2022年1月9日


「躊躇う彼らの手をつかんで」
創世記 19章1〜16節
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1.「前回」


 前回は、主がアブラハムに「ソドムとゴモラの罪は重いので、それをみてこようと思う」と伝えたのに対して、アブラハムは、主が、ソドムとゴモラに裁きを下されることを悟り、ソドムに50人、いや、10人の正しい人がいる場合、つまり、主の前に悔い改め、主のことばと恵みを信じ、より頼む人が10人でもいたら、それでも悔い改めない大勢の人と共にその10人をも滅ぼすのかと、尋ねました。主は、もし10人の正しい人がいるのなら滅ぼさないと約束してくださったのでした



2.「ソドムのロト」


「そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。」1節


 「二人の御使い」とある通り、主はソドムへと二人のみ使いを遣わしたのでした。ロトはソドムの門のところに座っていたとありますが、町の門は、コミュニティーの活動の重要な場所になり、人々が出入りする人通りの多いところになります。ロトは、彼らを見るなり、立ち上がり迎え、顔を地につけ伏し拝みました。そして2節です。


「そして言った。「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、お泊りください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」」2節


 ロトは、彼らを御使いとして認識していたかどうかはここでははっきりとはわかりません。なぜなら、英語では「ご主人」は、小文字で「lords」と書かれていて、18章初めで、アブラハムが「主よ」「Lord」と呼んだのと対照的です。み使いは、神ではないので「主よ」とは呼ばないのは当然なのですが、小文字の「lords」「ご主人様達」 は人にも使う言葉ですので、ロトが二人を天使と分かったのか、あるいは、優れた高尚な人間と見ていたのかはわかりません。しかし、彼が二人を見るなり迎え、顔を地につけて伏し拝んでいるのを見ると、天使であれ高尚な人であれ、神の使いであるとは分かったと言えるでしょう。そしてロトは、旅人をもてなすと言う事は、大事なことですので、18章でアブラハムが3人にしたのと同じように、自分たちのところに滞在するように言います。しかし御使い達は、「いや、わたしたちは広場に泊まろう。」と答えます。それは、彼らの「町の悪の叫びが本当であるかを見るため」と言う目的に沿っている答えと言えるでしょう。しかし、ロトは、3節。

「しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中に入った。ロトは彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。」3節


 ロトはしきりに勧めたとあります。なぜなら、ソドムの町の中心である広場は特にですが、ソドムの町の夜は非常に危険であり、罪が溢れていることを知っていたからだと言われています。ロトの勧めに従い、二人のみ使いは、ロトの家に滞在することにし、用意されたもてなしを受けるのですが、



3.「二人を守ろうとするロトの熱心」


A,「ソドムの悪」


「彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」4〜5節


 町中の若いものから年寄りまですべての人々が町の隅々からきて、ロトの家を取り囲みました。そして、その二人の訪問者を自分たちの前に連れ出すように言います。それは「彼らをよく知りたいのだ」とあります。Luthera StudyBibleの解説を見ると、それは、性的な関係を意味しており、ソドムには同性愛の罪が蔓延していたのだと書かれていました。いずれにしても、ロトのこの後の言葉からもわかるように、彼らは、その訪問者であるみ使いに悪を働こうとしていた事は明らかなようなのです。ロトは一人で、町の人々の前に出てきて、言います。7節以下ですが、


「そして言った。「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。お願いですから。私にはまだ男を知らないふたりの娘があります。娘たちをみなの前に連れて来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでください。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」7〜8節


B,「ロトの熱心:まず自分が主のために」

 訪問者をもてなすと言う事は、彼らの文化的には、極めて大事な道徳であり、その訪問者を見捨てると言う事は、ロトにはできなかったと言えるかもしれませんし、その二人が御使いであると言う認識があったとすれば尚のこと、彼がこの大きな困難を前に、み使いには悪い事はさせない、み使いを守らなければいけないと言う、熱心さがあったのかもしれません。しかし、彼は、もしそこに神のみ使いがいるのなら、み使いは神の御使いであり、神の御旨にしたがって助けることができる使いですから、主の前に、へり下り、すがり助けを求めることが何よりもできたことでしょう。しかしロトはそれをしません。彼はどこまでも自分のやり方と方法での熱心でしかなかったのです。彼の言葉は、表向きだけみれば、自分の娘さえも犠牲にして、み使いを守ろうとして、立派な献身の言葉と敬虔のように見えるかもしれません。しかし、人から出る、「まず私たちが神のために」と言う、律法を動機にした行動、つまり、「まず私たちが」ですから、まず人の行いや理性や判断により頼んだ、敬虔さや行動、福音や恵みからの信仰から生まれていない行動は、どこまでも罪深い、と言うのがその通りであることが、このロトの間違った熱心さや敬虔さにはよく現れているのです。なぜなら、二人の娘を犠牲にし、不幸にし、罪を犯させる形で、の解決など、主はなされないし、御心とされないし、喜ばれないし、それは明らかに罪であり、邪悪だからです。家族や愛する人を犠牲にする敬虔などあり得ないですし、それは、家族を愛していくために与えられている主からの召命にも反することです。


