2022年5月1日



「あなたはわたしを愛しますか」

新約聖書:ヨハネの手紙21章1節から19節



復活された主がガリラヤ湖畔で現れ、弟子たちのために食事を用意され、またペテロを励まし、教会を牧するように命じました。このこと通じて、主の私たちへ愛と、励ましについて学びたいと思います。


1イエス様が弟子たちに食事を用意される (21章1節から14節)


(1)背景

前回はイースターの話しでした。死からよみがえったイエス様は、天に昇られるまでの40日間、地上で弟子たちにご自身を現されます。今日の聖書箇所は、ガリラヤ湖畔でご自身を現された時のことです。前半と後半に分かれます。前半は、イエス様が漁をしていた弟子たちに声をかけ、食事を与えられた場面、後半はペテロに同じ質問をされた場面です。

 

(2)ガリラヤ湖で漁を始めた弟子たち

ガリラヤ湖は、聖書では別名テベリア湖、ゲネサレ湖とも言います。ヨルダン川と地下水を水源とする淡水湖。琵琶湖の4分の1ほどの大きさです。

ここに登場するのは、ペテロ、トマス、ナタナエル、セベダイの子ヤコブとヨハネ、他に二人の弟子の7人。

もともとペテロとヤコブとヨハネは漁師でした。ルカ5章にペテロの家族とヤコブ、ヨハネの家族が協力して漁をしていたことが書かれています。ペテロは、活力にあふれた情熱家であり、生まれながらのリーダーで、行動的な人だったようです。トマスは、他の弟子たちがイエス様の復活を信じられず疑ったあのトマス。ナタナエルは十二弟子の一人バルトロマイの別名のようです。教会と同じように、弟子たちも色々な人がいました。

マタイ28章とマルコ16章に、イエスが弟子たちに「ガリラヤに行くように」と言われたことが記されています。弟子たちは、そこで主にお会いするまでの間、食べ物もなくなり、途方にくれて「漁に行く」ことになったのでしょうか。

この時代、漁師は3種類の網を使っていました。地引き網、投網(とあみ) 、刺し網です。ペトロたちが使っていたのは投網です。投網は直径6メートル位の円形の網で、網の先端に重りが付いています。投網を片方の腕に畳み込み、パラシュートを開くような形で水の上に打ちます。開かれた網は、水中の魚たちを捉えながら沈んでいくのです。網を引き上げるときは、漁師が水の中に飛び込み、網の先端がバラけないようにします。漁師は何度も飛び込めなければならないので、裸で漁をすることになります。


(3)主が現れて弟子たちに声をかける

弟子たちは夜通し働いたが、何も取れませんでした。私たちにも似たような経験があるかもしれません。一生懸命働いたけれども、何の収穫もなかった。この時間は何だったろうと言うような経験。例えば出来高払いの販売訪問で商品が1つも売れないときや契約が取れなかったとき。しかし、「このような時でも、主イエスは彼らの近くにおられ、彼らを見ていた」のでした。

さて夜が明けそめたとき、イエス様が岸辺に立って弟子たちに声をかけます。「子供たちよ。食べるものがありませんね。」弟子たちは答えます。「はい。ありません」この時弟子たちは、声をかけた方が誰だかわかりません。するとその人が言います。「船の右側に網を下ろしなさい。そうすれば取れます。」弟子たちがそのとおりにすると夥しい魚が取れました。この時弟子のヨハネが、声をかけた方が主であることに気づき、ペテロに声をかけます。ペテロは裸でしたが、イエス様のところに行くため、上着をまとって湖に飛び込みます。すぐにもイエス様のもとに行きたかったペテロの気持ちが伺えます。


(4)主が弟子たちのために食事を用意される

陸地に上がった時、弟子たちは、主が自分たちのために食事を用意しておられるのに気づきました。炭火の上に乗せた魚とパンです。イエス様は言われました。「あなた方の今取った魚をいく匹か持ってきなさい」ペテロが取りに行きます。その後でイエス様は言われます。「さあ来て朝の食事をしなさい。」弟子たちは、イエス様からパンと魚を与えて頂きました。弟子たちは「あなたはどなたですか」とあえて尋ねませんでした。

パンと魚と言うと、皆さんは、イエス様が5つのパンと2匹の魚で群衆を養ったことや(マタイ14: 16〜21)、7つのパンと少しの魚で大勢の人を養った(マタイ15: 32〜37 )ことを思い出すかもしれません。

詩篇23編にこのような箇所があります。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。…私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。」

またマタイ6: 25には「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、蔵に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。」

