2022年12月11日



「これはいったい何のあいさつか」(アドベント第3週)

新約聖書:ルカの福音書 1章26〜38節



今日、お話しする箇所は聖書の中でも非常に有名で、聖書を読んだことの無い人でも物語としては知っている箇所だと思います。


T.マリヤの信仰


御使いガブリエルが、少女マリヤの元を訪れて、救い主の母となることを告げました。この時、マリヤはガリラヤのナザレに住む10代半ばの少女で、すでにヨセフとの結婚が決まっていました。

ガブリエルはマリヤのいるところに入ってくると、いきなりこう言いました。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

普通の少女であったマリヤは、この言葉の意味がわからず、「しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。」というのも無理の無い話かと思います。もちろん、マリヤもメシヤの預言のことは知っていたと思いますが、まさか、ガリラヤのナザレという田舎に住んでいる自分が、メシヤの誕生に関わるなんてつゆほども思っていなかったと思います。

また、マリヤはヨセフと婚約していましたが、マリヤはまだヨセフとは自分が妊娠するような関係ではありませんでした。なので、ガブリエルに、「あなたはみごもって、男の子を産みます。」と言われても、まだ結婚もしていないし、身に覚えも無いことで、容易に「わかりました。」とは言えなかったと思います。

「どうしてそのようなことになりえましょう。」というマリヤのことばに、ガブリエルは丁寧に答えます。

「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。」

また、この出来事の前に、マリヤの親類のエリサベツが高齢であるにも関わらず、妊娠して子どもを産もうとしているということも、神さまのみわざであることを例にとって、だから、結婚前のマリヤが妊娠して子どもを産むことも、神さまのみわざであるなら不可能では無いとガブリエルは説明します。これは、まさに、神さまの奇跡です。


さて、ここで、少し戻って、ガブリエルの言葉の中に大切なことがあるので、それをご説明したいと思います。

31節で、ガブリエルは「あなたはみごもって、男の子を産みます。」と言っています。

イエス様が、私たちすべての人間と同じように、人間である母親から産まれてくると言っています。これは、イエス様が完全に人間であることを表しています。

さらに、ガブリエルは35節で「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」とも言っています。

これは、マリヤが処女のままイエス様を産むということは、人間の力ではできない、神さまのみわざでしかできないことだと言っています。つまり、イエス様が完全に神さまだということを表しています。

神さまであり人間でもあると言うと、人の考えでは半分は神さま、半分は人間と思いがちですが、イエス様は神さまと人間が半々なのではなく、100%完全に神さまである方が、100%完全に人間となって私たちの世に来てくださったのです。

そして、マリヤが処女であったということにはもう一つ重要な意味があって、それは、イエス様には罪が無いということに繋がっています。


罪について簡単にご説明します。

罪には3つの種類があります。1つは「個人的罪」で、これは私たちが日常的に経験する神の性質に反した行為や思いという罪です。これは、私たちに一番なじみのある罪で、私たちがお祈りの中で自分の罪を悔い改めるというときの罪はほとんどこの「個人的罪」です。もう1つは「原罪」で、これは私たちの「個人的罪」の原因になっているもので、元々はアダムとエバから引き継がれた罪なのですが、両親が仲介役になって子どもに引き継がれていく罪です。私たちに遺伝している罪の性質だと思っていただければいいと思います。3つめは「アダムから転嫁された罪」で、これは、私たちを有罪にする罪です。「原罪」との違いがちょっと分かりにくいので、今は、そういう種類の罪もあるのか、と思っておいて下さい。

今ここで重要なのは「個人的罪」と「原罪」なのですが、イエス様の誕生が聖霊の介入という神さまのみわざによるものだということは、私たちの罪の元になっている「原罪」を両親から受け継いでいないということです。そして、「原罪」を受け継いでいないので、「個人的罪」を犯すこともありません。

受胎告知の場面で、マリヤが婚約はしていたけれど結婚前の少女で処女であったというのはイエス様には罪が無いということの証明として非常に重要です。

イエス様は生まれてから十字架で死なれるまでの間は、私たちと同じ完全な人間として生きられました。私たちと違うのは全く罪が無かった、罪を犯すことが無かった、と言う点です。十字架と私たちの救いの関係を考えるとき、イエス様に罪が無かったと言うことは非常に重要です。

