2023年2月19日



「わたしもあなたを罪に定めない」

新約聖書:ヨハネの福音書8章1〜12節




はじめに

6日発生したトルコ地震で、16日に、倒壊した建物の瓦礫の中から17歳の女性が救出されたと言うニュースを見ました。248時間生き延びたそうです。17日にも40歳の男性が12日ぶりに救出されました。暗闇の中での絶望的な状況。そこから光の降り注ぐ場所に出た時、その人はどんな思いだったでしょうか。今日の箇所に出て来る姦淫の女性もそうでした。絶望のどん底からイエス様に救われたのです。


今日お話しをするのは、パリサイ人と律法学者の歴史的背景、登場人物の思いや考え、年長者から立ち去った理由、イエス様の宣言、新しい生き方です。



1 パリサイ人と律法学者の歴史的背景


先ず始めに、福音書によく登場するパリサイ人と律法学者がどのような人たちなのか、その歴史的背景も含めてお話しします。

<バビロン捕囚後の歴史>

ユダヤ人は紀元前11世紀末ごろにヘブライ王国を建国し、ダビデとソロモン王の時、最盛期を迎えます。しかしその後、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂。北のイスラエル王国は、それから200年後にアッシリアによって滅ぼされ、南のユダ王国は約300年後に新バビロニア王国に滅ぼされます。このときユダヤ人は「バビロン捕囚」を経験することになりました。

ユダ王国を滅ぼした新バビロニア王国は、その後ペルシア帝国によって滅ぼされます。これによりユダヤ人は紀元前538年にバビロン捕囚から解放されパレスチナに戻ります。しかしその後もパレスチナはペルシア帝国、アレクサンドロス大王、セレウコス朝シリアによって支配されます。ユダヤ人の政治的自由は失われていきます。

紀元前2世紀のマカベア戦争で一度はセレウコス朝の支配から独立しますが、その後ローマの支配が及び、ヘロデ王の統治をへて紀元6年にローマの属州となります。ローマ帝国のもとで、ユダヤ教は教団として公認され、皇帝崇拝を強要されることはありませんでした。しかし、ユダヤ人の宗教生活は、ヘレニズムという、ギリシャの言語や文化と思想の影響を強く受けるようになります。この状況にどう適用していけば良いのか。このヘレニズムとの闘争から、ユダヤ教の2つの主流党派が現れました。パリサイ派、サドカイ派です。ここではパリサイ派のみ説明します。

<パリサイ人と律法学者>          

パリサイ人は聖職者ではなく信徒です。職人、農民、商人等の中産階級の人々です。彼らは、新しい状況に律法をどう適用したら良いか、どう再解釈するべきかを決定するのは自分たちの責任だと考えました。彼らは律法の掟を重視し、それを文字通り忠実に守ろうとします。また伝承を受け入れ、儀式上のきよさを強調しました。そして自分たちの考えに従わないものを排斥します。

一方で、パリサイ人は、積極的に学校と会堂を建て、すべての父親に子供を律法によって教育するように命じました。民衆に人気があったと言われています。

律法学者は、長老、祭司長とともに、サンヘドリン(最高法院)のメンバーです。律法の擁護者、大衆の教師として活動しました。しかし、彼らは、律法の文字を守ることを気にするあまりに、律法本来の精神を、理解も実行もしなかったと言われています。

<イエス様の戒め>

パリサイ人と律法学者は、イエス様の奇跡を見ても、イエス様が神から遣わされた者であることを信じることができませんでした。またイエス様は安息日に病人を癒しましたが、それは彼らが律法で禁じていた行為でした。イエス様はこの律法学者とパリサイ人との関わりを保ちつつも、その行いを厳しく戒めます。

偽善者。目の見えない案内人たち。まむしの子孫。彼らは言うだけで実行しない。重くて、背負いきれない荷物を束ねて人々の肩に乗せるが、自分は指一本貸そうとしない。彼らがしている行いは全て人に見せるためだ。広場で挨拶されること、人々から先生と呼ばれることが好きだ。人々の前で、天の御国を閉ざしている。自分たち自身も入らず、入ろうとしている人々も入らせない。杯や皿の外側は清めるが、内側は強欲と放縦で満ちている。

これを聞いて、彼らはイエス様に激しい敵意を抱き、しつこく質問攻めをしたり、イエスの口から出ることばに言いがかりをつけるようになります。今日の場面もその一つです。



2 登場人物の思いや考え


この場面にはイエス様の他にパリサイ人と律法学者、女性、民衆が登場します。それぞれどんなことを考えていたのでしょうか。

パリサイ人たちはイエス様が困るような質問をわざとします。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」レビ記20章10節には「姦淫した男も女も必ず殺されなければならない」とあります。イエス様が、彼らの質問に答えて「石を投げてはならない」と言えば、律法に背くことになる。彼らは薄笑いを浮かべて、イエス様がどのように答えるのか見ていたことでしょう。

パリサイ人たちに連れて来られた女の人は、群衆から蔑みの視線を受けたことでしょう。「ふしだらだ」「イスラエルの中で許されることでは無い」そんな声が聞こえてきそうです。学校でいじめを受けた子どもの話しをよく聞きます。小学校のクラスで、多くの子どもが1人の子を囲んで、「不潔だ、汚い」といじめる。そんな風景です。どんなに辛かったことでしょう。

