2022年7月17日



「初めの愛」に留まる


ヨハネの福音書 1章35〜51節


聖句 

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(Tヨハネ4:10)


皆さんは、思い出に残る出会いと言うと何を思い浮かべでしょうか。結婚相手との出会い、学校や職場でお世話になった恩師との出会い、生まれた子どもとの出会い、色々あると思います。今日は、キリストと出会ったときの弟子たちの話しを致します。



1 弟子たちはメシアに出会った


当時、当時イスラエルは、ローマの支配下にあり、属州でした。多くの人が救い主キリストの来ることを望んでいました。(ヨハネ4: 25)イエス様が弟子たちと出会われたのは、そのようなときでした。

弟子とイエス様との出会いについて、四つの福音書のうちマタイの福音書とマルコの福音書の内容はほぼ同じです。湖で網を打っていたペテロとアンデレに、イエス様が「わたしについてきなさい。人間を取る漁師にしてあげよう。」と声をかけたこと、またそれから少し先で、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネを招いたことが書かれています。

ルカの福音書では、主にペテロの召命が書かれています。イエス様は、ペテロの舟に乗り群衆を教えられた後、ペテロに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を取りなさい。」と言われます。ペテロは「先生。私たちは、夜通し働きどうしましたか、何一つ取れませんでした。でもお言葉通り網を下ろしてみましょう。」と言い、その通りにすると網が破れるほどのおびただしい魚が取れました。これに驚いて、ペテロが「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。」と言うと、イエスが「怖がらなくても良い。これから後、あなたは人間を取るようになるのです。」と話されました。

しかし、ヨハネの福音書では、4人の弟子たちがイエス様に出会ったときの様子が、弟子たちの視点から書かれています。


35節で、バプテスマのヨハネの「見よ、神の小羊」「この方は神の子である。」 と言う証しを聞いて、2人の弟子がイエス様について行きました。アンデレとヨハネです。

この時イエスは2人に「あなた方は何を求めているのですか」と尋ねます。これは、あなたたちの願いとは何かと言う意味です。(詳訳聖書) これに対して弟子たちは「今どこにお泊まりですか」と尋ね返します。弟子たちはキリストを待ち望んでいたので、「あなたがその人なのですか」と、聞きたかったのだと思います。イエス様は、「来なさい。そうすればわかります」と答えます。「時は10時ごろ」、午後4時ごろのことでした。

2人はその夜イエス様と過ごし、イエス様がキリストであることがわかりました。それで、アンデレは兄弟シモンを探し出して、「私たちはメシアに会った」つまり、「兄さん、私たちが求めていたキリストに会った。」と伝えます。メシアはヘブル語、キリストはギリシャ語です。おそらく半信半疑だったシモンを、アンデレはイエス様のところに連れてきます。イエス様は、そのシモンを見つめて言います。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたはケファと呼ばれます。」

その翌日、イエス様はピリポを見つけて、「わたしに従って来なさい。」と言われます。ピリポは、すぐイエス様がキリストだとわかったのでしょう。それで友人のナタナエルを見つけて、「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」と言います。

しかしナタナエルは、ピリポの話しを疑います。「ナザレから何かよいものが出るだろうか。」これは、「キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る」ということが、旧約聖書のミカ書で預言されていることが知られていたからです。ナタナエルのことばに、ピリポはただ「来て、見なさい。」とだけ答えます。実際にイエスに会ってみなさい。そうすればわかる。私たちも、イエス様を信じている人との出会いを通して、イエス様と出会って来たように思います。

イエス様はナタナエルが自分の方に来るのを見て、「これこそ本当のイスラエル人だ。彼のうちには偽りがありません。」と言われました。「本当のイスラエル人」。これについては、ローマ人への手紙書9章4節にあるパウロのことばが参考になります。それによれば、神の子であり、モーセの律法を与えられ、幕屋や神殿で神を礼拝し、多くの約束を与えられている民、その自覚を持ち、行動する人のことです。

余談ですが、これはなかなか日本人にはわかりにくいです。内村鑑三の「代表的日本人」と言う本があります。これは過去に日本人が誇りに思う人たちとその価値観が書かれていますが、言うなれば日本人論です。西郷隆盛や、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮。素晴らしい人たちですが、しかしここには、「本当の日本人」という考え方はありません。真の神様がいないからです。

イエス様に従って行った弟子たちは、きっと大喜びだったことでしょう。マタイ13章44、45節で、イエスは天の御国を「畑に隠された宝」と「良い真珠を探している商人」の例え話しをされています。それは今日も同じです。


私が救われたときのことを証しします。20歳の春に左足が痛くなり、病院の診察を受けたところ脊椎カリエスと診断されました。その夏は将来のことを悲観して、落ち込んでいました。その少し前に学友と一緒に買った新約聖書を読んだのはそのような時でした。読みながら、聖書に書いてあるような生き方ができればどんなにいいだろうと感じましたが、聖書に書かれていることは人には不可能だから、これは作り話だと思いました。

