちを約束されるのです。主が、私たちの身代わりとして十字架で罰を受けられたからです。そのことを信じるものは救われるのです。

ユダヤ人たちにはイエス様の言葉が全く入りませんでした。イエス様はユダヤ人たちと論争したのではありません。伝えようとしたのです。ユダヤ人たちはイエス様を批判しさばきます。最後には十字架で殺しました。しかしイエス様は誰をもさばくことをなさらなかった。イエス様は真の神様です。その方が真の人となってこの世に来てくださいました。このイエス様に従うなら、いのちの光を持つことができるのです。

私たちもイエス様に倣いましょう。このユダヤ人たちのように、私たちを批判する人があっても、私たちに信仰を与えて下さった神様に感謝しましょう。そしてその人のために祈りましょう。「聖霊によらなければ、だれも、イエスは主と言うことはできません。」(Tコリント12:3)



5 いのちの光を持つということ


詩篇第5篇1節から3節。「私の言うことを耳に入れてください。主よ。私のうめきを聞き取ってください。私の叫びの声を心に留めてください。私の王、私の神。私はあなたに祈っています。主よ。朝明けに、私の声を聞いてください。朝明けに 私はあなたのために備えをし、見張りを致します。」私は、先日ここを読んだとき「ほんとにそうだなぁ」と思いました。  

信仰生活にはいろんなことがあります。仕事の重圧や人間関係、病気、家庭の事など。自分のこれまでを振り返ってみても、決して順風満帆ではありませんでした。勤務先の職場では、仲間の職員に利用者の障害児を人間らしく扱っていないと注意すると、嫌われ意地悪をされました。少し仕事ができると同僚や上司からねたまれ、人の嫌がる仕事を押し付けられました。部下からは適当な口実で欺かれたこともありました。その都度、祈り、うめき、求めました。

しかしその祈りに、主は耳を傾けてくださいました。必要な助けを与えてくださいました。そして祈りを通して、信仰は神から与えられた恵みであることを経験しました。皆さんも同じ様な経験をお持ちではないでしょうか。  

イエス様は光です。このイエス様と一緒にいると言う事は、闇の中にあっても、いのちの光を持つということです。信じた私たちは、このいのちの光を持っています。

「わたしを遣わした方は、真実である」(26節)「そのあかしを受け入れたものは、神は真実であると言うことに確認の印を押したのである。」(ヨハネ3: 33)

このイエス様に従っていきましょう。このイエス様に留まりましょう。生き生きとキリストを証する教会を皆さんと一緒に築いていきましょう。




説教者:加藤 正伸 長老