2022年8月28日



「悔い改める者を赦してくださる神さま」

旧約聖書 ヨエル書 2章1節〜14節




T.預言者ヨエルとその年代


1.預言者ヨエル

はじめに、預言者ヨエルとその時代についてご説明します。預言者ヨエルについては、1章1節に「ペトエルの子ヨエル」と書かれているだけで、その他の情報は何もありません。ヨエルという名前は「主は神」という意味で、当時のユダヤではありふれた名前でした。旧約聖書には10人以上登場します。しかし、ペトエルの子ヨエルは、このヨエル書のヨエルひとりだけで、他の書に出てくるヨエルと同一人物では無いようです。


2.ヨアシュ王の時代

年代についても諸説ありますが、南ユダ王国のヨアシュ王の治世下というのが有力と思われますので、今回はヨアシュ王の治世下ということにします。ただ、年代は預言の内容にはそれほど重要では無いようです。

南ユダ王国のヨアシュ王は、預言者オバデヤが活躍した時代のヨラム王の孫で南ユダ王国の8代目の王さまでした。

ヨラム王の次に息子のアハズヤが王さまになりましたが、アハズヤが死ぬとヨラム王の妻アタルヤが、ダビデの血筋の王族を次々に殺し、女王として南ユダ王国に君臨します。このアタルヤという人は北イスラエル王国の王さまであるアハブの娘です。アハブは悪い王さまで、娘のアタルヤはその悪い影響を強く受けていました。このアタルヤがダビデの家系の人々を虐殺した時、ヨラム王の娘のエホシェバとその夫で祭司のエホヤダが、赤ちゃんだったアハズヤの息子ヨアシュを救い出してこっそり育てました。(この惨事でダビデの家系が途絶えそうになりましたが、ヨアシュが救出されたことにより、イエス様までの血筋が繋がりました。)

そしてヨアシュが7歳の時、エホヤダが主導してアタルヤを殺し、ヨアシュを即位させます。ヨアシュは7歳で王となり40年間王位につきました。このヨアシュが子どものうちは、エホヤダが補佐をして南ユダ王国を治めたので、ヨアシュは善い王さまでした。しかし、エホヤダの死後は偶像礼拝をする悪い王さまになりました。

ヨエルが「主の日」について預言した時代は、こうした、南ユダ王国内での王族の大量虐殺や王位のための殺人など、血なまぐさい時代の後の、比較的安定した時代でした。ヨアシュ王の治世も40年と長いですし、日本で言うと戦後の昭和時代のような時代だったようです。



U.大災害の預言


1.イナゴによる大災害

ヨエル書の1章ではイナゴによる大災害の様子が描写されています。このイナゴの大災害は、すでに起こったことが描写されていると言われています。2章の描写も、戦争について書かれているように読めるのですが、これも、イナゴの大災害を比喩的に表現しているとも思われます。もしくは、イナゴの大災害と戦争の両方が示されていると考えても良いと思います。ヨエルは、すでに起こったイナゴの大災害を人々に思い出させて、もし今悔い改めなければもう一度イナゴの大災害や戦争が南ユダ王国を襲う、と預言します。

小預言書の預言の多くは、どのような神さまのさばきがあるのかを預言して、その預言を回避するための悔い改めを勧めるものです。そのため、直接起こる出来事の描写があるのですが、ヨエル書の場合は、イナゴの大災害です。

また、この直接起こる出来事を「型」として、もっと遠い未来に起こる出来事が預言されていることがあります。その内容は預言書によって違いますが、イエス様についての預言は旧約聖書の至る所にあって、この「型」を使ったイエス様についての預言が非常に多いのです。ヨエル書では、「主の日」という言葉を使い、イエス様の生きておられた時よりもさらに先の預言をしています。