このように、主は、私たちの生活を守られ、私たちを養ってくださる方です。


2イエス様のペテロへの問いかけ ( 21章15節から19節)


(1)イエス様がペテロに尋ねる

弟子たちの食事が終わったあと、イエス様はペテロに同じことを繰り返して尋ねます。「ヨハネの子シモン。あなたはこの人たち以上に、わたしを愛しますか」「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」この時、イエス様は「愛しますか」ということばに、「アガパオー」と言う動詞を用います。「 アガパオー」は、神の子たちに対する神の愛のような、高い献身を意味します。ここで、皆さんと、このように尋ねられた時のペテロの気持ちを考えてみたいと思います。


ペテロは、これまでのイエス様との関係を通して、イエス様が自分を愛していることはよく分かっていました。その上で尋ねていることも知っていました。ですから、イエス様のこの問いかけは、「わたしはあなたを愛している。あなたはどうですか」ということです。

ペテロは、イエス様が最後の晩餐の時に「私が行くところに、あなたは今はついてくることができません。」と言われたのに、「主よ。どこにおいでになるのですか。なぜ今あなたについていくことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」(ヨハネ13: 37)と言いました。また、「たとえ全部のものがつまずいても、私はつまずきません。」(マルコ14: 29)と、他の人と比べて自分を誇りました。

しかし、イエス様が十字架にかかる直前、大祭司の中庭で、人々から「あなたはイエスの弟子ではないか」と尋ねられ、三度イエス様を知らないと言いました。その直後鶏が鳴き、イエス様のことばを思い出して泣きました。

イエス様の要求する愛に応えられると思っていましたが、そうではないことが分かったのです。とてもアガパオーと言う言葉を使うことはできません。代わりに「友としての愛」を意味する「フィレオー」を使うことにしたのでしょう。

しかし、イエス様は3回目に、「アガパオー」ではなく、ペテロの使った「フィレオー」を使いました。「あなたは友としての私を愛しますか。」この時イエス様は、ペテロに高い献身を要求するのではなく、ペテロの素直な気持ちに寄り添って声をかけたのでしょう。

このようにイエス様は、私たちのことをよくご存じであられ、愛しておられる方なのです。


(2)ペテロの召命

イエス様はペテロの答えを聞いてから、ペテロに命じられます。「私の小羊を牧しなさい」「私の羊を牧しなさい」「私の羊を飼いなさい」ここは、信徒の群れである教会を神の羊に例えているのです。同じような箇所がヨハネの福音書10章にあります。

ヨハネの福音書10章14〜17節に、「わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしの命を捨てます。」とあります。

ペテロが始めてイエス様にお会いしたのは3年前でした。その時ペテロは、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言いました。そうしたところ、主は「これから後、あなたは人間をとるようになる」(ルカ5:10)と言われました。その時と同じような場所で、「私の羊を牧しなさい」「私の羊を飼いなさい」と話されました。ペテロには3年前のあの日のことがよみがえったことと思います。


(3)その後のペテロ

ペテロと弟子たちの信仰は、ペンテコステの後大きく変わります。イエス様がペテロに「立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)と言われたとおりに、ペテロは福音を大胆に語り始めます。そして教会の柱と重んじられ、主の民の羊飼いとして仕えました。そして老年になってから、十字架につけられ、殉教の死を遂げたといわれています。ペテロは、「フィレオー」ではなく「 アガパオー」でその後の生涯を送ったのでした。


3「あなたは、わたしを愛しますか 」


「神が御子を世に遣わされたのは、裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」 (ヨハネ3: 17)

皆さんは、聖書を読むとき、祈るとき、心があつくなることがあると思います。聖書にはこう書かれています。

ペテロの手紙第一T章8節「あなた方はイエスキリストを見たことがないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、言葉に尽くすことのできない、栄に満ちた喜びに踊っています。これは信仰の結果である、魂の救いを得ているからです。」これは十字架と復活により罪の許しと新しい命が与えられ、イエス様が共にいて下さるからです。

また、コリント人への手紙第一3章16節「あなた方は神の神殿であり、神の御霊があなた方に宿っておられることを知らないのですか。」私たち一人ひとりは神の神殿であり、神の御霊が私たちに宿っておられるのです。

その私たちに、主は尋ねられます。「あなたは、わたしを愛しますか。」皆さんは何と答えられますか。



説教:加藤 正伸 長老



<ヨハネの福音書 21章1〜19節>


1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。

2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。

3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。

5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。

10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」

11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。

12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。

13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。

15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」

16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」

17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」

19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」