2023年2月5日



「イエス様は宮で何を大声で伝えられたのか」

新約聖書:ヨハネの福音書 7章25〜52節




1 はじめに


スーパーに行くと、店員さんが大きな声で「おいしいよー。安くしとくよ。お買い得だよ。」声をかけていますね。私は、以前障害者施設で利用者の方と一緒にパンを作り、販売したことがあります。作ったパンを売りに行ったとき、大きな声で、「こんにちは、パン屋です。焼きたてのおいしいパンをお持ちしました。」と大きな声をかけました。

このように、私たちは、どうしても伝えたいことがあるとき、はっきり大きな声で伝えます。

今日はイエス様がエルサレムの宮で、大声で語ったことをお話しします。イエス様は何を語られたのでしょうか。



2 前回の振り返り


前回は、兄弟たちが仮庵の祭りに出かけた後、イエス様が内密にエルサレムに行ったことをお話ししました。この時、すでにユダヤ人宗教指導者たちはイエス様を殺そうと考えていました。理由は、彼らが「仕事をしてはいけない」と決めた安息日に、イエス様が病人を癒したからです。またイエス様がご自分を神と等しくされていたからです。

イエス様は祭りの中頃に宮に着きます。そしてユダヤ人宗教指導者や群衆に、教え始められます。それを聞いて、ユダヤの指導者達は、「この人は正式に学んだことがないのにどうして聖書に通じているのか」とおどろきました。

しかしそのユダヤ人指導者たちや群衆に、イエス様は厳しいことを言われます。

・「わたしの教えはわたしのものではなく、わたしを遣わした方のものだ。誰でも神の御心を行おうと願うなら、わたしのこの教えが神から出たものであることがわかるはずだ。」

・「あなた方は、自分の栄誉を求めて自分から語る。しかしわたしは神の栄誉を求めて語る。」

・「あなた方は安息日に割礼を施している、働いている。それでいてわたしが安息日に、38年間床に伏せていた人を癒すと十戒に背いていると腹を立てる。うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」

「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい」というのは、律法に書かれてあることを表面的に行うのではなく、律法は、神様が人間を恵み憐れむために与えて下さったものであることを意識して用いなさい、という意味です。このように前回は、イエス様が律法により「世について、その行いが悪いことを証し」した箇所でした。



3 イエス様は大声で?わたしは神様から遣わされた者


今回のテーマは福音です。イエス様が、自分を信じる者は聖霊を受けるということを「大声」で証しされる箇所です。

25節の「エルサレムのある人たち」とは、ユダヤの宗教指導者や群衆ではない人たち。この祭りに外国から来ていたユダヤの人たちかもしれません。

彼らは言いました。「この人は彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか」

詳訳聖書では「議員たちは、この人をキリストだと認めることがあり得るのだろうか。」と訳しています。ユダヤ人たちは、自分達を批判するイエス様を「認めた」ので、何も言えなかったのでしょうか?むしろ逆です。反論できないから「何も言えない」、又はまともにイエス様と話しをしたくないから何も言わなかったのだと思います。

しかしこの緊張した雰囲気の中、イエス様は大声で、はっきり2つのことを言われます。

1番目。28節を見てください。ご自分が神様から遣わされた者であり、「その方から出た」者だと言うこと。すなわち神の子だと言うことです。7章の16節?18節でも同じことが言われています。

イエス様は、真の神であり、真の人です。天から下ってきたのはイエス様だけです。預言者にもいません。神様は、世の人を救うために御子を天からこの世界に遣わされたのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じるものが、1人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(3章16・17節)イエス様は、自分を殺そうとしているユダヤ人たちが大勢いる中で、このことを大声で言われました。

この時、イエス様のこの言葉を聞いて多くの人がイエス様を信じます。「この方がそうなのか」「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか。」

しかし彼らのヒソヒソ話を聞いた祭司長たちとパリサイ人たちは、神を冒涜したという理由でイエス様を捕えようと、下役たちを遣わします。



4 イエス様は大声で?わたしを信じた者には聖霊が与えられる


大声の2番目。37・38節です。祭りの終わりの大いなる日に、イエス様は立って大声で言われます。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じるものは、聖書が言っている通りに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

