2022年7月10日



「イエス様に救われた私たちは聖霊様によって成長させられる」

ローマ人への手紙 8章1〜13節



義認と聖化の、主に聖化についてお話ししたいと思います。



T.イエス様に救われることを義認と言う


まず、簡単に「義認」についてご説明したいと思います。

イエス様に救われることを、難しい言葉で「義認」と言います。私たちの本質は罪ですが、私たちが悔い改めてイエス様を信じるとき、神さまが私たちを「正しい」と認めてくださることを「義認」と言います。これは、私たちの本質が「義」に変化すると言うことではなく、私たちの本質は相変わらず「罪」なのですが、神さまが私たちを「正しい」と宣言してくださるということです。

先程読んでいただいたローマ書8章1節に「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」と書かれているのは、私たちの本質が変化して罪を犯さなくなるということではなく、私たちは相変わらず罪を犯してしまう者だけれど、イエス様によって「無罪」だと宣言されているということです。

私たちが洗礼を受けてクリスチャンになるとき、罪の悔い改めは必要ですが、救いはあくまでも神さまからの恵みであって、私たちが神様を信じて立派な人間になったから救われると言うことではありません。私たちの本質はあくまでも「罪人」であり、「義認」とは本質は「罪人」のまま神さまが私たちに「正しい」というレッテルを貼ってくださることです。



U.聖化とは肉から霊になること


次に、「聖化」についてご説明したいと思います。

「聖化」とは、現在進行形の救いのことです。今、すでにクリスチャンである人は、「聖化」の過程にあると言えます。

イエス様を信じて救われたとき、私たちの本質は「罪人」のままだけれど、もう神さまに「正しい」と認めて貰っているのだから、じゃあ、このままで良いでしょ?あとは自由に好きなように生きよう!と思っても良いのかと言うと、そういうわけではありません。だからと言って、これからお話しすることは、クリスチャンなんだから我慢して、忍耐して、自分を犠牲にして生きましょう!ということでもありません。

救われるために必要なものは、イエス様を信じること、それだけなのですが、信じた後、私たちには聖霊様が与えられて変えられていきます。

今日読んでいただいたローマ書8章でも9節から11節には私たちのうちに聖霊様が与えられていることが次のように書かれています。

「けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ8:9〜11)

さて、今読んだ箇所に「肉」という言葉が出てきましたが、「肉」というのはイエス様を信じる前の私たちのことを指しています。そして、イエス様を信じて聖霊様を与えられると私たちは「霊」に変えられていくのです。

「霊」に変えられるとどうなるのか、特に分かりやすいのはガラテヤ書でしょうか。

ガラテヤ書には御霊の実について書かれている箇所があります。

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。」(ガラテヤ5:22〜23)

とても分かりやすく、このような人間性を目指して変えられていきたいと思わされるのではないでしょうか。

しかし、ここで私たちは勘違いをしてはいけないことがあります。

私たちは、自分自身の努力によって、御霊の実と言われるような人間性を獲得することはできません。中には、クリスチャンでも、クリスチャンでは無くても、非常に良い人間性の人もいますので、もしかすると、人間的な努力によって善意の人となることができる人もいるかもしれません。しかし、ここで間違えてはいけないのは、私たちが自分自身の努力によって自分自身の人間性を変えるなら、たとえ良い変化であったとしても、それは「肉」から「肉」へ変わったに過ぎません。神さまが私たちに求めているのは、自分自身の努力によって人間性を変えることでは無く、聖霊様の助けによって信じる前の「肉」から信仰者としての「霊」に変えられることです。私たちが自分自身の努力によって「霊」に変わるのは不可能です。私たちを変えてくださるのは聖霊様です。

もうひとつ、「聖化」に関してご説明したいことがあります。

私たちの「聖化」の歩みは、らせん階段のついた塔を登っていくようなものです。

私たちの信仰生活というのは、らせん階段のついた塔の中に入り、らせん階段をゆっくりと登っていくようなものです。この、てっぺんは、救いが完成した状態で難しい言葉だと「栄化」といいます。