C,「真の行いは平安のうちに:イエスは、律法ではなく福音で遣わした。」

 神の信仰者への思いは、どこまでも愛と祝福であり、平安を与えることにあります。ですから罪という手段を持って表される敬虔などは望んでいないし、求めてもいません。だからこそ、福音を動機にして福音から生まれる、真の良い行いこそ主は求めておられ、それは、誰にも重荷を負わせるものではないし、誰も傷付けません。誰にも罪を犯させないし、誰も裁きませんし、誰も強制しません。福音は、平安と喜びを与えるものであり、そのような、人に強いたり、さばいたり、罪を犯させたり、律法が入り込む余地がないからです。それは、イエス様の言葉と十字架がもたらしたものが何であるかを、見れば明らかなんです。イエス様は罪人のところへ行きましたが、律法で悔い改めさせられ刺し通されて絶望にある人々に、決して、さらなる裁きや、強制や、罪の思いをさらに抱かせたり、罪の思いに苦しめたりするようなものは決してもたらしませんでした。取税人マタイもザアカイも、その他の罪人たちも、イエスからあなたの罪は赦されましたと言う福音によって、重荷を下され、平安になって、喜びと感謝を持って、外に出て行っているでしょう。彼らが、自分の財産で罪人の友人を集めてもてなしたことや、騙し取った人に倍にして返したとかは、イエスが、福音を語った後で、じゃあ、あなた方はそうしなさいと強いて、そうさせた、つまり、律法の言葉でそうさせたとは決して書かれていません。彼らは、福音の言葉によって罪の赦しと平安が与えられたその喜びの故にこそ、それに応えて自ら、そうしたでしょう。福音がそうさせたのです。律法から出る行い、律法によってさせる行いは、人に重荷を負わせたり、強いさせたりして、何かを犠牲にさせたりする、そのような方法にしかなり得ない。そして間違いと人間の罪深さが現れるだけであることが、このロトの対応には現れていることが教えられます。



4.「助けるのは、「ロトが」ではなく」


 事実、み使いは、そのようなロトの助けや解決法を必要としなかったでしょう。そのロトの言葉に対して9節


「しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来たくせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに会わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をしめた。家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸口を見つけるのに疲れ果てた。」9〜11節


A,「人が用いる律法」

 ロトの言葉は、人々に平安や解決を与えるどころか怒らせます。「裁き司のように振る舞っている」と言う言葉には、ロトの言葉の端々に見られる律法的な言葉を物語っています。もちろん、悪を行う者、特にパリサイ人のような人々に対しては偽善者と呼び、律法の言葉で断罪する事は、イエスでもしたことですし、預言者達もしたことであり、むしろそのような人々には、福音の言葉よりも断罪が必要なこととして書かれています。しかし預言者は、その名の通り、神の言葉を預かっている者であり、ただみ言葉の一箇所だけのつまみ食いで都合よく用いて語るようなことをせずに、正しい動機と正しい解釈で正しく伝えるために遣わされて語っていたのであり、神が神の道具として預言者を用いて、神が律法の言葉で神が断罪する、それが律法の言葉でした。ですからロトのように、人の思いと罪に溢れた提案で、自分の娘たちを犠牲にし不幸にするような提案は、人が人に対し用いる律法的な言葉に過ぎず、神からのものではなかったのでした。そのように律法の言葉は人が人に都合よく使っていい言葉ではなく、どこまでも神が人に用いる言葉なのです。


B,「主と御使いはロトに助けられる必要がない」

 そして、何より、自分の提案で窮地に陥ったのを助けたのは、ロト自身ではなく、そのロトが熱心で守ろうとしたはずの、み使い達であったでしょう。み使いは、手を差し伸べてロトを家に連れ込んで戸を閉めて、そして外の町中の人は目潰しをくらい目が一時的に見えなくなりました。このように御使いは、主に仕えて人に仕えるために遣わされているのであり、人によって、ロトの熱心によって支えられる必要も守られる必要も全くなかったのです。ロトは、自分の律法的な熱心さで主の使いを守ろうするのではなく、与えられている信仰を持って、主の前にへり下り、主に助けを求める、それだけで良かったのです。むしろそれ無しに、自分の思いのままに律法的な熱心さは主への高ぶりでしかなかったのでした。



5.「主が助ける」


 そして、最善の解決は、娘を犠牲にするとかそんな邪悪なことではなく、御使いの方からあるのです。


「ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」12〜13節


A,「冗談のように思う娘の婿」

 み使いは、ソドムを滅ぼすことを告げて、そして、家族全員に告げて街を出るように言うのでした。しかし


「そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちはには、それは冗談のように思われた。」14節


 ロトの娘達の婿は、ソドム出身の人々でした。彼らにも救いの言葉は語られました。町を出るようにと。彼らも主の言葉を受け入れれば救われたのです。しかし、彼らはその言葉を冗談のように思い、信じなかったのでした。そしてその豊かな欲望あふれる町であるソドムを捨てることを拒んだのでした。神の猶予や憐みは、このようにソドム出身の、ロトの娘達の婿にもあったのですが、彼らはそれを拒んだ。だから滅びるのです。そして、その人間の罪深さは、なんとロトと家族にさえ見ることができます。