2.主の日とは

「主の日」とは、神の審判と救いの日のことです。ヨエルは、この書で5回「主の日」という言葉を使っています。1章15節では最初の「主の日」が使われています。

「ああ、その日よ。主の日は近い。全能者からの破壊のように、その日が来る。」

ここで、「主の日は近い」とありますが、その内容は、2章1節に書かれているいなごによる大災害です。「主の日」というのは、必ずしも終末のことだけを言っているわけでは無く、まずは、イスラエルの人々が悔い改めなければ行われるであろう神さまからの裁きのことを指しています。ヨエルは、2章でもう一度イナゴの大災害を描写し、南ユダ王国の人々に悔い改めを迫っているのです。

13節で「あなた方の着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。」とあります。旧約聖書を読んでいると、悔い改めるときに着物を引き裂くという描写がよくありますが、しかし、ここで求められているのは着物を引き裂くというような形式的な悔い改めではなく、心からの悔い改めであるということが示されています。そして、もし悔い改めるのであれば、「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。」と告げています。


3.回復の約束

2章25節以降には、大災害の後の回復の約束が預言されています。いなごの大群が通り過ぎた後には人間の食べるものは残りません。

イナゴの大災害を送られたのは神さまです。しかし神さまは、また人々の悔い改めに応えて、19節で「今、わたしは穀物と新しいぶどう酒と油とをあなたがたに送る。あなたがたはそれで満足する。」と言い、23節では「シオンの子らよ。あなたがたの神、主にあって、楽しみ喜べ。主は、あなたがたを義とするために、初めの雨を賜り、大雨を降らせ、前のように、初めの雨と後の雨とを降らせてくださるからだ。打ち場は穀物で満ち、石がめは新しいぶどう酒と油であふれる。」と言って、回復を約束して下さいます。



V.まとめ


1.悔い改めによる赦し

ヨエル書には、裁きの預言はありますが、南ユダ王国の人々がどのような罪を犯して裁かれるのか、罪の具体的な内容が書かれていません。当時の南ユダ王国は、ゆるやかに偶像崇拝へ傾いていっていたので、何か大きな罪があったというよりも、南ユダ王国の人々の心がゆるやかに神さまから離れていっていたのかもしれません。もしくは、当時としては裁かれるべき罪があまりにも自明だったので聖書には書かれていないのかもしれません。

ただ、ゆるやかに心が神さまから離れていくときは注意が必要です。私たちも、生活していると、細かいことに追われて、知らないうちに心がゆるやかに神さまから離れて行っていることがあると思います。これは、信仰を捨てると言うほどのことではなくて、神さまを信じているのだけれども、なんとなく、心が離れていくというか、神さまを少しだけ遠くに感じるようなことがあるということです。逆に何か、大きな罪を犯すようなことがあると、とても分かりやすいので悔い改めにも導かれやすいように思います。

例えば、星の子ルーム(保育所)の小さな子どもたちを見ていると、まだ小さいのでなかなか自制心がきかなくて、欲しいオモチャがあるとお友だちからむりやり取り上げてしまったり、相手の子ががっちり掴んでいて離さないと、叩いたり突き飛ばしたりということをしてしまうことがあります。このようなとき、大抵はその子も、自分でも悪いことをしていることが分かっています。叩いたり突き飛ばしたりはしてはいけないと分かっていますが、欲しいオモチャを手に入れたいという気持ちが上回ってしまって自制心がきかなくなるのです。そういうときは、保育士が仲裁に入ると、素直に「ごめんね」を言うことができます。星の子ルームでは、まだ言葉が話せない子どもでも、「頭なでなで(という動き)」が「ごめんね」の印で、話せなくても「ごめんね」をするように促します。自分でも悪いことをしていると分かっているときは、比較的素直に「ごめんね」を言うことができます。

けれども、例えば、単に室内を走り回っていたらお友だちにぶつかってしまった、と言うようなときは、全く悪意が無いので、「自分は悪くない」と思っています。相手が泣いたとしても、なかなか素直に「ごめんね」が言えない。大人になると、むしろ悪意が無いときの方が素直に謝れるのではないかと思いますが、子どもは悪意無く相手を害してしまったときは、自分は悪くないと思っているので謝れない。これは、私たちが神さまに悔い改めをするときに似ているように思います。