私たちの信仰生活は、聖書を読んだり、お祈りをしたり、礼拝に出席したりして、塔の中にあるらせん階段を少しずつ登って行くようにして成長します。それには聖霊様の助けがありますので、聖霊様が手を引いてくれていると考えても良いかもしれませんし、教会に来ればクリスチャンの兄弟姉妹がいますので、孤独な歩みというわけではないと思います。そして、信仰生活を送るうちに私たちは少しずつ、少しずつ、きよめられていきます。

また、この塔には同じ景色が見える位置に窓がついています。高い位置の窓からは、同じ景色ですが、下の階の窓からは見えなかった風景も見えるようになります。これが何を意味しているかというと、私たちは聖化の歩みを歩むうちに、今まで気づけなかった罪に気付くようになります。

実は、聖化が進めば進むほど、今まで気付かなかった自分の罪に気付くようになります。イエス様を信じた直後は、救われてこれからどんなすばらしい人生がまっているのかと思われがちですが、長く信仰生活を送っている人はもう、おわかりだと思いますが、実際には、自分の罪深さに日々気付かされる歩みとなります。これは、当然のことで、信仰生活を送っていると、救われる前や救われたすぐ後には気付かなかった罪にどんどん気付かされていくのが普通です。そして、それがきよめられているということです。

もし、あるとき、もう自分には悔い改めるべき罪がないとか、今日は罪を犯さずに過ごすことができた、と思うことがあるなら、立ち止まって祈り、よく聖書を読んだ方が良いでしょう。

私たちが生きていて、今日は、罪を犯さずに過ごすことができた、ああ良かった、と思えることは、まず、無いです。今日は罪を犯さなかったと思うなら、それは信仰の黄色信号だと思った方が良いです。

でも、そういうことはあります。信仰の黄色信号ではありますが、あまり、悲観しすぎないようにしてもらいたいと思います。聖化の歩みが後退してしまうことはあるし、それ自体は仕方の無いことかと思います。そういうことがあっても、私たちがそれに気付いて悔い改めるなら神さまは赦してくださいますし、聖霊様は私たちがクリスチャンとして成長することを助けてくださいます。下に落ちちゃったな、と思っても、悔い改めつつ、また一歩一歩信仰の階段を登って行けば良いことだと思います。

パウロも、次のように言っています。

「私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して闘いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。」(ローマ7:15〜25)

パウロでさえも自分のしていることがわからない、自分のしたくないことをしている、善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することができないと言っているのです。パウロでさえそうなのですから、私たちがしたいと思っている善行をすることができないのは当然のことではないでしょうか。

イエス様を信じて救われても、私たちの本質が罪人であることは変わりません。罪人だけど、イエス様を信じたので、神さまが「正しい」と宣言してくださっているに過ぎないのです。だから、私たちは救われた後も罪を犯します。罪は犯すけど、それに気付いたら、悔い改めて祈るとき、神さまは赦してくださいます。

そして、この、塔の中のらせん階段を登るような信仰生活は、今まで気付かなかった罪に気付くだけの歩みではありません。今まで気付かなかった神さまの恵みにも気付いていくことがあります。神さまや聖霊様との交わりが深まれば、何度も何度も読んでいる同じ聖書の箇所からも新しく示されることがあるはずです。


今日のお話の中で「義認」とか「聖化」とかの難しい言葉は忘れて貰っても構いません。大切なのは、私たちは罪人だけれども恵みによって救われているということと、救われてから聖霊様が与えられて、聖霊様が私たちを信仰的に成長させてくださるということです。

私たちは、どこまで行っても罪人だけれども、神様の一方的な恵みによって救われていて、聖霊様が与えられていることによって変えられて、御霊の実と言われるような良い行いができるようになります。これは、逆はあり得ません。

私たちの良い行いは、救われた結果です。そして、その良い行いも、私たちの努力によるものではなく、聖霊様が助けてくださって、できるようにしてくださるものです。


最後に、ガラテヤ書5:16-26をぜひお読みください。


16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。

17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

18 しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。

19 肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、

20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、

21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。

25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

26  互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。




<今日の聖書箇所>

ローマ人への手紙 8章1〜13節


1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。

6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。

7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。

8 肉にある者は神を喜ばせることができません。

9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。

11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。

13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。




説教者:菊池 由美子 姉