2022年6月26日



「すべての人を照らすまことの光」

ヨハネの福音書 1章1〜18節



今日はヨハネの福音書1章から学びます。私たちは、外出して自分が今どこにいるのか知りたいときにスマホの地図アプリを開きます。そして今いる場所がわかると安心します。同じように、今日の箇所は、ヨハネの福音書だけでなく、キリスト教信仰をまとめたような箇所です。神様であるイエス様のこと、イエス様と私たちとの関係が書かれています。


1つ目。イエス様は神様であり、人の光です。

1〜3節で、イエス様が神様であること、この世界の創造主であることが書かれています。

神様は「ことば」をもって天地を創られました。創世記1章に「神は仰せられた」と 書かれているとおりです。天地だけではありません。イザヤ書45章7節にあるように「わたしは光を造り出し、闇を創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これら全てを造るもの」です。神様は、三位一体と言われ、父なる神、子なる神、聖霊なる神と説明されます。イエス様もご自身が神であることを17章5節で語っています。イエス様は神様であり、すべてのものを造られたお方です。


4節、5節で、イエス様には「いのち」があり、それは「人の光」であることが書かれています。イエス様は人の心の暗闇を照らす光です。9節に「すべての人を照らすそのまことの光」とあります。イエス様は言われました。「わたしは光として世に来ました。わたしを信じるものが、誰も闇の中にとどまることがないためです。」(ヨハネ12:46) 闇はこの方に打ち勝ちませんでした。別訳では「理解しなかった」とあります。


6節から8節には、光であるイエス様をあかしするために、1人の人が神様からこの地に遣わされたことが書かれています。バプテスマのヨハネです。このヨハネがユダヤの荒野でユダヤ人たちに「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と言い、悔い改めた人に水でバプテスマを授けます。(マタイ3章)


2つ目。人は罪人であり、人の心には闇があります。

9節〜11節では、イエス様はこの世界を、そして人間を造られ、人を闇から救うためこの地上に来られたが、しかし世の人はこのイエス様を知らず、アブラハムを通じて神の民とされたイスラエルの人がこの方を受け入れなかったことが書かれています。「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」

なぜでしょう。それは「光が世に来ているのに、人々が光よりも闇を愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをするものは光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない」(ヨハネ3章19・20節)からです。

先日の新聞の読書欄に、「死刑に至る病」と言う本の紹介がありました。そこにはこう書かれていました。「凶悪殺人を語る際に、安易に使用されがちな言葉の1つに「心の闇」と言うものがある。殺人者の心には、我々には想像もつかぬことがあるに違いないと言う意識の表れだろうか。実際にはすべての人の心に等しく闇があるのだが、それを認めることには抵抗がある。だから皆、殺人者の心の闇を知りたがる。」「実際にはすべての人の心に等しく闇がある」聖書が述べている人間の姿もまさに同じです。


3つ目。キリスト・イエスを信じる人は神の子どもです。

12節、13節「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」神様は神の御子を信じた人たちに神の子どもとされる特権を与えてくださいました。それは、血すじによってではなく、自分の努力ではなく、知識や能力でもなく、ただ神様によってだというのです。

14節から16節は、この福音書を書いた使徒ヨハネの証言です。14節の「住まわれた」とはクリスマスのことです。「幕屋を張られた」と言う意味だそうです。イエス様はクリスマスにお生まれになり、福音宣教を行い、十字架上で死なれ、墓に葬られましたが、3日目に甦られて天に昇られました。


4つ目。イエス様は、私たちが光の中を歩めるように、律法を守れるようにしてくださいます。

16節と17節「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。と言うのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

律法とは、人が幸せになるために、神様が定められた幸せの枠組みです。殺してはいけない、盗んではいけない、神を神とせよ等。善悪の基準であり、この世界を支えている秩序です。ユダヤ人やクリスチャンだけを対象にしているのではなく、すべての人を対象にしています。その中で神様がモーセを通じてユダヤ人に与えた律法が「十戒」です。

律法は私たちの心のうちにある罪を明らかにします。お金が最も大事だと考えている人には、お金が神になってることを教えます。陰口を言ったりごまかしたりする人には、それが罪であることを教えます。そして罪には罰が伴います。「罪から来る報酬は死です」(ローマ6:23)とあるとおり。その結果、本来は人に幸せをもたらすはずの律法が、逆に罪の意識をもたらし、死に導くことになります。これが私たち人間の現実です。

しかし、その罪深い私たちに、罪からの救いの道、神の子どもとして頂く道が与えられました。それがイエス様です。神様の大いなる恵みです。信じる者はみな「キリスト・イエスに対する信仰によって神の子ども」(ガラテヤ3:20)になるというのです。

また神様は、信じた者が罪をおかしたときには、「自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Tヨハネ1章9節)


今日は、イエス様は人の光ということ、人は罪人でありその心には闇があると言うこと、信じた者はキリスト・イエスに対する信仰によって神の子どもであるということ、イエス様は、私たちが、律法を守れるようにしてくださるという、この4つをお話ししました。


イエス様は言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」(ヨハネの福音書14章6節) イエス様こそ絶対の真理です。すべての人がこのイエス様と出会うことが出来るように、また既に信じた人には、イエス・キリストを知る知識を増させて下さるようにお祈りいたします。




<ヨハネの福音書 1章1〜18節>

1初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

2 この方は、初めに神とともにおられた。

3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

6 神から遣わされたヨハネという人が現れた。

7 この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。

8 彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。

9 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。

10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。

11 この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。

12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

13 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

15 ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」

16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。

17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。



説教者:加藤 正伸 長老