「姦淫の場で捕らえられた」という言葉に、民衆は感情的に反応したことでしょう。しかし、一緒にいた男はどうしたのでしょう?律法には、姦淫の男女を一緒に石打ちしなさいと書かれています。なぜ女性だけ捕まったのか?ここには書かれてません。パリサイ人たちの陰険さを感じます。

次に民衆です。 ヨハネの福音書7章(11、12節)にあるように、民衆はイエス様について小声で色々と話をしていました。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言いました。しかし、ユダヤ人を恐れて、誰も公然とは語りませんでした。その民衆の中に、イエス様から直接話しを聞いて、イエス様が神から遣わされた神の子であると信じる人が出てきます(ヨハネ7 :43)。聖書には、群衆は分裂したと書かれています。

パリサイ人たちは、この「律法を知らない」民衆を見下します。(7章49節)しかし、彼らを恐れてもいました。(マルコ11章32節) それで、イエス様を捕らえる相談をしたとき、「祭りの間はやめておこう。民が騒ぎを起こすといけないから」(マルコ14: 1)と言っています。



3 年長者から立ち去った理由


パリサイ人たちの質問に、しかしイエス様は答えず、身をかがめて、指で地面に何か書いていました。けれども問い続けてやめないので、身を起こして言われます。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」すると、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエス様が1人残されます。

なぜ、年長者たちから始めて一人一人出て行ったのでしょう?英語の聖書には、being convinced by their conscience「 良心に促され」ということばが付け加えられています。(NKJV) それも一つの理由だと思いますが、もう一つあるように思います。

 パリサイ人たちは、姦淫の女に石を投げることは、律法に書いてあるから正しいと考えました。しかし、「自分に罪がない」かどうかというと、それは違いました。彼らは聖書に「罪を犯さない人間はひとりもいない」(T列王記8:46、他に詩篇130:3、伝道者の書7:20)と書いてあることを知識として知っていたのです。それで投げることが出来なかったのだと、私は思います。彼らは自分の罪の問題は棚上げして姦淫の女性をさばこうとしていたのです。

あるいは、パリサイ人たちは、自分たちに罪があることを知っており、むしろ意識していたのかもしれません。律法の掟を文字通り忠実に守ろうとしたり、儀式上のきよさを強調したのはそのせいかもしれません。

クリスチャンである私たちはどうでしょう。知らず知らずのうちに人をさばいていることがないでしょうか。「あの人はこんなひどい言葉で私を罵った。常識では考えられない。無視をした。あの人は神にさばかれて当然だ。」 このようなとき、私たちは自分の罪がイエス様に赦されているということを棚上げしているのではないでしょうか。それは、自分の罪の問題は棚上げして姦淫の女性をさばこうとしたパリサイ人と同じことです。皆さんはどう思いますか?



4 イエス様の宣言 「わたしもあなたを罪に定めない」


イエス様は、女性に温かい、慈愛に満ちた声で語りかけられます。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はいなかったのですか。」 彼女は言います。「誰もいません。」イエス様は言います。「わたしもあなたを罪に定めない」

これは、絶対的な権威者からの罪の赦しの宣言です。他の人々がさばきを下さなかったということとは、全く違うのです。イエス様は言われました。「わたしが来たのは、世を裁くためではなく、世を救うためだからです。」ヨハネ12: 47

もうここには、パリサイ人や律法学者たちの冷たい仕打ちも群衆の蔑みの視線もありません。イエス様の赦しと慈愛に満ちた温かい眼差しがあるだけです。非常に重苦しい場面は光の降り注ぐ明るい場面に変わったのです。

イエス様とは誰か。三位一体の神で、真の神であり真の人。人の罪を赦す権威を持った方。「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3: 17)  

そして、私たちに真のいのちを与えてくださる方。「モーセがあなた方に天からのパンを与えたのではありません。わたしの父が、あなた方に天から真のパンを与えてくださるのです。」(ヨハネ6: 32、33)



5 新しい生き方


最後にイエス様は女性に言います。「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」英語では、go now and leave your life of sin,(NIV)「 罪から離れなさい。」自分の罪を悲しんでいた女性は、新しい生き方を始めます。

既にイエス様を信じている私たちも同じです。イエス様の十字架の血潮によって、罪赦され、神の前に義とされましたが、また罪を犯します。大丈夫です。悔い改めれば、神様は聖めてくださいます。悔い改めなく、神に背を向けたままならば、神様は近づいてくださいません。日々悔い改め、聖めていただきましょう。

私たちの日常の生活には、病気があり、職場の意地悪があり、迷いがあり、悩みがあります。しかし、闇の中にいるような状況であっても、イエス様のことばを受け入れる時、そこに光が差し込みます。それがキリストによって救われた人生です。

12 節「わたしは世の光です。わたしに従うものは、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」




ヨハネの福音書 8章1〜12節

1 イエスはオリーブ山に行かれた。

2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮に入られた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。

3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕らえられたひとりの女を連れて来て、真ん中に置いてから、

4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。

5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」

6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。

7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。

9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。

10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」

11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」〕

12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」




説教者:加藤 正伸 長老