夏休みが終わり、授業が始まったある日、宇佐美君という友人から、「今日宣教師に会うのだが、1人だと心細いから一緒に来てくれないか」と誘われます。その日の午後、御茶ノ水の喫茶店で、二人でその宣教師と会って話をしました。その時どんなことを話したか忘れましたが、この人が偽りを言っているのではないことは分かりました。それでその宣教師と再度会う約束をして教会を訪ねました。その後故伊藤牧師に導いて頂いてイエス様にお会いし、翌年のイースターに洗礼を受けました。「来て、見た。」のでした。40年以上前のことですが、昨日のことのように覚えています。



2 イエスは弟子たちを使徒に任命した


この後、弟子たちは、イエス様から使徒に任命されます。弟子というのは、先生から教えを受ける者です。使徒とは、使命を帯び遣わされた者、その遣わした方を代表する者を言います。マルコ3章には「それは彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」と書かれています。

使徒に任命されたのは、シモン・ペテロとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、イスカリオテのユダの12人です。(マルコ3章 13節他)


弟子たちは、その後イエス様の十字架の死と復活を経験します。さらに聖霊を頂いて、教会の礎を作ることになります。パウロは、教会を神殿に例えて、キリストは礎石、使徒と預言者は土台、一人ひとりのキリスト者は建物の石だと言いました。私たちは、イエス様を礎石として、使徒たち、兄弟姉妹とつながり、「聖なる公同の教会」の一部分なのです。(エペソ2:20)



3 「初めの愛」に留まろう


ヨハネの黙示録2章1節から5節を見て下さい。ヨハネの黙示録は、福音書を書いたヨハネが、老年になってパトモスという島にいた時、キリストから御使を通して告げられて記したものです。2章1節から5節は、そのうち、 主からエペソにある教会に書き送るように言われたことばです。注目して欲しいのは4節「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。」

エペソの教会は、かつて愛のある教会として賞賛されました。(エペソ1: 15、16)また、主はその労苦と忍耐も高く評価し、「あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」と言われます。しかし、主は「あなたは、初めの愛から離れてしまった」と非難します。

では、「初めの愛」とは何でしょう。詳訳聖書では、ここの箇所を次のように訳しています。「あなたは初めに持っていた愛から離れて(それを捨てて)しまった(あなたの初めの愛であるわたしを捨ててしまった。それゆえ、あなたがどんな高い所から落ちたかを思い起なさい。悔い改めて、神の御心にかなうために内なる人を変えて、あなたが以前に(初めて主を知ったときに)なしたわざをしなさい。」


私たちは、生活や仕事に忙しい毎日を送っています。生活や仕事だけでなく、いじめや病気、失業など様々な戦いも経験します。まじめに生きようとすればするほど体も心も疲れ果てます。そのあなたに、神様はもっと頑張れとは言いません。それよりも何よりも神様は、あなたが、あなたの代わりに父なる神様に捨てられ、十字架に掛かられたイエス様の愛にとどまるようにと語るのです。ヨハネの手紙第一4章10節を見て下さい。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」

エレミヤ2章2節、「わたしは、あなたの若い頃の真実の愛、婚約時代の愛、種も蒔かれていなかった、荒野でのわたしの従順を覚えている。」 みなさん、「初めの愛」に留まろうではありませんか。



<ヨハネの福音書 1章35〜51節>


35 その翌日、またヨハネは、ふたりの弟子とともに立っていたが、

36 イエスが歩いて行かれるのを見て、「見よ、神の小羊」と言った。

37 ふたりの弟子は、彼がそう言うのを聞いて、イエスについて行った。

38 イエスは振り向いて、彼らがついて来るのを見て、言われた。「あなたがたは何を求めているのですか。」彼らは言った。「ラビ(訳して言えば、先生)。今どこにお泊まりですか。」

39 イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすればわかります。」そこで、彼らはついて行って、イエスの泊まっておられる所を知った。そして、その日彼らはイエスといっしょにいた。時は第十時ごろであった。

40 ヨハネから聞いて、イエスについて行ったふたりのうちのひとりは、シモン・ペテロの兄弟アンデレであった。

41 彼はまず自分の兄弟シモンを見つけて、「私たちはメシヤ(訳して言えば、キリスト)に会った」と言った。

42 彼はシモンをイエスのもとに連れて来た。イエスはシモンに目を留めて言われた。「あなたはヨハネの子シモンです。あなたをケパ(訳すとペテロ)と呼ぶことにします。」

43 その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて「わたしに従って来なさい」と言われた。

44 ピリポは、ベツサイダの人で、アンデレやペテロと同じ町の出身であった。

45 彼はナタナエルを見つけて言った。「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」

46 ナタナエルは彼に言った。「ナザレから何の良いものが出るだろう。」ピリポは言った。「来て、そして、見なさい。」

47 イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」

48 ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは言われた。「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」

49 ナタナエルは答えた。「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」

50 イエスは答えて言われた。「あなたがいちじくの木の下にいるのを見た、とわたしが言ったので、あなたは信じるのですか。あなたは、それよりもさらに大きなことを見ることになります。」

51 そして言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます。」



説教者:加藤 正伸 長老