B,「躊躇うロト」


「夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。―主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。」15〜16節


 み使いは裁きの時が迫っていることを告げ、さあ行きなさいと言います。しかし、16節。彼、つまりロトは「躊躇っていた」のです。ソドムの街や財産が惜しいと思ったのでしょうか、残される娘の婿達や家族のことを思ったのでしょうか?それとも外の自分に害を加えようとしている人々を恐れて外に行けなかったのでしょうか?その理由は書かれていませんが、ロトは主のことばに躊躇っているのです。従おうとして躊躇する。そう彼は信仰者でありましたが罪人であり、弱さがあったのです。しかし誰もロトを責められません。それが人間であり、私たちであり、私自身であるからです。私自身、躊躇うものです。しかし、16節に、なんと言うことが書かれているでしょうか。


C,「御使いが手を掴み:主の彼に対する憐れみによる」


「〜すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。―主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。」16節


 罪深いロトとその家族、裁きを前にし、救いの言葉が招いているのに、躊躇ってしまうその罪深さ、それは私たち一人一人、私自身の罪深さであり弱さです。ロトは人間を表しているし、義人であり同時に罪人であるクリスチャンを表し、その弱さ罪深さを表しています。しかし、なんと言うことでしょう。主は、その弱り果て、躊躇っているロトを決して見捨てません。見捨てるどころか、ロトとその妻、その二人の娘の手をつかんでくださいました。そして、み使いが彼らを連れ出し、み使いが彼らを町の外に置いてくださったのです。彼ら自身が町の外に出たのではありません。罪深い躊躇って一歩を踏み出せない彼らを、主が、主の使いが、その彼らの手を掴み、連れ出し、町の外に置いたとあるのです。そこには「―主の彼に対するあわれみによる」とはっきりと書かれているでしょう。皆さんこれが私たちのクリスチャンに今日も語られている福音なのです。信仰が与えられ、み言葉が語られても躊躇いやすい私たち、しかし、主イエス様は、私たちをその裁きの中に放置され、見捨てたりは決してなされない。憐んでくださり、安全な場所に、平安に私たちをどこまでも導いてくださるのです。今日もイエスは、その福音を、「あなたの罪は赦されています。安心して行きなさい」と言ってくださっています。そして、律法ではなく、福音の言葉で、私たちに平安を与え、今週も導いてくださり、遣わしてくださるのです。ぜひ受けましょう。そして平安のうちに遣わされて行きましょう。




<創世記 19章1〜16節>


1 そのふたりの御使いは夕暮れにソドムに着いた。ロトはソドムの門のところにすわっていた。

 ロトは彼らを見るなり、立ち上がって彼らを迎え、顔を地につけて伏し拝んだ。

2 そして言った。「さあ、ご主人。どうか、あなたがたのしもべの家に立ち寄り、足を洗って、

 お泊まりください。そして、朝早く旅を続けてください。」すると彼らは言った。「いや、

 わたしたちは広場に泊まろう。」

3 しかし、彼がしきりに勧めたので、彼らは彼のところに向かい、彼の家の中に入った。ロトは

 彼らのためにごちそうを作り、パン種を入れないパンを焼いた。こうして彼らは食事をした。

4 彼らが床につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての

 人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。

5 そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいる

 のか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」

6 ロトは戸口にいる彼らのところに出て、うしろの戸をしめた。

7 そして言った。「兄弟たちよ。どうか悪いことはしないでください。

8 お願いですから。私にはまだ男を知らないふたりの娘があります。娘たちをみなの前に連れて

 来ますから、あなたがたの好きなようにしてください。ただ、あの人たちには何もしないでく

 ださい。あの人たちは私の屋根の下に身を寄せたのですから。」

9 しかし彼らは言った。「引っ込んでいろ。」そしてまた言った。「こいつはよそ者として来た

 くせに、さばきつかさのようにふるまっている。さあ、おまえを、あいつらよりもひどいめに

 会わせてやろう。」彼らはロトのからだを激しく押しつけ、戸を破ろうと近づいて来た。

10 すると、あの人たちが手を差し伸べて、ロトを自分たちのいる家の中に連れ込んで、戸をし

 めた。

11 家の戸口にいた者たちは、小さい者も大きい者もみな、目つぶしをくらったので、彼らは戸

 口を見つけるのに疲れ果てた。

12 ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなた

 の息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。

13 わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きく

 なったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」

14 そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出

 て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それ

 は冗談のように思われた。

15 夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここに

 いるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽

 くされてしまおう。」

16 しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手

 をつかんだ。−−主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。