ヨハネ4章14節に同じ言葉が出てきました。サマリヤの町スカルと言うところで、水を汲みに来た女性にイエス様が言われたことばです。

「生ける水の川」とは39節にあるように、「御霊」のこと。御霊とは聖霊のこと、助け主のことです。イエス様を信じた者に遣わされる神様です。

私たちが信じている神様は三位一体の神様です。一人の神の内に「父、子、聖霊」と言う3つの位格があります。役割を変えるのではなく、一人三役でもありません。3人神様がいると言うことでもありません。創造主の神様、救い主のキリスト、助け主の聖霊です。

ご存知の通り、聖霊が最初に与えられたのは、イエス様が復活されたのちの五旬節の時。以来、イエス様を救い主として信じる、すべての人に与えられます。イエス様を信じている私たちにも与えられているのです。

聖霊の神様は、自分では、神を求めることができない私たちに、光を照らしてくださいました。そして、イエス様の赦しといのちを、説教と聖礼典と言う2つの手で私たちに運んで下さいました。あなたがまだ罪人であった時、イエス様を知らなかった時、イエス様はあなたのために死んでくださったのです。私たちはそれを聖霊から信仰という空の手で受け取ったのです。(エペソ人への手紙2章8節)この聖霊については、14章から16章でイエス様が詳しく話されます。

さて、この言葉を聞き、群衆の中で、イエス様を「預言者だ」と言う人、「キリストだ」という人が何人も出てきました。しかし中には「まさかキリストはガリラヤからは出ないだろう」と言う人もいましたし、イエス様を捕えてパリサイ人に差し出そうとする人もいました。43節にあるように、イエス様について群衆の意見は分裂したのです。

この時、下役を遣わしたユダヤ人指導者の間に予想外のことが起きます。

一つは、46節。イエス様を捕えてこいと送り出された下役たちがイエス様を連れて来なかったこと。彼らは言います。「あの人が話すように話した人は、未だかつてありません」下役たちは、イエス様の話に耳を傾けたら素晴らしい言葉だったので捕えることが出来なかったのです。

もう一つはニコデモです。ヨハネ3章で、夜中こっそりイエス様のところに救いの教えを求めて来た宗教指導者です。

ユダヤ人たちがイエス様を捕まえようと躍起になっている中で、「私たちの律法では、まず、その人から直接聞き、その人が何をしてるのかを知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」と言います。まっとうな意見です。そして勇気ある発言でした。すでに多くの宗教指導者たちが、「イエスをキリストであると告白するものがあれば、そのものを会堂から追放する」(9章22節)と考えていたからです。



5 福音に留まろう


さてイエス様が大声で言われたことに戻ります。イエス様は、大声で、ご自分が神から遣わされた者であることを証ししました。そしてご自分を信じる者は、心の奥底から生きる水の川が流れ出るようになると言われました。今、私たちには聖霊が与えられ、神様、イエス様が共にいて下さいます。

今年度の私たちの教会の年間聖句はヨハネの福音書15章5節です。「わたしは、ぶどうの木で、あなた方は枝です。人がわたしに留まり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」

これは、イエス様にしがみついていこうということではありません。既に私たちは救われています。イエス様は、こんな私も憐れんで救ってくださり、聖霊を与えて下さいました。私たちは、イエス様の愛と恵みのうちに留まれば良いのです。このイエス様に留まっていれば、聖霊は実を結ばせて下さるのです。

私たちが見上げるところはどこでしょう。十字架ではありませんか。私たちに慰めを、力を、希望を、喜びを与えてくださるのは十字架です。

みことば、祈り、礼拝を大切にして、イエス様に留まりましょう。みことばに触れ、聖徒の交わりを持つことで、日々の罪の赦しが豊かに与えられ、聖められます。聖化は、みことば、祈り礼拝によって進みます。福音の説教と聖礼典に預かり、安心して聖められていきましょう。そして、大胆にイエス様が救い主であることを証ししていきましょう。



<ヨハネの福音書 7章25〜52節>

25 そこで、エルサレムのある人たちが言った。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。

26 見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。

27 けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」

28 イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。

29 わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」

30 そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。

31 群衆のうちの多くの者がイエスを信じて言った。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行われるだろうか。」

32 パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして、役人たちを遣わした。

33 そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。

34 あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」

35 そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。

36 『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない』、また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」

37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

40 このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ」と言い、

41 またある者は、「この方はキリストだ」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。

42 キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」

43 そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。

44 その中にはイエスを捕らえたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。

45 それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」

46 役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」

47 すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。

48 議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。

49 だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」

50 彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。

51 「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」

52 彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」




説教者:加藤 正伸 長老