2022年11月13日



「子どものように神の国を受け入れる」

新約聖書:マルコの福音書 10章13〜16節



T.子どものように素直に信じる


イエス様が人々を教えておられると、人々が自分の子どもをイエス様に触っていただこうと連れてきました。弟子たちは、人々を叱って、追い返そうとしました。弟子たちにとって子どもたちは取るに足りないもので、イエス様の手を煩わせるわけにはいかないと思ったのでしょう。

しかし、イエス様は逆に弟子たちのことを叱って、子どもたちを御許に呼び寄せ、子どもたちを祝福されました。

また、弟子たちには「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」と教えられました。

イエス様は、素直な心で真っ直ぐに神さまのことを信じるように教えられています。

私たちが救われるのに、条件はありません。大人でも子どもでも関係ありません。神さまを信じます、という信仰だけが私たちを救います。



U.子どものように守られる


また、子どものようにと言われるとき、そこにはもう一つの側面があります。子どもには素直さ純粋さという側面の他に、無力であるという側面があります。

小さな子どもは、生きていくことにおいては全くの無力です。親や周囲の人々にお世話されなくては生きていけません。

最初は、ご飯も自分で食べられないので、お母さんに抱きかかえられておっぱいを飲ませて貰ったり、お箸もスプーンも上手に使えないので、食べるものを口まで運んで貰ったりします。トイレに行くことができないので、オムツをして、おしっこやうんちが出たら、自分で取り替えることもできないのでお母さんや周りの大人に替えてもらわなければなりません。もちろん、お風呂も自分で入れないので大人に入れてもらわなければなりません。小さな子どもは、自分で清潔を保つこともできません。

このように、小さな子どもは、お腹すいたよ!とか、ウンチ出たよ!と言えないので、泣いて知らせようとしますが、大人になんで泣いているのかをなかなか分かって貰えないこともあるくらい、無力です。だからこそ、子どもは親や周囲の大人が守り育てることに全幅の信頼を寄せて、頼ってきます。

私たちが神さまの前で、小さな子どものように無力であることは罪ではありません。むしろ、私たちは自分自身のわざで、自分自身を救うことのできない無力な者であることを自覚する必要があります。私たちは、子どものように無力であることを自覚して、救いについては全く神さまに頼る必要があるのです。

生まれたばかりの赤ちゃんにおっぱいをあげたり、オムツを替えたりするのに、私たちが条件を付けないのと同じように、神さまも、私たちを救うのに何かができなければいけないというような条件を付けることはありません。神さまが私たちを救って下さるのに必要なことは神さまを信じることだけです。救いは、神さまからの恵み以外の何ものでもないのです。



V.福音と律法


今日の聖書の箇所で大切なのは、私たちが救いに対する自分自身の無力さを認めて、子どものような素直な心で神さまを信じること、神さまが私たちを救ってくださったのは、神さまの恵み以外の何ものでもないということです。このことが一番大切なことです。

その上で、なぜ、人は、救われるために自分自身の善良さが必要だと思ってしまうのかを考えてみたいと思います。

それは、福音と律法の問題になると思います。なので、福音と律法の関係について少しご説明したいと思います。

福音と律法は決して対立する概念ではありません。

福音は、イエス様が私たちに与えて下さったものでとても素晴らしいものです。しかし、律法も神さまから与えられたもので、福音と対立するものではありません。むしろ、律法が成就したものが福音だと思っていただいても良いと思います。

私たちが子どもを育てるとき、赤ちゃんにおっぱいやミルクを飲ませたり、オムツを替えたりするときに何か条件を付けたりすることはありません。赤ちゃんの必要に応じてお世話をすると思います。しかし、赤ちゃんがだんだん大きくなって子どもになってくると、しても良いこととしてはいけないことを少しずつ教えていくと思います。それを日本では「しつけ」と言っています。