自分の中にはっきりと罪の意識がある場合は、悔い改めなければならないことに納得がいくのですが、信仰を失った訳ではないけれど、なんとなく神さまを遠く感じるくらいだとなかなか罪の自覚を持てないので、神さまの前に心を砕かれることが無いまま過ごしてしまい、ちりも積もればで、気付くとだいぶ神さまから遠いところにいる、そのようなことがあるのではないでしょうか。

そうならないためにはどうしたら良いのか。それには、やはり毎日の*デボーションが大切だと思います。お祈りをして聖書を読むということは、人間が生きるのに食事や睡眠が必要なように、私たちがクリスチャンとして生きるために必要なことだと思います。

今日の招詞は、ヨエル書2章18節です。「主はご自分の地をねたむほど愛し、ご自分の民をあわれまれた。」ここにあるように、私たちは、神さまからねたむほど愛されているのです。

もし、私たちが神さまから離れていこうとしたら、神さまは最終的には裁きのような強い力を使ってでも、私たちをご自身に引き戻そうとされるお方です。主に来る者は拒みませんが、去る者追わずではありません。私たちが離れようとしたら、強い力でご自身に引き戻そうとされるのです。ヨエルの預言したイナゴの大災害も、南ユダ王国の人々を滅ぼそうとしたわけでは無く、人々が悔い改めて神さまに立ち返らせるのが目的でした。

私たちも何度も何度も失敗してしまいます。しかしそのたびに、心から悔い改めれば神さまは何度でも赦して下さいますし、もう本当にこれはダメじゃ無いかと思っても、本気で悔い改めればイエス様が取りなして下さり、神さまは赦して下さいます。それほど、神さまは私たちを愛してくださっています。旧約聖書には、イスラエルの人たちは何度も偶像崇拝をして神さまを裏切りますが、そのたびに悔い改めて、神さまから赦されてきたことが書かれています。


2.3章について

最後に3章について。3章には終末の預言が含まれています。終末の預言については色々な説があり、今日お話しするのは難しいので割愛します。けれども、私たちは、終末に向けてどのように備えたらいいのか。新約聖書にはそのことがはっきり書かれています。エペソ書6章10節から18節を紹介します。

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」


*デボーションとは、日々聖書を読み、祈り、神と交わること




<ヨエル書 2章1〜14節>

1 シオンで角笛を吹き鳴らし、わたしの聖なる山でときの声をあげよ。この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。

2 やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。山々に広がる暁の光のように数多く強い民。このようなことは昔から起こったことがなく、これから後の代々の時代にも再び起こらない。

3 彼らの前では、火が焼き尽くし、彼らのうしろでは、炎がなめ尽くす。彼らの来る前には、この国はエデンの園のようであるが、彼らの去ったあとでは、荒れ果てた荒野となる。これからのがれるものは一つもない。

4 その有様は馬のようで、軍馬のように、駆け巡る。

5 さながら戦車のきしるよう、彼らは山々の頂をとびはねる。それは刈り株を焼き尽くす火の炎の音のよう、戦いの備えをした強い民のようである。

6 その前で国々の民はもだえ苦しみ、みなの顔は青ざめる。

7 それは勇士のように走り、戦士のように城壁をよじのぼる。それぞれ自分の道を進み、進路を乱さない。

8 互いに押し合わず、めいめい自分の大路を進んで行く。投げ槍がふりかかっても、止まらない。

9 それは町を襲い、城壁の上を走り、家々によじのぼり、盗人のように窓から入り込む。

10 その面前で地は震い、天は揺れる。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。

11 主は、ご自身の軍勢の先頭に立って声をあげられる。その隊の数は非常に多く、主の命令を行う者は力強い。主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。

12 「しかし、今、−−主の御告げ−−心を尽くし、断食と、涙と、嘆きとをもって、わたしに立ち返れ。」

13 あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち返れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ。

14 主が思い直して、あわれみ、そのあとに祝福を残し、また、あなたがたの神、主への穀物のささげ物と注ぎのぶどう酒とを残してくださらないとだれが知ろう。





説教者:菊池 由美子 姉