旧約聖書の時代、罪の贖いのために繰り返し動物の生け贄を献げ続けてきましたが、それは、動物という不完全な生け贄では私たちの罪を完全に贖うことができなかったからです。それは、例えば、動物ではなく人間であったとしても、罪のある人間を献げても私たちの罪を完全に贖うことはできません。もちろん、聖書に人間を献げなさいとは書かれていませんので、人間を献げることはあり得ませんが。そこに、イエス様が罪のない人間として生まれてくださり、十字架上で私たちの罪のための完全なささげ物となってくださったので、今、私たちの罪は贖われ、信仰によってイエス様を受け入れた私たちは神さまの恵みによって義とされているのです。

ですから、父なる神さまがマリヤを選ばれて、イエス様を原罪のない人間として誕生させたことは、私たちの救いにとってとても重要な出来事でした。

また、ガブリエルはもう一つ重要なことを言っています。

「その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」(ルカ1:32、33)

これは、ダビデ契約が成就するということを言っています。

ダビデ契約は第二サムエル記7章12節?16節に書かれています。

ダビデは、神殿を建てたいという願いを持っていましたが、神さまはその願いを退けられました。しかし、ダビデの家が永遠に続くことを約束されました。これがダビデ契約なのですが、ダビデの血筋による王家という意味では、ダビデから400年後に終焉を迎えています。しかし、この神さまとダビデの約束は地上でダビデの王朝が永遠に続くという意味ではありませんでした。神さまとダビデの約束は、ダビデの家系からイエス様がお生まれになることで完全に成就されました。

ガブリエルは、マリヤからイエス様が生まれることでこのダビデ契約も成就するということもマリヤに伝えました。詩篇89篇もこのダビデ契約のことを言っています。

さて、話を戻したいと思いますが、ガブリエルに説得されて、マリヤは自分が身ごもると言うことを受け入れます。ガブリエルと話している間に、ユダヤ教の律法のことや婚約者のヨセフにどう説明したら良いんだろうなど、色々と思い巡らせたと思いますが、

「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」

と、返事をしました。



U.ヨセフの信仰


つぎに、短く、ヨセフについてもお話ししておこうと思います。ヨセフについてはマタイの福音書1章18節?25節に書かれています。

ヨセフは、自分と結婚するはずの少女マリヤが妊娠したことを知りました。このことを知ったとき、ヨセフはマリヤが不貞を犯したと思い、このままマリヤと結婚することはできないと思いました。この場合、ヨセフが取れる行動には二種類ありました。

律法では、不貞を犯した男女は石打ちにして殺しても良いことになっていました。つまり、それは、マリヤがさらし者になるということで、ヨセフがマリヤをさらし者にしたくなかったというのは、マリヤが死刑になることを望まなかったと言うことです。そうすると、次に取れる行動は、離婚状を与えてマリヤを内密に去らせることです。ヨセフはこちらを選ぼうとしていました。

ところが、実際にヨセフが行動を起こす前に、御使いが夢に現れて、マリヤの妊娠は不貞によるものではなく、神さまのみわざによるものだから、予定通り妻として迎え入れるようにと言いました。

神さまは、ヨセフに第三の選択肢として、マリヤを妻として迎え入れるという行動を取らせました。ヨセフには全く考えもしないことでした。また、非常に勇気のいることだし、信仰の試されることだったと思います。しかし、ヨセフは人々からの誤解や悪い評価を恐れず、神さまからの啓示を信じてマリヤを妻として迎え入れ、そのお腹の中にいたイエス様の法律上の父親になりました。

神さまは、時として人間的な判断基準からは思いも寄らない選択肢を示されることがあります。

ヨセフは、周りの人々からの評価を気にするなら、マリヤに離婚状を渡した方が良かったと思います。しかし、そうしませんでした。御使いの言葉を信じてマリヤを受け入れる決心をしました。これが、ヨセフの信仰です。そして、このヨセフの信仰が神さまの計画と目的を達成することになりました。



V.私たちの信仰


では、私たちはどうでしょうか?

聖書は多くは語りませんが、マリヤもヨセフも普通の人だったと思います。しかし、神さまを信じて従うことのできる信仰を持っていました。

私たちの信仰を考えるとき、マリヤもヨセフも信仰の模範とできる人たちだと思います。神さまは、ときには非常に大胆で不思議な方法で私たちを導かれることがあります。しかし、私たちは神さまの導きと御言葉を信じて進んでいきたいと思います。




ルカの福音書 1章26〜38節

26 ところで、その六か月目に、御使いガブリエルが、神から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来た。

27 この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった。

28 御使いは、入って来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」

29 しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。

30 すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。

31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。

32 その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。

33 彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」

34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」

35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。

36ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。

37 神にとって不可能なことは一つもありません。」

38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。




説教者:菊池 由美子 姉