「しつけ」と同じように、ユダヤ人に対してしても良いこととしてはいけないことを教えたのが「律法」です。

なので、「律法」とはそもそもは、ユダヤ人が知らずに罪を犯すことが無いように神さまが愛情から与えられたものです。決して、ユダヤ人達を縛るためのものではありませんでした。

では、なぜ、今私たちが「律法」を守らなくても良いのかと言うと、律法の多くは旧約時代にすでに成就しているのと、旧約時代に成就しなかったものはイエス様の十字架によって成就したからなのです。

「律法」の中には、ユダヤ人の生活に関することもたくさんありましたが、「契約の箱」に関することもあり、「契約の箱」に関することは幕屋を建てたり神殿を建てたりして旧約時代にすでに成就しています。

また、「律法」の中でも重要ないけにえに関する決まりは、イエス様が十字架に架かられたことによって成就しました。そのため、今、私たちはいけにえを献げる必要がないのです。

旧約時代のユダヤ人は、罪の贖いのために生け贄として動物を捧げ続けました。しかし、動物の生け贄は人間の罪を完全に贖うことはできませんでした。だから、繰り返しいけにえを献げる必要がありました。いけにえは一時的に罪を覆いましたが、罪を取り除くことはできませんでした。私たちの罪を取り除いたのはイエス様の十字架です。十字架後に救われた私たちは、信じた瞬間に罪が取り除かれました。神さまがイエス様を信じた者を義と認めて下さったからです。それが福音です。そして、その福音によって律法は成就しました。だから、私たちはもういけにえを献げる必要がないのです。(罪は取り除かれましたが、私たちの罪を犯す性質が無くなったわけでは無いので、私たちはクリスチャンになっても罪を犯します。そのため、日々の悔い改めは必要です)。

律法主義のユダヤ人達の間違いは、あるときから律法を守ることによって救われると勘違いをしてしまったことです。私たちも、救われるために良い行いが必要なのではないかと勘違いしがちですが、救われるために必要なのは信仰のみで、良い行いは救われたことによって私たちの内から出てくるものです。この、順番は大切です。

もし、律法を守ることによって救われるとしたら、それは、「自力救済」になります。福音主義のキリスト教に「自力救済」はありません。救いは神さまからの恵み以外のなにものでもありません。子どものように無力な者であることを認めて、子どものような素直が心で信じることだけが必要なのです。

大事なことなので、もう一度言いますが、私たち自身の良い行いや善良さは私たちを救いません。私たちを救うのは神さまを信じる信仰だけです。私たちは、自分自身の行いで自分を救うことはできません。私たちを救って下さるのは神さまだけです。

では、私たちはもう律法は守らなくても良いのかと言うと、そうではありません。

十戒など、まだ、私たちにも守るように残されている律法もあります。

しかし、それは、救われるために守るのではなく、救われたから守るのです。

私たちは、救われるために行いは必要ないからと言って、救われた後も行いは必要ないと思ってはいけないのです。

子どもが大きくなるに従って、社会のルールを身に着けていくのと同じように、クリスチャンも、神の子としての振る舞いというのを身に着けていく必要があります。でも、ここでちょっとややこしいのが、この神の子としての振る舞いというのも、私たちが自分で考えて自分の力でできるようになるのではなくて、神さまに祈り求めて、神の子としてふさわしい振る舞いができるようにしてもらう必要があります。

ずっと赤ちゃんのままでは困りますが、私たちは少し成長してきたとしても、そのあとは自分の力でもっと成長していけるというわけではなく、クリスチャンとしての成長は聖霊様の助けが必要だということを認めて、無力だということは全然悪いことではないので、信仰の成長も、良い行いも、神さまに祈り求めていくことが必要です。

神さまにはどんどん依存して、頼っていって欲しいと思います。


「イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」マルコの福音書10章14,15節



<マルコの福音書 10章13〜16節>

13 さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。

14 イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。

15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」

16 そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。




説教者:菊池 由美子 姉